第18話


 夏休みに入ってからは、彩葉と週に二、三日ペースで遊んでいると言うのに、相変わらず下の名前で呼ぶことが出来ずにいた。


 依然としてどこか緊張してしまい、恥ずかしさが勝ってしまうのだ。


 気づけば既に八月に入って、季節は猛暑を迎えていた。この日は、彩葉と夏休み前に約束をしていた夏祭りへ行く予定だ。


 人混みに揉まれてしまうだろうから、ヒールの靴ではなくてフラットサンダルを履いて家を出る。


 浴衣を着て行こうか悩んだが、似合わないことは分かりきっているため、普段通りの私服で目一杯おしゃれをしていた。


 電車に乗れば、既に車内は夏祭りへ向かうであろう浴衣を着た人達で溢れていた。かなりの混雑具合に、思わず顔をしかめる。


 ひたすらに早く着いてと願うけれど、それで電車の速度が変わるはずもない。


 定刻通りに到着した電車を降りて、ゆっくりとした足取りで待ち合わせ場所である南口改札へと向かった。少し早めに着くようにしたため、時間にはまだ余裕がある。


 改札を抜ければひと際目立っている浴衣美人を見かける。チラチラと道行く人の視線を奪っている女性は、待ち合わせ相手である彩葉だ。


 白地の浴衣に、淡い藤の花柄の浴衣がとても似合っている。


 「水野」

 「めいちゃ……え、なんで浴衣じゃないの」


 開口一番に、酷く残念そうに文句を言われてしまう。確かに夏祭りといえば、多くの女性は浴衣を着るが、紅葉は似合わないため、あまり着たくないのだ。


 「だって、あたしが着ても変だし」

 「そんなことない。絶対に可愛いよ、私が保証する」

 「だから、その……バランスが……」


 それ以上言いたくなくて言葉を濁らせれば、彩葉が察したように紅葉の胸元に視線を落とした。


 けして小さいとは言い難く、どちらかと言えば大きい部類に入る紅葉の胸。浴衣を着ればそれが強調されてしまい、酷くバランスが悪く見えてしまうのだ。


 一度さらしを巻いて着たことも合ったが、キツク締めすぎてしまったのか気分が悪くなってしまった。


 「……ごめん、無神経だったね。めいちゃんの浴衣見たかったなって、わがまま言っちゃった」

 「ううん……あたしもその、浴衣嫌いじゃないから着たくないわけじゃないし」

 「そうなの?じゃあ、また今度見せてよ。人目が気になるなら二人のときでも」


 浴衣姿の彩葉がいつもより魅力的のせいか、気づけば素直に首を縦に振ってしまっていた。それくらい、今の彩葉は凄く可愛らしかったのだ。


 祭りの会場に足を踏み入れれば、屋台の賑やかさに一気に心を奪われる。金魚すくいにヨーヨー釣り。出店にはりんご飴や焼きそば屋が立ち並んでいる。


 「ね、どれからやる?」

 「私、射的やりたい」


 彩葉も珍しくはしゃいでいて、二人とも祭りの雰囲気に呑まれていた。子供の用にはしゃいで、思う存分祭りを満喫する。


 「これ美味しい。なんだっけ」

 「ラッシーだよ。あそこの屋台の人、普段はインドカレー屋さんやってるんだって」


 クオリティの高い理由に納得しながら、プラスチックカップに入ったラッシーを、ストローを使って飲み込む。


 彩葉の手にはりんご飴が握られていて、先ほどから彼女の唇はほんのりと赤く色づいてしまっていた。


 人はどんどん溢れて、少しでも気を抜けばはぐれそうになってしまいそうな状況だった。


 「今だけ手つながない?このままだったらはぐれちゃうよ」


 紅葉の返事を聞くよりも早く、手を取られて握りこまれる。


 あまりにもさりげない仕草にされるがままになってしまう。指を絡められ、まるで恋人のようにギュッと手を握り合う。


 鼓動はドキドキと早鳴っているというのに、その感覚は嫌ではない。寧ろ、どこか心地よさを覚えてしまっていた。


