第44話
紅葉が生まれた家庭は、お世辞にも裕福とは言い難く、どちらかといえばかなり貧困層の家庭だった。
可愛い洋服や、同年代の子供が持っているおもちゃなどを与えられた記憶は殆どない。
けれど、それでも紅葉は幸せだったのだ。
母親は酷く優しくて、父親も仕事で家にいることは少ないけれど、家にいるときはいつも紅葉を可愛がってくれた。
まだ、紅葉が幼稚園の頃までは、貧しいながらに幸せな家庭だったのだ。
それが壊れたのは、確か五歳の誕生日を迎えて少し経った頃だろうか。
父親が突然、母親に対して暴力を振るうようになったのだ。
日頃からお酒はよく飲んでいたけれど、アルコールに呑まれて暴力を振るっている姿は初めて見た。
ずっと、「ごめんなさい」と謝る母親に対して、父親は何度も拳で殴りつけていた。
一体なにが起きているのか、優しかった父親がどうして豹変してしまったのか、当時の紅葉はちっとも分からなかったけれど、あの頃はひたすらに痛めつけられている母親の味方をしたのだ。
逆上する父親の足にしがみついて、もうやめてあげてと泣き叫んだ。
その姿が癇に障ったのか、父親は紅葉に対しても暴力を振るうようになった。
それは日常的に行われて、毎日母親と部屋の隅っこで身を潜めていたのだ。
あれからずっと、紅葉にとって父親というのは、暴力を振るってくる悪魔のような存在だった。
力の弱い母親と紅葉に対して、殴る蹴るの暴力を振るってくる悪魔。
家というのは、紅葉に対して危害を加えてくる恐ろしい所で、あの場所でやすらげる時間なんてなかった。
父親の暴力が始まってから、優しかった母親の様子も少しずつ変わり始めた。
あまり笑わなくなり、紅葉に対しても笑みを向けてくれない。
次第に家にいる時間も少なくなり、学校行事などには何一つ参加をしてくれなくなった。
あの頃の紅葉はまだ幼くて、ひどく純粋だった。
母親が家に寄り付かなくなったのは父親がいるからで、笑わなくなったのも、暴力に怯えた心では上手く笑みを作れなくなってしまったと思ったのだ。
だから、柔道を始めた。自分と母親の身を守りたくて、力を付けようと思ったのだ。
元から運動神経は良かったためか、みるみるうちに腕は上達していき、微々たるものではあるが父親に対しても抵抗をできるようになっていった。
それが面白くなかったのか、紅葉からの復讐を恐れたのかは定かではないけれど、父親が殴ってくることは次第に減っていく。
ストレスを発散する方法を無くした父親はその分お酒やパチンコに明け暮れるようになっていったが、そんなの知ったことではない。
父親が暴力を振るわなくなって、これで母親が帰ってくると紅葉は思っていた。
優しくて、いつもニコニコしていた、大好きな母親。
きっと、またあの頃のように笑いかけてくれると思っていたのに、彼女は一度たりとも笑みを見せてくれることはなかった。
母親が紅葉を見る目は、父親を見るときと同じ冷たい瞳で、あの男の娘というだけで母親にとっては侮蔑する対象になってしまっていたのだ。
母親のために、柔道を始めたというのに。
これでは一体何のために力を付けたのだろうと迷いが生じてしまった時、あの事件が起こったのだ。
中学二年生の頃、教育実習生に体育館倉庫で押し倒された。
殆どの教師が真面目な教育実習生の味方をして、紅葉に対して疑いの目を向けていた時。
彼女は、呼んでも来てくれなかった。
怒って怒鳴りこんでくることをどこか期待していたというのに、母親は電話に出るや否や「うるさい」と言って切ったのだ。
その時点で、薄々察していた。
もう紅葉はあの男の子供というだけで心底嫌われているということを。
どれだけ努力をしても、もう修復できないところまで来てしまっている事実に、ようやく気付かされたのだ。
同年の秋ごろにようやく離婚をして、紅葉は母親に引き取られた。
往生際の悪い紅葉は、この時もどこか期待をしてしまっていたのだ。
もしかしたら、もう一度最初から始められるかもしれない。
あの頃のように、優しい母親にもどってくれるのではないかと。
母と新しい生活を送れるかと思っていたのに、そんな紅葉の期待とは裏腹に、彼女は「新しい恋人と暮らすから」と言って紅葉を追い出した。
家を出る直前、母親はまるで汚物を見るような目で紅葉を見下していた。
そして、「あんたさえいなければもっと早く離婚できたのに」と言い捨てたのだ。
酷くショックだったけれど、その場で泣いてしまえば紅葉の今までの努力を否定するような気がしてしまって、強がって「自分が選んだ男だろ、責任転嫁しないでくれる」と憎まれ口を叩いて家を飛び出したのだ。
そして、帰る家を失った紅葉を迎え入れてくれたのが初だった。
幼馴染の彼は紅葉の境遇に同情をして、共に傷を舐め合うことで互いの自我を保ってきたのだ。
可哀そうなモノ同士、一緒に寄り添い合ってきた。
そうでもしないと、きっとどちらも壊れてしまっていただろう。
思い出すだけでも息が詰まりそうになる、紅葉の辛い過去。
初以外の人に、ここまでありのままに話したのは初めてだった。
「ごめん、重いよね。まあ、もう昔のことだからさ」
重苦しい雰囲気を払拭させたくて、本心とは裏腹に明るい声を上げてしまう。
自分は気にしていないからと、心を守るために予防線を張ってしまうのは紅葉の悪い癖だ。
「めいちゃん、辛かったね……」
「大丈夫だって。もうずっとそうだったから、寧ろそれが当たり前みたいな感じだし。誕生日とかも、バースデーケーキなんて一度も出てきたことないの。プレゼントだってないし……だから、大丈夫だよ。彩葉が話を聞いてくれるだけで、すごく救われるんだ」
彩葉がいるだけで、紅葉は自分がどこか強い存在になれたような気がしてしまうのだ。
彼女が側にいるだけで、なんだって乗り越えられる。
大切な人の存在が、紅葉を強くしたのだろう。
きっと再会しても、彩葉がいる限り大丈夫なような気がした。
どんなにひどいことを言われても、罵られても、彼女がいれば何度でも立ち直れる。
どうせ相手は余命半ばもないのだから、寧ろ最後に会って文句の一つでも言ってやってもいいかもしれない。
何を言われても「あんたなんか居なくても生きていける」と言い放ってやりたい。
恐怖の対象だった悪魔のような父親に、最後に何かやり返してやりたいのだ。そうすれば、苦しかった過去を乗り越えられるような気がしていた。
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