第48話


 翌日、学校帰りに紅葉は銀行に立ち寄っていた。十万円を自身の口座から降ろした後、大切にそれを鞄にしまい込む。

 

 今まで師範が肩代わりしてくれた額には到底足りないかもしれないけれど、今の紅葉が払える範囲で誠意を見せたかったのだ。


 柔道をやっていたころは、まだ今みたいな派手な見た目ではなかったため、紅葉だと気づいてもらえるだろうかと不安になる。


 もう少し落ち着いた見た目にすべきだったかと後悔が過るが、ここで引き返せばどんどん行きづらくなるような気がして、勇気を出して柔道教室へ向かった。


 子供の頃はかなり遠く感じていたというのに、実際は紅葉が暮らしていたかつての家から二十分ほど歩けば着く距離にあった。


 大人になって、歩幅が変わったのだろう。

 視線も高くなって、広い視点から色々なものを見られるようになったのだ。


 教室に到着して、一度頬を強く叩いてから扉を開いた。


 中には小学生から高校生くらいまでの幅広い年代の男女が、道着を着て練習に励んでいる。


 「どちらさまですか」


 明らかに生徒ではない紅葉を不審に思ったのか、先生の一人に声を掛けられる。


 藤野という男性で、紅葉は彼からも教わったことがあるというのに。派手に着飾っているせいで、気づいてもらえていないのだ。


 「鈴木紅葉です」

 「え、鈴木?お前整形したのか?」

 「化粧です」


 咄嗟に言い返せば、驚きを隠せない様子で藤野はまじまじと紅葉を眺めていた。


 確かに化粧でかなり印象は違うが、鼻や輪郭などは変わっていないというのに。

 カラーコンタクトと髪色の偉大さをひしひしと感じさせられる。


 「何しに来たんだ?」

 「師範に、会いたくて……今日いますか?」


 目的をそのまま話せば、藤野はゆっくりと首を横に振った。

 そして、神野忠が年齢を理由に昨年退去してしまったことを聞かされる。


 「師範、最後まで鈴木のこと気に掛けてた。大丈夫だろうかって……ずっと、お前がここに帰ってくるの待ってたんだぞ」

 「そうなんですか……?」

 「時間があるなら、会いに行ってあげろ」


 藤野から神野忠が暮らす家の住所が記載された紙を渡される。少し遠いが、電車を乗り継げば一時間もしないうちに到着することができるだろう。


 藤野に深く頭を下げた後、紅葉は教室を後にして師範である神野のもとへ向かう。

 電車に揺られている間、まず何を言おうかと考えていた。


 ありがとうや、ごめんなさいなど言いたいことは沢山ある。

 けれど、厳しい神野のことだから、きちんと最初にケジメを付けなければ聞く耳を持ってはくれないだろう。


 どうしようかと考えている間に、神野が住む最寄り駅に到着をしてしまう。

 地図アプリを頼りに足を進めれば、昔ながらの和風な家の前で案内が終了した。


 表札を見れば、神野と記載されており、間違いなくここが師範の家なのだ。


 あの人のイメージ通りだと考えながら、そっとインターホンを押す。

 「はい」という応答する声は、あの頃と同じく低く特徴的だった。


 「鈴木です。鈴木紅葉です」


 声は情けないことに震えてしまっていた。

 柄にもなく緊張しているのだ。

 ガチャリと解錠する音が耳を掠める。


 横開きの扉から現れた師範は、あの頃よりも白髪が増えていた。

 この人も年を取ったのだと、実感させられる。


 「お久しぶりです」

 「何をしに来た」

 「えっと……お金、返しに来ました」


 鞄の中から銀行で下ろしたお金を入れた封筒を渡せば、神野は分かりやすく眉間にしわを寄せた。


 それを見て失敗した、と思った時にはもう遅く、どこか突き放したように冷たい声で返される。


 「帰れ。そんな金はいらない」

 「でも……待ってください」


 扉を閉められそうになって、慌てて手を差し込んでから力を込める。


 この人がどういう人なのかを、紅葉はすっかり忘れていた。


 損得感情では動かずに、ひたすらに正義感が強いのが神野忠という男なのだ。


 そんな彼が、お金を渡されて素直に受け取るはずがない。


 彼が欲しかったものは、もっと違うものだとようやく気付き、慌てて大声で声を荒げた。


 「ごめんなさい。勝手に辞めて、最低なことをしたって自分でも分かってます。謝りたくて、来たんです……けど、許してもらえなかったらって、怖くて回りくどいことをしました」


 深々と、神野忠に頭を下げる。「本当にすみませんでした」と声を震わせながら謝れば、彼を纏う雰囲気が変わったのが分かった。


 「どうして、辞めたんだ」


 問われて、一瞬自身の中で迷いが生じた。

 正直に話しても信じて貰えないトラウマは、完全に払拭されたわけではない。


 けれど、彩葉のおかげで信じて貰える喜びを知ったのだ。

 

