第9話
いつも通り初の家に帰れば、彼は先にコンビニで買った弁当を食べている途中だった。スマートフォンを弄りながら、トンカツを箸で突いている。制服から部屋着に着替えて、紅葉はふと気になったことを言葉にした。
「初さ、それ食べる前にいただきますって言った?」
「あー……意識してないけど、言ってないかも。なんで」
「知り合いが、いただきますって言うのが普通だって言ってたから」
ローテーブルの前に腰を掛けて、初と会話を続ける。スマートフォンから顔を上げて、初は考え込むように額を押さえた。
「確かに、俺も友達の家で飯食う時は、みんないただきますって言ってたわ。……普通は言うんだろうなって思った。たぶん、親とかにマナーだって教えられているんだろうな」
「そうなんだ……」
「まあ気にすんなって。普通とかさ、そういうのに憧れれば憧れるほど、面倒くさくなるって。俺らみたいなのは」
再び、初が食事を再開させる。正しくない、握り箸のような持ち方。
紅葉も同じように世間一般的には正しくない持ち方で食事をしている。間違った持ち方で食事をしても、食前食後に挨拶をしなくても、注意してくれる大人なんていなかった。
やはり、紅葉には普通や常識が欠陥しているのだ。皆が当たり前のように知っていることが分からない。それがどこか怖いと、不安に駆られてしまっていた。
自分にとっての普通と、誰かにとっての普通が違うと始めて気づいたのは、小学生の頃だった。入学して暫く経った頃に行われた、親子参加の遠足。クラスメイトの殆どが母親か、あるいは父親と参加している中で、紅葉は一人ぼっちだった。
両親は来てくれず、皆が楽しそうにしている姿を、離れたところから眺めることしかできなかったのだ。
そしてもう一人、両親が来てくれずに一人でポツンと佇んでいたのが、初だった。だからこそ、惹かれ合ったのだ。可愛そうなもの同士、気づけばいつも一緒にいるようになった。
だから、紅葉と初は普通の人にとっての普通がよく分からないのだ。普通じゃない環境で育ったってしまったから、皆がいう普通が分からない。
そして、それを誰に教わればいいのかも何も分からないままに大きくなってしまったのだ。
そんなことを一晩中考えていたせいか、上手く寝付けなかった紅葉は翌朝寝坊してしまっていた。初が起こしてくれた記憶はあるが、寝起きの悪い紅葉は「うるさい」と怒ってしまったのだ。
目を覚ました時には既に初の姿はなく、紅葉も朝ご飯を食べずに急いで学校へ向かう。遅刻が多い生徒は反省文を書かせられるのだが、その量が尋常じゃないのだ。
一度書かされて、もう二度と書きたくないとトラウマになってしまうほどだった。
走って学校へ向かえば、ギリギリ登校時間内に門を潜ることができた。ホッと胸を撫でおろすが、すぐに風紀委員の相川に声を掛けられて辟易させられる。毎朝行われる、校門の前での風紀委員による服装検査だ。
「鈴木さん、何度言ったら分かるんですか。みんな普通は一度注意すれば直しますよ」
毎度お馴染みの、相川のお説教。いつもだったら聞き流していたと言うのに、「普通」という言葉が引っ掛かってしまう。
「普通って、なに」
「校則を破らずに、きちんと勉強をして……」
「その普通って誰が決めたの」
「だから、世間一般的にみた常識のことですよ。鈴木さんもせっかくうちの高校に進学できたんですから、もっとちゃんと普通に……」
他意のない相川の言葉に、イライラしてしまう。紅葉が普通ではないと、自分を否定されたような気分になったのだ。
相川は間違ったことを言っていないというのに、八つ当たりのように睨みつけてしまう。
「うざい。そうやってさ、偉そうに説教してくんのイライラする」
紅葉の言葉に、相川は表情を変えずに聞き流していた。同じ土俵に立つ相手じゃないと言わんばかりに、ため息を吐いている。
まるで子供のように好き勝手した挙句、気に入らないことがあれば怒鳴りたてる。こんな人間が、普通なはずない。居たたまれなさから立ち去ろうとすれば、どこからか「うわ」と非難するような声が聞こえた。
「本当、DQNって話通じないよね。相川くん可哀そう」
自分に向けられた非難の言葉。何も間違っていない。だって、普通じゃない……間違っているのは紅葉の方なのだ。
初の「普通に憧れれば憧れるほど、自分たちみたいなのは面倒くさくなる」という言葉を思い出す。
今更、どうやって普通になれというのだろう。普通な環境で生きられず、普通を教えてもらえなかった自分たちが、どうやって普通の人生を送っていけばいいのか。
諦めているはずなのに、心のどこかで焦ってしまう。それはきっと、心のどこかで普通に憧れているからだと、紅葉だって気づいているのだ。
憧れているのに、どうすれば手に入るのかが分からない。だからこんなにも苛立っているのだと、荒んだ心でぼんやりと考えていた。
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