第36話


 暗闇の中、紅葉は寝付くことができずにいた。何度寝返りを打っても、一向に眠気に襲われる気配はない。


 このまま寝転がっていても仕方ないと割り切って、壁を背中に預けて座り込む。部屋の隅には旅行用に新しく新調したリュックサックが二つ並んでいて、とうとう修学旅行前夜を迎えてしまっていた。

 

 スーツケースは既に学校を経由してホテルに送ってしまっている。


 「眠れねえの……?」


 どこか眠たげな声は、隣で眠っていたはずの初のものだった。恐らく、紅葉が眠れずに物音を立てたがために起こしてしまったのだろう。


 「ごめん、起こしちゃった?」

 「平気。明日朝早いから、寝てないと辛いぞ」


 布団から出た初は、紅葉の目の前に胡坐を搔いて座り込んだ。きっと、付き合いの長い彼は紅葉が何かに悩んでいることなんてお見通しなのだ。


 「なにかあった?」

 「……修学旅行で、彩葉に告白しようと思ってる」

  「まじか」

 「驚かないの?」

 「まあ……何となく見ていて分かったし。それに不安感じてるの?」


 ゆるゆると、首を横に振る。彩葉に告白することは緊張するけれど、不安ではない。ギュッと手の甲を握りしめながら、紅葉は正直に言葉を零した。


 「柔道、何で辞めたかも……言うって約束しちゃった」

 「あー……」


 複雑そうに、初は自分の頭を掻いていた。あの出来事の真実を唯一知る彼だからこそ、手放しに安心させる言葉を吐くことができないのだ。

 近くにいればいるほど、事情に精通しているから、気休めの言葉を囁いてあげられない。それは、紅葉だって同じだ。


 「めいは、あの事話すの平気なわけ」

 「自分でもよく分からない……でも、彩葉にだったら言ってもいいかなって……受け止めてくれるんじゃないかって、期待してる」

 「うん……俺もそう思う。修学旅行、いい旅になると良いな」


 大きく頷いてから、布団に戻って、今度こそ眠りの世界に落ちていく。完全に不安が拭えたわけではないけれど、彩葉だったらと期待をしている心があることも確かなのだ。


 彼女の側にいて、一緒に過ごすうちに、紅葉は少しずつ変わっていった。

 彩葉の優しさと素直さに触れて、良い方向へ変わることが出来たのだ。


 だからこそ、そのきっかけを与えてくれた彩葉には本当のことを話して、紅葉の過去も全て受け入れて欲しいと……そんな我儘のような想いを抱えてしまっていた。


 翌朝、いつもよりかなり早い時間にセットされた目覚まし時計のアラームで、目を覚まさせられる。未だはっきりとしない思考の中で私服に着替えて、二人は電車を乗り継いでから空港へと向かっていた。

 

 修学旅行の間は制服ではなくて私服で行動することを許されており、皆思い思いの格好で旅を楽しむことが出来るのだ。

 途中でコンビニに寄ってから、飛行機で食べるための朝食を購入する。


 空港に到着をして、言われていた通りに集合場所へ向かう。実行委員として各班の出欠を取ってから、ようやく飛行機の機体へ乗り込んだ。


 三人掛けの座席に、初を真ん中にして琉風と共に座る。皆がどこかソワソワとして落ち着かない様子で、この旅行を心待ちにしていたのは明らかだった。


 「俺、沖縄初めてだわ」

 「まじ?那覇って名前に入ってるから、沖縄の人かと思ってた」

 「母親は沖縄出身だけど、俺は行ったことないから」


 初は以前、どちらの祖父母にも会ったことがないと言っていた。顔は勿論のこと、名前すらあやふやらしい。

 年齢も勿論、どこに住んでいるかも分からないと言っていた。


 「だから、すげえ楽しみ」


 旅行雑誌を広げて、楽し気に笑みを浮かべている初を見て、どこかホッとしてしまう。初めて打ち明けられたとき、彼は酷く悲し気だったというのに。

 

 きっと夏休みの一件以来初は自身の生い立ちに関するコンプレックスを乗り越えることができているのだ。


 「超楽しもうね」


 声を掛ければ、明るい声が返ってくる。その声をとても明るくて、嘘偽りない初の本音であることは明らかだった。


 購入した朝食用のパンを開封して、挨拶をしてからかぶりつく。口内にじんわりとしたクリームの甘さが広がり始めて、思わず舌を鳴らす。


 新発売のため、ずっと味が気になっていたのだが、申し分ない美味しさだ。


 「めい、最近ちゃんといただきますって言うよね。彼氏でも出来た?」

 「は?なんでそうなるの」

 「なんだろ、そういうのって結構恋人に影響されない?癖とか、好きな食べ物とか。友達がいきなりロック聞くようになったと思ったら、新しく出来た彼氏の趣味だったとかよくあるじゃん」


 確かに、と思わず頷いてしまう。中学の頃に仲が良かった友人も、いきなり清楚な格好をし始めたと思ったら、好きな人が学級委員の真面目なタイプだった、ということもあった。


 いい意味でも悪い意味でも、好きな人の影響を受けるというのはよくあることなのだ。


 彩葉のおかげで、紅葉は当たり前のことを当たり前に出来るようになってきた気がする。


 いただきますというのも、自分の気持ちを自分自身で噛み砕けるようになることも。


 すべて、彩葉のおかげでできるようになったのだ。


 相手のために、変わりたいと思える。当たり前のように受け入れていたけれど、もっと彩葉に感謝をする必要があるのだと、心の隅でそんなことを考えていた。



 

 機体が沖縄に到着をして、紅葉達一行はクラスごとに大型バスに乗り込み、南部の方へと向かっていた。

 初日は戦争の跡地や慰霊碑に訪れて、沖縄の歴史を学ぶことが目的だ。

 重く悲しい過去に胸を痛めながら、しっかりと過去を受け入れる。東京に住んでいて、ここまで沖縄の戦争の歴史を深く学べる機会はなかなかない。

 実際に戦争を経験した女性の話を聞くときには、何人かの生徒が涙を流してしまっていた。


 紅葉もこみ上げてきたが、必死に抑え込む。一度流してしまえば、抑えきれずにとめどなく溢れてしまいそうだったのだ。

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