第45話


 築六十年は優に超えている、1DKの木造建築アパート。


 駅からは二十分ほどで、初の家からも少し距離がある。


 三年前に母親とこの家を出てから、一度も訪れてはいない。

 紅葉と母親にとって、思い出したくない記憶を強制的に引っ張り出される場所なのだ。


 ギシギシと軋む階段を登り切り、懐かしさを感じつつ、以前住んでいた部屋の前で足を止めた。


 親戚曰、父親は離婚をしてからもずっとこの家に住み続けているらしい。あの男のことだから、部屋が広くなったと生成しているのだろう。


 そもそも、三人で暮らすにはあまりにも手狭すぎる部屋だった。


 いざ目のまえにすると、少し迷いが生じてしまう。会うのと同時に暴力を振るわれたら、と一瞬嫌な予感が過ったのだ。


 けれど、もしそうなったらやり返せばいいと自身を鼓舞する。


 今の紅葉は、あの頃とは違うのだと、そう言い聞かせながら鍵穴に差し込んで解錠をした。


 どうやら、鍵も取り換えずに以前のままらしい。


 ドアノブを捻って扉を開けば、途端にアルコールの香りが鼻孔を擽った。


 幼い頃に良く嗅いでいた、お酒の匂い。


 父親が暴力を振るうのは決まってお酒を飲んだ時で、幼い紅葉にとってはこの匂いは暴力が始まる合図のようなものだった。


 ローファーを脱いで部屋に上がりこめば、手狭なためすぐに部屋が広がっている。


 部屋中にはアルコールのビンと缶が散乱していて、部屋の真ん中には布団が引かれていた。


 そして、布団に横たわっている父親の姿に思わず目を疑った。


 やせ細っており、あの頃体格の良かった、恐怖の対象であった父親の面影はちっとも残っていなかった。


 「……誰だ」

 「あたしだけど」


 紅葉の声に、父親が驚いたようにこちらに視線を寄越した。目は充血しており、声もしゃがれている。


 人というのは、死ぬ前にはこんなにも変わり果てた姿になってしまうらしい。


 「病院、行かないの」

 「そんな金あるわけないだろ。あったら酒買うからな。保険だって入ってなかったし……もう、疲れたんだよ」


 そう言いながら、父親は枕元に置いていて缶チューハイを一気に煽った。まるで、自ら寿命を縮めるように。


 「俺が死んだら、遺産は全部紅葉にやるよ」

 「そんなお金ない癖に。そもそもいらないし……それに、その名前で呼ばないで」


 紅葉と書いて、めいぷる。

 幼い頃は何度もからかわれてきたし、今だって初対面の人には必ず驚かれる紅葉の名前。


 幼い頃に名前の由来を聞いたことがあったが、確か名前を付けるときにメープルをホットケーキに掛けて食べていたからだと聞かされていた。


 この名前自体は嫌いじゃないけれど、その由来の適当さにショックを受けて、人から呼ばれることが嫌になってしまったのだ。


 それから暫く沈黙が続く。あれほど罵倒してやると意気込んでいたというのに、いざとなると言葉は何も出てこなかった。


 恐怖心ではなく、変わり果てた父親の姿に掛ける言葉が浮かんでこないのだ。


 「なあ、紅葉……おまえが生まれる年に、キラキラネームってのが流行ったんだよ。テレビでもたくさん取り上げられてたし、それ専用の雑誌だってあったくらいだ」


 それは何となく耳にしたことがある話題だった。マスコミが大袈裟に煽ったこともあり、紅葉の同性代の子供は他の歳よりも、キラキラネームと呼ばれる珍しい名前が多いそうだ。


 父親のしゃがれ声に耳を傾ける。時折せき込んで聞きづらかったけれど、黙って父親の話を聞き続けた。


 「……お前が生まれるってことになって、俺はちょっと浮かれてたんだろうな。秋の季節で、紅葉と書いてめいぷるって……めちゃくちゃいいって思っちまったんだ」

 「あたしの名前って、メープルシロップ使ってるときに付けたんじゃないの」

 「違う……病室からな、たくさんの紅葉の木が見えたんだよ。あんな風に強く、たくましく咲き誇って欲しいって……そう思って、付けた。そしたら数年もしたらキラキラネームのブームは去って……悪いことをしたな」


 初めて聞いた、紅葉の名前の由来。ちゃんと理由が合って、父親なりに考えた末に子の名前を命名してくれていたのだ。


 生まれてくる子供のために、真剣に考えてくれていた。


 「もう、謝ってすむことじゃないか。俺は本当にごみ見たいな人間で、人生だったけど……紅葉が生まれたときは、腹の底から嬉しかった」

 「散々殴ったくせに、よく言うよ」


 嫌味だというのに、父親は紅葉の言葉に弱々しく頬を緩めた。

 今までに見たことがない程、優しい瞳に戸惑ってしまう。


 「……お前は、俺みたいになるなよ」


 その言葉に、なんと返事をしたのかよく覚えていない。


 頷いたのか、首を横に振ったのか。

 あるいは曖昧に濁してしまったのかもしれない。

 

 けれど、あの場で何と答えるのが正解なのか紅葉には分からなかった。


 大嫌いな父親の死を何度も願っていたというのに、いざ目の前にして情でも湧いてしまったのだろうか。


 いっそのこと会わなければよかったかもしれない。


 あのまま嫌いなままでいれた方がよっぽど楽だった。

 父親一人を悪者にしたてあげて、ひたすらに怒りと憎しみをぶつけていた方が、変な感情に戸惑うことも無かっただろう。


 あの人も、人間だった。

 悪魔ではなくて、紅葉の父親は確かに血の通った人間だったのだ。


 だからこそ、戸惑ってしまう。そんなにも愛してくれていたのに、どうして紅葉と母親に暴力を振るうようになったのだと、新たな疑問が生じてしまったのだ。


 けれど、その答えを聞けないまま日は流れ、数週間後。


 親戚経由で父親が亡くなったことを知らされた。

 

 遺体は直葬で、彼の死を悲しむ人間は殆どいなかったという。


 あれほど嫌っていた悪魔がこの世からいなくなったというのに、紅葉は手放しに喜ぶことができなかった。

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