第19話


 目が覚めて、ひんやりとした室内の温度に、紅葉は身震いをする。起き上がってクーラーの温度を確認すれば、昨晩寝る前に設定した温度より二度も下げられていた。


 風呂場の方からは優雅にシャワーの音が聞こえてきて、それが尚更紅葉の怒りを煽る。

 去年、暑がりの初がクーラーの温度を下げるあまり、紅葉は寝冷えによる風邪をひいてしまったのだ。


 それ以来、温度は二十六度にするように約束したというのに、初はすっかり忘れてしまったらしい。


 「ちょっと、初」


 風呂場に面する洗面所から声を掛ければ、キュッとシャワーの栓を締める音がする。直ぐに扉が開いて、何も纏っていない初が現れた。


 「うえ、朝から嫌なモノみた」

 「そりゃあないだろ。見ろよ、この肉体美」


 ボディビルダーのようにポーズを取っている初に腹が立って、クーラーのリモコンで軽く小突く。


 「あのさ、クーラーの温度下げないでよ。寒いから。てか、いつ帰ってきたの」

 「ごめんって。昨日は、確か夜中の一時くらい?終電で帰ったから」


 昨晩、紅葉が祭りから帰宅したとき、時刻は既に夜の二十二時を超えていた。


 同じく出かけている初はてっきり帰ってきていると思ったのに、彼は紅葉が就寝するまで、ずっとどこかをほっつき歩いていたのだ。


 長期休みのたびに、初は夜遊びを繰り返して、ろくにこの家に帰ってこなくなる。どこに行っているかは大方予想がついている。


 悪気は無いのか、問い詰めればいつも簡単に教えてくれるのだ。初の鎖骨下には濃い鬱血痕が付けられていて、紅葉は思わず眉を寄せた。


 「……ねぇ、初。また夜遊びしたでしょ。危ない目にあったらどうすんの」

 「なんで分かったわけ」

 「ここ」


 鎖骨下を指させば、初めて気づいたのか、驚いたような反応をしていた。あらかた、昨日の晩でも相手に付けられてしまったのだろう。


 「自分の体、そうやって安売りするのやめなって」

 「べつにいいだろ。相手、男だし。妊娠させる心配もないんだから」


 初が夜な夜な出向いているのは、同性愛者が集まる街である新宿二丁目だ。恋愛対象が男性である初は、快楽を求めてその日であったばかりの男性と体を重ねることを繰り返している。


 高校生になってから始まったそれは、どれだけ注意しても治ることはなかった。


 「何かあったらどうすんの。せめてさ、相手一人に絞りなって。もし病気とか掛かったら……」

 「はい、この話終わりな」


 これ以上聞きたくないと言わんばかりに、初は腰にバスタオルを巻いてから、耳を塞ぎながら居間の方へと行ってしまった。


 初には見境がない。性行為は気持ちいいからする、ただそれだけの行為だと言って、相手をとっかえひっかえしているのだ。


 どうして不特定多数の人と性行為をすることがいけないことなのか、そんな倫理観すら欠如してしまっている。


 どれだけ紅葉が引き止めようとしても、初は聞く耳を持ってはくれない。これ以上説教を聞きたくないと思ったのか、服を着てからすぐに、初はまたどこかへ出掛けてしまった。


 どうせまた、年上の男性の家にでも転がり込んでいるのだ。せめてどうか、事件には巻き込まれないようにと、今の紅葉には願うことしかできなかった。



 


 一人残された室内で、やることもない紅葉は勉強に取り組んでいた。夏休みが開ければ、学力テストが行われる。


 そこで赤点を取ってしまえば、定期テストと同様に補習に参加しなければいけないのだ。


 範囲は一年生の頃から、二年生の夏休みに入るまででかなり広い。

 一年生の教科書を引っ張り出して、試行錯誤しながら必死に問題に取り組んだ。


 もし、いい点を取れば彩葉から褒められるのではないかという下心も、紅葉のやる気を駆り立てる。


 長いこと机に向かって勉強をしていれば、室内にピンポーンというインターホンの音が鳴り響いた。 

 てっきり初が帰ってきたのかと思い、モニターを確認せずに玄関扉を開く。


「え……」

 

 しかし、そこにいたのは初ではなくて、ご機嫌な様子の彼の母親だった。相変わらずキツイ香水の香りを纏って、派手な化粧をしている。


 今年確か33歳を迎えるらしいが、その割にはちっとも落ち着きを感じられない風貌をしている。


 「あれ、めいちゃんだ。初は?」

 「今出かけてるよ。どうしたの」

 「パチンコ大当たりしたから、お裾分け。二人で使ってね」


 茶封筒を手渡されるが、中身は言わずとも分かった。小学校の頃から初の母親とは顔見知りだ。

 若くてきれいな母親として子供の間ではかなり人気があって、当時は紅葉もそんな初の母親を羨ましいと思っていたのだ。


 「じゃあ、用事も済んだし帰るね」

 「初に会わないの?」

 「あー、いいのいいの。会わなくても心は通じ合ってるからさ」


 そう言い残して、高いヒールをカツカツと鳴らしながら初の母親は帰っていった。一年ぶりくらいに会ったが、相変わらず明るい人だ。


 初の母親は、十六歳の頃に初を妊娠して、未婚のまま出産を経験している。

 高校を中退してから東京に上京してきて、それからずっと水商売で生計を立てているそうだ。


 初が中学生の頃から、母親は恋人の家を転々としていて、この家には殆ど帰って来ていない。


 けれどそれは、決して初に対しての愛情が欠落しているからではない。彼女なりに、初のことは大切に思って愛情を注いでいるつもりなのだ。


 ただ、単に彼氏といたいという願望を優先しているだけ。恋愛体質な彼女は少しでも長らく恋人といることを望み、悪気無く育児放棄をしている。


 一見、愛されているようには見えるため、周囲は初が育児放棄されていることに中々気づかない。紅葉だって、最初は彼女のことを優しい母親だと思っていたのだ。


 初はしっかりしているから、と口癖にして、ずっとほったらかしている彼の母親のことを、今となっては複雑な感情で見つめることしかできない。


 「初がああなったのも……」


 今朝の初との会話を思い出す。初が性的な倫理観が欠如してしまっているのは、間違いなく母親の影響だ。


 初がまだ小学生の頃。さすがに小学生を一人で家に残すのは悪いと思ったのか、彼女は自身の恋人をこの家に連れ込んでいたそうだ。


 そして、まだ幼い初がいるにもかかわらず、夜になればそういった行為を繰り返した。

 相手はいくつも変わり、母親のそんな姿を見せられれば、貞操観念がおかしくなっても何ら不思議ではない。


 何となく、初が自分と同じ人間であることは、小学校の頃から分かっていた。行事の時にいつも紅葉と初の親だけ来ていなかったし、教師に対する反抗的な態度を見て、似た者同士惹かれ合ったのだ。


 複雑な事情を全て知っているからこそ、初に対して強く注意できずにいるのだ。


 今の初を否定することは、今までの初の人生が間違っていると突きつけるようなもので、側で全てを見てきた紅葉にそれができるはずがない。


 二人は傷を舐め合うことはできても、正しい道に導き合えるような関係ではないのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る