第46話


 父親の死に目に会えなかったせいか、いまいち実感が湧いてくれない。


 いまもこの世のどこかで生きているような錯覚を起こすが、確かに父親は息を引き取り、この世を去っているのだ。


 どこか足元がおぼつかないように、心はふらふらとしてしまっている。


 悲しいわけではないが、嬉しいわけでもない。

 どっちつかずの感情に戸惑いつつも、彩葉には父親が亡くなったことをさらりと告げることができていた。


 言葉を詰まらせることもなく、どちらかというと淡白な口調で起きたことだけを告げられたのだ。


 もしかしたら、生成しているのかもしれない。これで紅葉はあの父親の面影に囚われずに、好きなように生きることができる。


 きっと、そうだ。

 そうに決まっていると、身近な人の死に動揺をしていた紅葉は、自身の気持ちを勝手に決めつけてしまっていた。


 人が一人死んでも、何の支障もきたさずに今まで通りの日常は繰り広げられていく。


 著名人でもなければ、奇異な死因でもなかった父親の死は、世間一般ではたいしたことのない出来事の一つでしかない。


 学校では今まで通り通常授業が行われており、放課後には保護者を交えた三者面談が始まっていた。

 

 他の生徒が次々と面談を終わらせていく中、紅葉の母親は来てくれるはずもなく、最後の一人まで取り残されてしまっていた。


 授業の合間の休み時間。スマートフォンを弄っている初に声を掛ける。

 

 すでにお互いブレザーを着込んでおり、季節は十一月を迎えていた。


 「おばさん、三者面談来たんだね」

 「担任から連絡いったみたいでさ。パチンコ当たってテンション高かったみたいで、あっさり来て拍子抜けした」


 これが、紅葉と初の母親の決定的な違いだ。


 初の母親は放任気味だけれど、息子に対しての愛情が欠落しているわけではない。


 世間一般的な親に比べれば育児放棄と思われるような育て方をしているが、初のことは彼女なりに愛している。


 対して、紅葉の母親は娘のことをちっとも愛していない。


 寧ろ重荷のように思っており、父親の娘というだけで憎悪の念を抱いてしまっているのだ。


 家庭環境の悪さはどっこいどっこいだけれど、紅葉の場合は両親との仲は修復不可能なところまで来てしまっているのだ。


 放課後、紅葉は担任教師に職員室に呼び出されていた。


 理由は予想通り三者面談についてで、どうやら紅葉の母親と連絡が取れないらしい。


 あの人らしいと思いながら、どこか冷めた心で慣れたセリフを吐いていた。


 「あたし、一人でいいので。いつもそうだったから、今回もそれで大丈夫です」


 三者面談が行われるたびに、紅葉はいつも教師と二人で二者面談に変更してもらってきた。


 いつものことで、寧ろ紅葉にとってはそれが当たり前になってしまっている。


 それが紅葉にとっての普通なのだ。


 「鈴木はお母さんとあまり仲良くは無いのか」


 心配そうに問われるが、そもそも仲がいい、良くないのベクトルの話ではないのだ。


 あの父親の娘というだけで、母親は紅葉のことを心底嫌ってしまっている。


 暴力を振るって、自分を苦しめてきた男の子供を、彼女はもう愛することができなくなってしまっているのだ。


 「無理にとは言わないから、鈴木からも一度お母さんに頼んでみてくれないか。それでだめだったら、二者面談にしよう」


 その場では頷いていたが、紅葉は内心無理に決まっているだろうと悪態をついていた。


 寄り添って修復ができるなら、とっくにそうしている。


 どれだけこちらが歩み寄ろうとしても、走って逃げられてしまえば、もう手の施しようがないのだ。



 けれど、その日の晩。紅葉は出るわけがないと思いつつも、母親に電話を掛けていた。

 これで母親が出なければ、きっと担任も諦めるはずだ。


 紅葉を心底嫌っている母親が出るはずはないと決めつけていたというのに、数コール置いた後に彼女と電話がつながる。


 「もしもし……」

 『なによ。お金は無いわよ。入学金と制服代は払ってやったんだから、それ以外は自分で出す約束でしょうが』

 

 捲し立てるように、一方的に言葉を投げられる。

 

