第39話
集合場所までの道を歩いている間、彩葉はずっと紅葉の手を握ってくれていた。
人通りが多くなってもそれは変わらない。
十分間程歩いたところで、ようやく集合場所に到着する。
既に集合時刻は過ぎてしまっており、国際通りを観光していたグループはすべて集まってしまっていた。
実行委員長のくせに、一人で場を飛びだして皆に迷惑を掛けてしまっている。罪悪感が募るのが、きちんと担任教師の下まで足を運んだ。
「戻りました……すみません」
「鈴木」
名前を呼ばれて、肩を跳ねさせる。怒られてしまうのだろうかとギュッと目をつむるが、降り注いだ言葉は酷く優しいものだった。
「怪我はしてないのか」
まさか心配をされるとは思いもしなかった。恐る恐る目を開けば、並んでいる生徒たちがこちらに視線を寄越していることに気づく。
けれど、それは軽蔑などの蔑んだ視線ではなく、温もりのあるどこか暖かいものだった。
「ああいうときは、すぐに大人を呼べ、何かあったらどうする」
「……疑わないんですか」
「どういう意味だ」
「あたしが喧嘩吹っ掛けたとか……思ったりしないんですか」
「……最近の鈴木を見て、そう思う奴はいないよ」
あの担任教師が、紅葉の肩を持ってくれている。あれほど問題児と煙たがって、意見何てちっとも聞き入れてくれなかった彼が、だ。
信じられずに狼狽していれば、「鈴木さん」と高い声が聞こえて視線を移す。
そこには、さきほど紅葉が助けた女子生徒たちがいた。
「本当にありがとう。私たち、鈴木さんが助けてくれなかったらどうなってたか……」
「めちゃくちゃ格好良かったよ、あんなに強いなんて知らなかった」
頭を下げられて、お礼を言われる。自分の行った行為が、正当な評価を受ける。
至極当然のようなことだけど、今までの紅葉であればあり得ないことだ。
紅葉が変わったから、周囲から向けられる目も変わったのだ。
見直され、偏見を取り除いた純粋な目で、見てもらえるようになった。
「めい、無事でよかったよ」
「お前さ、まじで心臓に悪いからもうあんなことするなよ……幾ら柔道できるからってさぁ……」
初と琉風にもみくちゃにされながら、生徒の集団の中から紬の姿を見つけた。
先ほどのようにピースサインを向けられて、こちらを見ている他の生徒も、優しい目線を向けてくれている。
これも、すべて彩葉のおかげだ。
彼女がいなければ、紅葉はここまで来ることが出来なかった。
紅葉を見つけ出して、手を差し伸べてくれた。
一歩を踏み出す勇気を、紅葉は彩葉から教わったのだ。
感謝の気持ちと同じくらい、彩葉に対する愛おしさがこみ上げる。人を愛することの温かさも、すべて彼女が教えてくれたのだ。
大型バスに揺られて、一時間半ほど経った頃。ようやく、本日宿泊するホテルに到着する。
割り振られた部屋に同室の琉風と向かえば、オーシャンビューと謳われているだけあり、窓からは綺麗な海を見渡すことができた。
「すご、この部屋住みたいわ」
「ハワイの海とどっちが綺麗?」
「えー……どうだろう。どっちも綺麗だし、好みの問題じゃない?」
夕暮れ時ということもあり、オレンジ色を反射した海はこの時間ならではの魅力を持っていた。透き通ったエメラルドグリーンとはまた違う綺麗さに、つい目を奪われる。
「ちょっと、出かけてくる」
「いってら。私もたかつむのところ行こうかな」
修学旅行のしおりを片手に、紅葉はドキドキしながら彩葉の部屋に向かっていた。
しおりには全クラスの行動班と、部屋割り表がすべて記載されているのだ。
一つ上の階に上がってから、左から三番目の部屋のインターホンを押す。すぐに扉は開かれて、現れたのは彩葉と同室の大人しそうな女の子だった。
「鈴木さん、彩葉に用事?」