 こんな自分でも、信じてくれる人がいる。


 守ろうとしてくれる誰かがいるのだから、もう怯える必要はないのだと、紅葉はありのままを神野に伝えた。


 柔道を始めた理由から、学校で起きてしまったことも全て、包み隠さず伝えれば、神野はみるみるうちに怒りを露わにした。


 その反応を見て、もっと早く正直に話せばよかったと思ってしまう。


 あの頃、母親にも、教師陣すらも紅葉の話に聞く耳を持ってくれなかったけれど、正義感の強い神野であれば違っただろう。


 紅葉の言葉を信じて、怒って学校に乗り込んでくれていたかもしれない。


 「……どうして、それを正直に話さなかった」

 「……誰も信じてくれなかったし、もし師範にも信じて貰えなかったらって……」


 あれ以上、誰かに否定されるのが怖かったのだ。

 

 紅葉という存在を蔑ろにされることが怖くて、神野と向き合わずに逃げ出した。


 きっと、紅葉のことを一番考えてくれていたのは彼だったというのに。


 「上がれ」


 部屋に招き入れられて、恐る恐る足を踏み入れる。


 ほんのりと線香の香りが立ち込めており、通された和室の部屋にて、その香りの根源を理解する。


 部屋の隅に置かれたお仏壇には、若い女性と小さな女の子の遺影が飾られていた。


 その少女はどこか神野に顔立ちが似ていて、彼女達が誰なのかを瞬時に察する。


 「この人たちって……」

 「私の、妻と娘だ。もう四十年は前に亡くなっている」


 初めて知る、師範の過去。


 てっきり独身なのかと思っていたが、彼にも昔は家庭があったのだ。


 温かい緑茶を出されて、そっと口を付ければ、途端に渋みが口内に広がった。


 相変わらず、濃いお茶が好きらしい。

 柔道教室の生徒たちは皆、神野が用意するお茶は渋くて嫌いだったけれど、厳しい彼にそれを言えるはずがなく我慢しながら飲み干していたのだ。


 懐かしさに浸っていれば、そっと神野が口を開く。

 低く特徴的な声に、紅葉はじっと耳を傾けた。


 「……お前と初めて会った時、亡くなった自分の娘と同じくらいの歳の子供が……母親を必死に守ろうとしている姿に放っておけなくなった。私が柔道を教えることでこの子が救われるならと……お前に技を教えた」


 こんなに、紅葉を大切に思ってくれている人に対して、本当にひどい仕打ちをしてしまったのだ。

 もう後悔しても遅いことは分かっていたけれど、罪悪感が胸の奥底からこみ上げてくる。


 「だから……本当にあの金はいらない。私の好意を、金で返そうとしないでくれ」

 「……すみませんでした」

 「お前が、今幸せなら、それでいい。高校もちゃんと行っているんだな」


 制服を着て来たため、今の紅葉の生活を察したのだろう。

 どうか安心させてやりたくて、今の紅葉の現状を話してゆく。


 「大学も行こうと思っています。できれば国立で、奨学金借りながら自分の力で」

 「……お前は根性があるからな。同い年の男が練習にこなくなっても、お前だけはいつも食らいついてきた。その根性があれば、どんな道でも生きていけるはずだ」


 神野の優しさに、ジンと心が温かくなる。

 きっと、本来父親というのは、彼のように言葉にせずとも包み込むような優しさを兼ね備えているものなのだろう。


 今の紅葉があるのは、間違いなく神野のおかげだ。


 腐っていた時期もあったが、彼の存在があったから、紅葉はギリギリのところで道を踏み外さずに済んだのだ。


 「あたし今、生きていて楽しいんです。師範のおかげで、大切な人と出会えました。本当にありがとうございます」

 「今度、連れてきなさい」


 一瞬、聞き間違いかと耳を疑う。

 しかし、神野はしっかりとこちらを見据えており、冗談で言ったわけではないことは明らかだった。


 「その……相手、女の子ですけど、いいんですか」

 「だからなんだ。お前が選んだ相手なら、きっと素敵な人なんだろう。愛する人を後ろめるような発言をするんじゃない」


 全てを受け入れてくれる神野の言葉に、素直に嬉しいと思ってしまう。

 こういった懐の広さに、幼い紅葉は憧れていたのだ。


 きっと、彩葉であれば神野も気にいるだろう。

 かつてのライバルと付き合っているなんて驚くだろうけど、絶対に受け入れてくれる。


 初の言う通り、周りをよく見なければといけないのだ。


 もう高校生で身長は伸び切っていて、高い所から色々なものを見られるようになったのだから、広い視野で物事を受け止めていかなければいけない。


 世界というのは、意外とそこまで紅葉に対して攻撃的ではなかった。


 見方を変えるだけで……今まで気づけなかっただけで、優しさで溢れていたのだ。


 愛されていることを受け入れることも、気づけることも、きっとまた強さの一つなのだ。

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