 キツク、早い口調。昔はもっとおっとりとした話し方だったというのに、その面影はどこにもない。


 どうやら、紅葉の母親はお金をせびるために電話をしてきたと勘違いをしているのだ。


 実の母親に電話をしただけで、そんな風に思われることにどこか切なさがこみ上げる。


 「違う、今度三者面談があるから」

 『行くわけないでしょ』

 「……だと思ったよ、じゃあね」

 『……あの人、死んだわね』


 すぐに通話を切ろうとすれば、意外なことにあちらから話題を振られて引き止められる。あの人というのは、父親のことだろう。


 「……お墓参り、行ったの?」

 『はあ?行く理由、ないもの』


 もう、この人はあの家族の形を記憶から消し去りたいのだろう。


 暴力を振るわれるおぞましい記憶を思い出させる、紅葉という存在も無かったことにしてしまいたいのだ。


 電話の向こう側から、かすかに小さな子供の声が聞こえてくる。それが誰のものなのか分からない。

 

 もしかしたら、母親の子供かもしれないし、あるいは恋人の連れ子という可能性もある。


 まだ三十五歳で若いのだから、新しい家族の形をスタートさせていても何ら不思議ではないのだ。


 電話を切る前に、紅葉は一つだけずっと気になっていたことを口にした。


 「あのさ、なんであの人から、もっと早く逃げなかったの」

 『……父親がいないと可哀そうだって周りも煩かったし……それに、あのときはお金も無かったもの』

 「……生活保護とか、シェルターとかいろいろあったでしょ」

 『なによそれ。生活保護なんてホームレスとかが受けるものでしょ』


 ソーシャルワーカーを目指すにあたって、紅葉は受験勉強と同時に色々と調べていた。


 DV被害にあった人にはきちんと支援策が存在することも、その時に初めて知ったのだ。


 生活保護だって規定は存在するものの、当時の状況であれば間違いなく通っただろう。


 やはり、無知が一番悲しいのだ。

 助けてくれる手段があるのに、それを知りえない。

 きっと、当時の母親が支援に在りつけていれば、もっと違う未来があったのではないだろうか。


 早く逃げられていれば、母親は精神を病むこともなく、紅葉に対して憎悪の感情を抱くこともなかったかもしれないのに。


 もう、どうやっても修復不可能なのだろうか。こみあげてくるものをぐっとこらえて、紅葉はあの頃のように母親を呼ぼうと口を開く。


 しかし、それは幼い子供の声に遮られてしまった。


 『ママー、お腹空いたよ』

 『ごめんね、もう切るから。手洗って待ってて』


 駄々をこねる子供に対する母親の声は、幼い頃に紅葉に対して掛けてくれたものと一緒だった。


 驚くほどやさしい声で、おっとりとした口調で慰めている。


 けれど、それは本当に一瞬で、紅葉に声を掛けるときには元に戻ってしまっていた。


 『あのさ、もう切っていい?こっちだって忙しいのよ』


 忌々しさを隠そうともしない、酷く冷たい声色。


 もう、嫌でも気づかされる。


 この人との関係を修復することは、絶対に不可能なのだ。


 「……元気でね。もう、電話しないから。そっちもそっちで、好きなように生きなよ」


 返事を聞かずに、一方的に電話を切る。


 酷くショックを受けているというのに、不思議と涙は流れてこなかった。


 薄々気づいていたことではあるし、ある程度予想はしていたからかもしれない。


 これが、最善の選択なのだ。


 互いが傷つかないために、互いを傷つけないために。

 距離を取ることでしか、二人の心を守ることが出来ない。

 もう絶対に修復ができない程、それくらい、手遅れなところまで来てしまっている現実。


 分かっていたことだというのに、いざ突き付けられると、ショックを拭いきることができなかった。




 翌日、三者面談に母親が来ないことを担任教師に告げれば、彼はどこか複雑そうな顔をしていた。

 何か言いたげだったが、上手い言葉が見当たらなかったのだろう。


 分かった、とだけ返されて、その日のうちに二者面談が行われた。


 放課後、誰もいない教室にて、担任教師と机を挟んで向かい合う。

 