頷けば、ちょっと待っててと扉を閉められる。確かとても頭が良く、学年テストでは常にベスト十に入る生徒だったはずだ。
やはり優等生同士仲が良いのだなと考えつつ、彩葉の友好関係の広さに驚かされる。
派手目な生徒から大人しい生徒まで、分け隔てなく接する彩葉は皆から好かれているのだ。
同室の生徒が彩葉を呼びに扉を閉めてから、一分もしない間に再び扉が開かれた。
綺麗な黒髪をポニーテールに結わえており、初めて見る彩葉の姿に思わずときめいてしまう。
「めいちゃん、どうしたの」
「海、凄く綺麗だから……一緒に見たいなって」
つい、まどろっこしい言い方をしてしまう。
一緒に居たいから、彩葉と話したいから。
そう素直に言えればいいのに、素直じゃない紅葉はなにか理由を付けてじゃないと誘えないのだ。
「いいよ。私も、めいちゃんと一緒に居たかったから」
手を取られて、彼女が歩みだすのに釣られて紅葉も足を踏み出す。
ホテルを出てからビーチへ向かえば、ちらほらと砂浜には人気があった。
お互い、何も言わずに足を進める。なるべく人が少ない所を探して、小さな洞窟のように岩で囲まれている箇所を見つけた。
丁度人もいなかったため、入り口付近に二人で並んで腰を掛ける。
目の前にはオレンジ色の海が広がっており、心地いい波の音が鼓膜を擽る。
ずっと見ていれば、そのまま吸い込まれてしまいそうなほど、キラキラと煌めいている海は紅葉を魅了していた。
「沖縄って凄いね。こんなに綺麗な海、初めて見た」
「私も。二泊三日って短いよね。これじゃあ満喫できないよ」
「じゃあ、もうちょっと大人になったら、二人で来ようよ」
勇気を出して誘えば、彩葉が満面の笑みを浮かべる。力強く頷かれて、紅葉も釣られるように口角が上がるのが分かった。
「絶対に行こうね。けど、本当にあっという間だったな。皆ね、めいちゃんの話題で持ちきりだったんだよ。凄い、カッコいいって」
「……彩葉のおかげだよ。彩葉が、あたしを変えてくれたから」
体制を変えて、彩葉と向き合う。ギュッと手を握りしめてから、一度大きく深呼吸をした。
不思議と落ち着いていて不安は無い。彩葉であれば、どんな紅葉の過去も受け入れてくれると、一緒にいるうちに確信をすることができたからだろう。
「……あたしが柔道をやめた理由、聞いて欲しいの」
「うん……」
「中学二年生の時、公式試合で彩葉に負けて……確かに、ショックだったよ。あの頃はあたしが師匠みたいなものだって思っていたから、弟子に負けたんだって落ち込んだ……でも、その悔しさでもっと頑張ろうって思えた。寧ろ、やる気に繋がったんだよ」
当時の気持ちを思い出しながら、ありのままを伝えてゆく。彩葉は静かに、紅葉の言葉に耳を傾けてくれていた。
「けど……」
そこから先を告げようとすれば、胸がドクンと嫌な音を立てた。
思い出したくないトラウマを思い出し、その時に負った心の傷がじくじくと痛み始めたのだ。
言葉を詰まらせる紅葉に対して、彩葉はそっと優しく手を握ってくれた。その手に自身の指を絡めて、心を奮い立たせる。
もう、あの頃の紅葉ではないのだから。
「彩葉に負けてすぐ、大学から教育実習生が来たの。男の人で、外面も良かったから皆から人気が合った。生徒からはもちろん、卒業生だったせいか教師からも可愛がられててさ」
あの男の顔を思い出すだけで、身の毛がよだつ。見た目は爽やかだというのに、ふとした時にねっとりとした気持ちの悪い視線を送ってきた、あの男。
「そいつ、あたしに対してだけなんか変なちょっかいかけてきてさ。なんだろ……二人でいるときだけ、セクハラみたいなことめっちゃ言ってくるの」
「なにそれ……」
「きもいよね。だから、結構皆の前でも反抗的な態度取ってた。他の先生に態度が悪いって注意されても、キモイから嫌いって言い返したりしちゃって……」
