第10話
放課後になって、彩葉と勉強をする予定だというのに、直ぐに図書室へ行くことができなかった。心が複雑な感情でぐるぐると渦巻いて、息苦しくて仕方ないのだ。
屋上へ行って、新鮮な空気をいっぱいに吸い込む。梅雨にしては珍しく、今日は晴天だというのに、紅葉の気持ちは晴れないままだった。
寝転がって、ジッと青空を見つめていれば、ガチャリと入り口の扉が開く音がした。
そちらへ視線を寄こせば、少し怒った様子の彩葉がこちらへ向かってくるのが見える。
「いた。図書室で待ち合わせって言ったじゃん。なんですっぽかすの」
もう、と彩葉が怒りながら、紅葉のおでこを指ではじく。力はあまり込められておらず、痛みは殆どない。
何かを言わなきゃいけないのに、喉が張り付いてしまったかのように上手く言葉が出てこなかった。彩葉も不審に思ったのか、心配そうにこちらを覗き込んできた。
「何かあったの?」
「……わかんない」
「わかんないって、どういうこと」
「ぐるぐるして、よくわかんない。今怒ってるのか、ショックなのか……自分の気持ちなのに、よく分かんない」
子供のように脈絡のない紅葉の言葉を、彩葉は黙って聞き続けた。
「普通とか、常識とか……そういうのも、分からない。知らない」
「めいちゃん……」
「高校生なのに、そんなことも分かんないって、やばいよね」
自分で言っておいて、こんなことを言われても困らせるだけだと気づく。
やっぱり気にしないで、と呟くのと、正面から彩葉に包み込まれたのはほぼ同時だった。
「……水野?」
「全然やばくない。大丈夫だよ」
トクン、トクンと彩葉の心臓の音が伝わってくる。同時に優しく背中をさすられて、どこか暖かい気持ちがこみ上げた。
「めいちゃんがいま、自分の気持ちを説明できないのは、言葉を知らないからだよ」
「言葉……?」
「ぴったりの言葉が、めいちゃんの心の中にはまだないの。……上手く、心が成長できていないのかも」
「じゃあ、もう手遅れなのかな……」
「大丈夫だよ。これから色んな経験をして、心を成長させればいいの。自分が何に対して、どんな思いを抱いているのか。ちゃんと自分と向き合えば分かるようになるから」
彩葉の言葉が荒んだ心にスーッと染み渡っていくのが分かる。大丈夫、なんて無責任な慰めでしかないと思っていたのに、彩葉に言われると本当にそんな気がしてしまうのだ。
「常識とか、そういうのも……周りをよくみて、規律を守っておけばそれでいいの。難しく考えずに、後ろ指を刺されるようなことをしなければいいんだよ」
「カラコンとかも、常識ないとか言われるのかな」
「うーん、とりあえず金髪にカラー入れてさ、トーン落としてみようよ。カラコンだって、もう少し黒目が小さいやつだったら怒られないんだよ。校則なんて、学校を出ちゃえば誰にも文句言われないんだから」
以前彩葉が言っていた、高校生活の間だけ頑張って我慢をする、という言葉を思い出す。あの時はよく分からなかったけれど、今なら何となく分かるような気がした。
「常識なんて、結構コミュニティごとに変わるものだよ。たとえば、うちの近くの私立高校はめいちゃんみたいな金髪も校則で許されてるの。正直私も馬鹿らしいって思うけど……私たちって一人では生きられないから、そこで生きていくためのルールを守って、皆で場を乱さないようにするの。意外と、ルールなんてまったく気にしていないめいちゃんを、羨ましく思っている人だっているかもよ」
優しい彼女の言葉に、どこか救われてしまう自分がいた。今まで誰に言われても納得できなかった理屈も、凄く正論のように耳に入ってくる。
きっといろいろな経験をして、彼女は酷く達観しているのだ。
彩葉のように、自分も早く成長したい。子供みたいに駄々を捏ねずに、一人の人間として大人になりたかった。
「早く、大人になりたい」
「え⁉」
抱きしめられていた腕を解かれて、勢いよく体を離される。驚いて目を瞬かせていれば、彩葉の頬はみるみるうちにピンク色に色付いていった。
「だめだよ、めいちゃん。そんなこと言ったら」
「は?なにが」
「男の人……いや、私みたいな、その……いろいろ考えている人の前で、今の言葉絶対言っちゃだめだからね。特に男の人」
しどろもどろに怒られるが、彩葉の言葉の意味がちっとも分からない。
「謎なんだけど」
「とにかくダメなの。約束して、分かった?」
「水野が言ってる意味は分かんないけど、もう言わないようにする」
よく分からないが、彼女がダメと言うことはあまり口にしない方がいい言葉だったのだろう。言い争っても仕方が無いので素直に引けば、彩葉は満足気に頷いていた。
せっかくだから、このまま屋上で勉強をしようという提案に乗って、二人で壁にもたれ掛かって参考書と向き合う。彩葉は、紅葉が授業中に理解できなかった箇所をまとめた紙をジッと見つめていた。
「めいちゃん、私が言ったとおりにしてくれたんだね、偉いよ」
「……子ども扱いすんな」
いい子いい子と言いながら、頭を撫でてこようとする手を払う。けれどそれも想定内だったのか、楽しそうに彩葉は口元の口角を上げていた。
彼女の言う通り、あらかじめ分からない箇所をまとめておいたおかげか、以前よりも短い時間で勉強を終えることができた。
丁度日も暮れ始めていたため、荷物を纏めて二人で屋上を後にする。夕日の差し込んだ階段を下りながら、紅葉はずっと気になっていた言葉をぽつりと零した。
「あのさ、あたしでも……」
「変われるよ。だって私たち、まだまだ子供だもん。良いようにも悪いようにも。幾らでも変われる」
途中で言い当てられてしまい、気恥ずかしさから「まだ何も言ってないじゃん」と可愛くないことを言ってしまう。
先ほどに比べて、何倍も心が軽くなっているのが分かる。大丈夫だと、そうやって励ましてくれる彩葉の存在が心強くて仕方なかった。
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