 教師の手には紅葉が提出した進路調査票が握られていて、それを参考に面談は進んでいく。


 「鈴木は、福祉の道に進みたいのか」

 「はい。児童虐待や、他にも貧困家庭とか……そういう問題に携わりたいので」

 「すごく良い事だと思うけど、同じ道に進んだ卒業生の中にはきついって言ってるやつも結構いるぞ。特に虐待とかだと、精神面にもかなりくるぞ」

 「……先生、あたしの親がなんで来ないのか、分かってますよね」


 はっきりとした声で尋ねれば、担任は図星だったのか押し黙ってしまった。


 彼が紅葉のためにアドバイスをしてくれていることは分かっているが、もう紅葉の中では決心がついているのだ。


 「あたしみたいな子、助けてあげたいんです。家庭環境で人生が変わる子ってどうしてもいるから、そういう子を見捨てたくない」


 紅葉は何度も自分の生まれた環境を恨んで、人生に絶望をした。


 それでもこうしてここまで来れているのは、初の存在はもちろん、何が合っても紅葉を守ろうとしてくれた彩葉の存在があったからだ。


 家庭環境が悪くても、それ以外の人たちには恵まれたおかげで、今もこうして夢を見ることができている。


 「助けたいって、それだけじゃ夢をみる理由にはならないですか」

 「……いや、十分だ」


 絞り出すように、担任教師の声は震えていた。いつもの威勢のいい声はどこへやら、どこかか細いその声に戸惑ってしまう。


 どうしたのだと尋ねるよりも早く、彼は紅葉に向かって頭を下げた。


 「すまなかった……ちゃんと、周りの大人が見ててやるべきだったのに。今考えれば、鈴木の派手だった見た目や言動も、お前なりのSOSだったんだよな」


 なのに気づくことが出来ずにすまなかったと、担任教師は心底申し訳なさそうに紅葉に謝罪をした。

 