誰からも好かれる人気者の教育実習生を嫌う、素行のあまり良くない問題児。
きっと、はたから見れば紅葉が一方的に嫌っているだけだと思われていたのだろう。
だからこそ、誰も紅葉の言葉を信じずにあの男の肩を持ってしまったのだ。
「そいつに、部活終わりに備品片してたら……倉庫で押し倒されて。けど、警備員がすぐに見つけてくれたからたいして何もされずに終わったんだけど」
「酷い……押し倒されただけでも、十分ショックだよ……」
「うん……けどね、あたしがどんなに襲われかけたって言っても、誰も信じてくれなかった……素行良くない問題児が、一方的に嫌ってる人気者の先生を嵌めようとしてるって思われたんだろうね。それか……単にあたし自身に信用なかっただけかも。転んで覆いかぶさっただけだって嘘つかれて、しかも他の教師は皆それ信じちゃったの」
あの時の絶望感は、いまでも覚えている。
忘れた時なんて一度も無くて、思い出すだけで怒りと絶望で更に心を痛めつけるのだ。
「それで……まあ、あたしが襲われたってずっと言い張るから。とりあえず親を呼ぼうってことになったの」
このままでは収拾が付かないと、教師も手を焼いたのだろう。
大きくため息をついた後、当時の担任は紅葉の母親の携帯に電話を掛けた。
そして、その時の母親の行動が更に紅葉の心に追い打ちを掛けたのだ。
「あの人ね、電話に出て……話も聞かずに、うるさいって言って切ったの」
「……そんな」
「あたし……襲われかけたのに……学校では初以外誰も信じてくれないし、親すら心配してくれなかった。それから、なんか全部どうでも良くなって……なるべく学校にもいたくなかったし、何のために柔道をやってるのか分からなくなって、柔道をやめたの。ね?彩葉のせいじゃないでしょう」
安心をさせたくて口角を上げてみせるが、彩葉は依然として悲し気に目を細めていた。
優しい彼女は、きっと紅葉と同じ……あるいはそれ以上に胸を痛めているのかもしれない。
そんな彩葉の顔を見たくなくて、彼女の体を引き寄せる。それから優しく彼女の額と自分のおでこをくっ付けた。
「何その顔。もう……あの頃とは違うから、大丈夫だよ。だから……公園の時も、今日のことも凄く嬉しかった。彩葉はどんなときも、あたしの言葉を疑わずに信じてくれたから」
「だって、めいちゃんは良い子だもん。正義感が強くて、素直で、本当は誰よりも強くて優しい。嘘つけないところも、実は結構繊細なところも……全部可愛くて、大好きだよ」
嘘偽りのない彩葉の言葉。彼女から紡ぎ出される言葉はどれも優しいものばかりで、いつも紅葉を支えてくれているのだ。
黒目がちな瞳に吸い込まれるように、そっと、彼女の唇に自身のものを押し当てた。
途端に愛おしさや、慈しみたいという想いがこみ上げてくる。
一度唇を離して、じっと彩葉を見つめる。あれほど躊躇っていたというのに、驚くほどすんなりと、その二文字は紅葉の口から溢れ出していた。
「彩葉が好き。大好きだよ」
「うん……私も、めいちゃんが大好き」
好き、という二文字を大切に心に刻み込む。今までで一番、大切な意味が込められた二文字を、忘れないように。
いつでも思い出せるようにと、宝物のように自身の心にしまい込んだ。
嬉しそうに微笑んでいる彩葉を見て、今まで感じたことがないほどの幸せがこみ上げてくる。
それから、暫く手を繋いで、二人で夕暮れに照らされた海を眺めていた。
きっと、これから先もう一度この場所に訪れたとしても、今と同じ景色を眺めることはできないだろう。
だからこそ、この景色を一生忘れないようにと、じっくりと胸に刻み込んでいた。
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