 バンッという破裂音と共に、頭上に満開の花が咲き誇る。この祭りの目玉である打ち上げ花火が始まったのだ。


 二人で手を繋いだまま、花火がよく見える河原へと移動した。斜面に腰を掛けて、夜空をキラキラと照らす花たちを眺めていた。


 「綺麗」


 隣から聞こえた声に、目線だけを彼女に移す。暗闇のせいか、彼女の色白い肌が余計に際立って見える。


 りんご飴の名残で未だに唇は赤く色づいていて、まさに綺麗だという二文字がぴったりだ。


 つい見とれていれば、不思議そうに彩葉がこちらに向き直る。咄嗟に目線を逸らそうとするが、彩葉が両手で紅葉の頬を包み込んだことで、それは叶わなかった。


 黒目がちの彩葉の視線と、強制的に向き合わされる。


 「めいちゃん、最近変だよ」

 「変って……?」

 「そわそわしてるっていうか、なにか私に言いたいことあるの?じっと見るのに、目が合うとすぐ逸らすじゃん」


 周りをよく見ている彩葉が、すぐ側にいる紅葉の変化に気づかないはずがなかったのだ。


 「それは……」

 「私、何かした?めいちゃんが嫌がることしちゃったのかなって……」


 不安そうに瞳を揺らしている彩葉を見て、罪悪感がこみ上げる。紅葉が一方的に意識をしているせいで、大切な友達を不安にさせてしまっているのだ。


 「……名前」

 「名前?」

 「私も、い、彩葉って呼びたい」


 恥ずかしさで、頬が赤くなっているのが自分でも分かった。

 たかが名前でここまで意識をしていたなんて、冷静になって考えてみれば、そんなことで?と自分でも思ってしまう。


 彩葉も意外だったのか、面食らったような顔をしていた。


 「それずっと言いたかったの?」

 「……だって、恥ずかしかったから。なんか、他の子だったら平気なのにみず……彩葉相手だとドキドキするし、自分でもよく分かんないから」


 未だに頬を包みこまれたまま、近距離で必死に想いを告げる。答えの分からない感情をどうすることもできずに、気づいたら溢れ出してしまっていたのだ。


 「めいちゃん」


 名前を呼ばれて顔を上げれば、彩葉の顔がこちらに近づいているのが分かった。一体何をするつもりなのかと、考えている間に右頬に柔らかい唇が当たる。


 頬にキスされたのだと理解して、体の奥底からブワリと何かがこみ上げてくる。辺りではいまだに花火が舞い上がっているというのに、もうそんなことどうでもよくなってしまっていた。


 ゆっくりと唇が離れてから、再び彩葉と向き直る。頬を真っ赤に染めて、あたふたする紅葉とは対照的に、彩葉はどこかしてやったりという顔を浮かべていた。


 「なんで、いま……」

 「なんでだと思う?」

 「……分かんないよ」

 「ちゃんと、自分で考えて。相手の気持ちも、自分の気持ちも。いまのめいちゃんなら、絶対にいつか分かる日が来るから」


 そう言われても、本当に分かるときが来るのかと不安に思ってしまう。しかし、彩葉はそれを見越したように、紅葉の手を取って、優しくギュッと握りしめた。


 「大丈夫だから。ほら、花火みよう」


 この話は終わりだろ言わんばかりに、彩葉はそれ以上喋らずに視線を花火へ戻してしまった。もうすぐフィナーレを迎えようとしているのか、先ほどに増して大きさも鮮やかさも桁違いだ。


 この場にいる皆が花火に夢中な中、紅葉は先ほど口づけられた右頬ばかりが気になってしまっていた。


 熱を持ったようにジンジンとしているそこを、繋いでいない方の手で、そっと撫でる。零れるため息は熱く、平常心を保つことで精一杯だ。


 体が薄っすらと火照るのも、先ほどからドキドキが止まらないのも、どうしてか分からない紅葉は全て夏の暑さのせいにするしかなかった。

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