 あれほど紅葉を嫌い、問題児として扱ってきた彼が、だ。


 生徒指導の鬼と囁かれている彼の姿に驚きを隠すことができない。


 けれど、きっと普段怖い姿も、今の彼の姿も、どちらも紅葉のことを思っての行動だったのだ。


 紅葉を心配していたから、キツク叱りつけて、彼なりに正しい方向へ導こうとしていた。


 ただ決まりだからと校則を守らせようとしていたのではなく、紅葉が道を踏み外さないように、教師という立場から叱ってくれていたのだ。


 そんなことに気づかずに、口の悪い教師と毛嫌いしていた自分が恥ずかしくなる。


 「応援しているから、ちゃんとやれよ」

 「言われなくても、分かってるし」


 つい、いつもの癖で憎まれ口を叩けば、担任教師はどこかおかしそうに笑みを浮かべていた。


 それに釣られて、紅葉も口角を上げてしまう。


 眉間にしわを寄せた険しい顔しか知らなかったため、彼の笑顔はとても新鮮だった。


 きっと、お互い同じことを思っているのだろう。偏見的な目で見ていたのはお互い様だったのだ。


 希望大学の候補を幾つか告げれば、冬休みに学校で行われる冬期講習を勧められた。


 塾や予備校に通うよりもかなり費用を抑えられるらしく、二つ返事をした後に、それから幾つか会話を交えてようやく面談を終了する。


 時刻は既に十八時を回っており、秋口ということもあって窓から見える空は暗い。


 早く帰ろうと昇降口へ向かえば、見知った顔を見かけて慌てて駆け寄った。


 「彩葉、なにしてるの?」

 「一緒に帰ろうと思って、待ってた」

 「ずっと待ってたの?寒かったでしょ」

 「コーヒー飲んでたから、平気だよ」


 彩葉はそう言うものの、彼女の手はかなり冷たくて、嘘を突いていることは明らかだった。


 冷えてしまった手を包み込むように温めたあと、二人で手を繋ぎながら学校を後にする。


 肌寒く、もうすぐそこまで冬は来てしまっているのだ。


 向かい側から、母親に手を握られた小さな女の子がやってくる。


 ありふれた、なんてことない二人組だというのに、紅葉はなぜかその親子に目を奪われてしまっていた。


 「わたしね、きょう学校で褒められたの」

 「すごいね、なにしたの?」


 通りすがる瞬間、そんな会話が耳に聞こえてくる。


 あんな風に日常生活における何気ない会話を、母親と繰り広げた記憶は殆どない。


 握っている手に、ギュッと力を込める。


 父親の娘というだけで、母親から紅葉に対する愛情は欠落してしまったが、昔は違った。


 幼稚園に入る前までは、確かに優しかったのだ。


 だからこそ、母親を守りたいと思った。


 気づけば笑いかけてもらえず、蔑ろにされていたけれど、それでも母親を守ってあげたかった。


 母親が紅葉に対して冷たくなったのは、父親が暴力を振るうようになったことがきっかけだった。


 だから、暴力から守ってあげれば、もう一度母親が笑顔を向けてくれると信じていたのだ。


 どれだけ紅葉が力を付けても、結局あれから一度も笑みを見せてくれることはなかった。


 「めいちゃん、無理しないで」

 「……なにが」

 「思っていること、全部言っていいんだよ」


 優しい、聞きなれた彩葉の声。


 全てを受け入れてくれる彼女の優しい声色に釣られるように、紅葉は思っていることをそのまま打ち明けた。


 「あんな親さ、いなくなって本当に清々する。まじでめっちゃクズだから。あんなんでも親になれるんだから、びっくりするよね」

 「……めいちゃん」

 「なんか紅葉って名前つける親らしいっていうか。まあ、ほとんど思い出ないから、居てもいなくても一緒って感じなんだけど」

 「無理しないで」


 途端に、体がぬくもりに包まれる。

 背の高い彩葉に抱きしめられてしまえば、身長差もあるせいですっぽりと包み込まれてしまっていた。


 「十七年間、そうやって自分を慰めてきたんでしょう?」


 背中をさすられて、あまりにも優しい手つきにだんだんと視界がぼやけ始めた。


 ゆらゆらと揺れる視界の中、堪えるように下唇を噛みしめる。


 けれどそれはまったく逆効果で、寧ろ更に瞳の奥底から涙が込み上げてきてしまっていた。


 ずっと、傷つかないように。

 惨めにならないように。

 必死に言い訳をして、自分の心を守ってきた。


 あんな親がいなくても構わない。

 寧ろいない方が良い。

 私はなんとも思っていないと、そうやって言い訳をすることで心を守ろうとしてきていた。


 沢山傷ついた心は、それ以上傷つけられることを恐れたのだ。


 「もういいんだよ。そうやって自分を守らなくても。めいちゃんを傷つけるものは、もうないんだから」


 喉が、ヒリヒリと痛み始める。

 瞳からは大粒の雫が零れ落ち始め、はらはらと紅葉の頬を濡らしていた。


 今までずっと堪えていたもの。抑え込んでいた感情が、一気にこみ上げてくる。

 ずっと強がっていたけれど、本当はいつだって誰かにそんなことをしなくてもいいんだよと、言って欲しかったのだ。


 「……お弁当」


 ぽつりと、無意識に言葉が零れ落ちる。抑えが聞かなくなった感情は、次々に言葉を声にしてしまっていた。


 「運動会の時、一緒にお弁当食べたかった」


 色々な感情がせめぎ合い、紅葉は幼い子供のようにぼろぼろと涙を流して泣きじゃくっていた。


 とっくにキャパシティーは超えていたというのに、それでも無理やりに詰め込んでいた感情が一気に解放されていく。


 「発表会の時も、見に来て欲しかった。あたしも他の子みたいに、帰り道は手を繋いで帰りたかった」

 「……うん」

 「コンビニの弁当だって、好きじゃない……帰ってきたら、おかえりって言って欲しかった。誕生日も、せめておめでとうって言って欲しかったし……あたしのこと、信じて欲しかった……守って、欲しかった」

 「めいちゃん、頑張ったね……けどもう、頑張らなくてもいいんだよ。いっぱい、泣いて良いんだよ」


 嗚咽を上げて、沢山の涙を零していく。幼かった紅葉が流せなかった分も、次々と沢山の涙が溢れて止まらない。


 やさしく背中をさすられながら、彩葉の優しさに身をゆだねる。


 頑張ったねと、頑張らなくていいと言う言葉を同時に掛けられたことで、今日までもことも、これからのことも、どちらも救われたような気がしていた。


 今までの紅葉の人生を、肯定してくれた。側から見れば可哀そうな紅葉の過去も、受け入れて包み込んでくれている。


 何よりも大切で、愛している恋人が、全てを知ったうえでも優しく受け入れてくれるのだ。


 その優しさに、今だけは甘えていてもいいだろうか。

 また明日から、ちゃんと前を向くから、今まで泣けなかった分をすべて流しきってしまいたかった。


 しゃくりながら涙を流す紅葉を、彩葉はずっと優しく抱きしめてくれていた。


 その手つきが酷く優しくて、あまりにも優しすぎるから。

 涙がとめどなく零れる理由は、きっと彼女のおかげだと、ゆれる視界の中で紅葉はぼんやりと考えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る