第7話


 彩葉との勉強会が始まって、あっという間に一か月が経過しようとしていた。春の暖かさはとうに過ぎ去って、最近は梅雨のせいでどこか肌寒い日々が続いている。


 紅葉のバイトがない日はほぼ毎日図書館にて勉強会は行われ、今日も例に倣って、彩葉に勉強を教わっていた。


 解き終わった参考書に丸を付けていた彩葉が、感心したような声を上げる。


 「うん、やっぱりどんどん丸が増えてるよ。めいちゃん飲み込み早いよね。やればできる子なんだ」

 「そりゃあ、やれば誰でもできるでしょ」

 「そんなことないよ。できない子は理解するまでに時間かかるし、定着するまでに時間が掛かるものなんだよ。めいちゃんは同じミスはしないし、どこが理解できないかちゃんと自分で分かってる」

 「お人よし」


 素直に褒められるのがこそばゆくて、つい憎まれ口を叩いてしまう。

 素直な彩葉は、相手を褒める言葉を躊躇わずに口にする。決して悪いことではない彼女の癖は、紅葉のような人間にはキラキラと眩しく見えてしまうのだ。


 「やればできるのに、どうして今までやらなかったの?」

 「だって、勉強するよりも楽しいことっていっぱいあるじゃん。時間勿体ない」

 「けど、今頑張れば将来楽できるよ。数年我慢すれば数十年楽できるんだから」


 確かにその理屈は間違っていないけれど、いまいち納得できない。今勉強を頑張ったとしても、紅葉は大学に進学するつもりはないのだ。


 彩葉のように良い大学に進学することを目標にしている人にとっては理にかなった理屈なのだろうが、紅葉のような人間には上手く心に響いてくれなかった。


 「けど、今しかできないこともあるじゃん」

 「たとえば?」

 「友達と遊んだり、とか」

 「他には?」

 「他に?えっと……」


 いざ考えてみれば、上手く思いつかなかった。頭を悩ませていれば、彩葉が何かを思いついたかのように「そうだ」と声を上げる。そして、参考書を閉じて荷物を片付け始めてしまった。


 「じゃあさ、普段私が勉強を教える代わりに、今日はめいちゃんが私に楽しいことを教えてよ」

 「はぁ?どういうこと」

 「めいちゃんが勉強より楽しくて、大切だと思うこと教えて」

 「なんで?水野って友達いないの」

 「いるよ。けど、私はめいちゃんとも友達になりたいの。あの頃から、私たち一度も友達になれたことはないから」


 あの頃、という言葉につい動きを止めてしまう。紅葉と同じように、彩葉もこちらに対して友情は感じていなかったらしい。 


 けれど、その言葉を聞いてもどう反応すればいいのか分からなかった。あの頃と、今は違う。彩葉は誰もが憧れる優等生で、たいして紅葉は学校の問題児なのだ。


 「……あのさ、普通に考えて、問題児と優等生が友達になれると思うわけ」

 「ヒーローとか、ライバルよりは友達になれると思ってるよ。だって私たち、今はただの同級生なんだから。それに補習の時間を遊びに使えるんだから、悪い話じゃないでしょう?」


 確かに、勉強せずに済むならその方が良いに決まっている。それにこれ以上友情について語り合っても、お互いの意見が対立して収集が付くとも思えなかった。



 学校を出た二人は、電車に揺られてある場所へと向かっていた。

 紅葉が好きな『にゃんぴょん』というキャラクターとスイーツバイキングがコラボを開催しているため、隣町まで足を運んでいるのだ。


 車内はかなり込み合っているため、つり革を掴んで二人で立ち並んでいた。ちらり、と隣を見やれば、自分よりも五センチ近く背の高い彩葉が視界に入る。


 昔は紅葉よりも小さかったというのに、随分と背が伸びてしまっていた。おまけに、成長期を迎えて、女性らしい体つきになっている。


 この美人が小学校の頃に虐められていたなんて、きっと今の高校で信じる人はいないのだろうと、ぼんやりと考える。


 紅葉と彩葉が出会ったのは、二人がまだ小学生の頃だった。当時の紅葉は、放課後になると柔道の習い事が無い日はいつも森ノ木公園へ向かっていた。

 家からはかなり遠かったが、身を隠せるツリーハウスを求めて足蹴もなく通っていたのだ。


 その日もいつも通り森ノ木公園に訪れれば、ツリーハウスの中で、全身を水浸しにさせながら、大粒の涙を流している彩葉と出会った。


 どうやら虐められていることを親にバレないようにするために、ツリーハウスの中でその痕跡を消そうとしていたのだ。


 同じ小学校ではなかったけれど、そんな彩葉のことを放っておくことができなかったのだ。


 『あんた、名前は』

 『……いろは。あなたは』

 『めい』


 今振り返っても、随分と素っ気ない態度だったと思う。女の子らしい服を着て、必死に落書きされたノートを消している彩葉の姿は、今でも記憶に残っている。


 『虐められてるの』

 『……うん』

 『やり返さないの』

 『だって、相手四人だもん。怖いよ』

 『悔しくないわけ』


 紅葉の言葉に、彩葉が悔しそうに俯く。ぎゅっと握りしめている両手は僅かに震えていて、返事は聞かずとも分かった。


 『……だって、どうしたらいいか分からないんだもん』

 『喧嘩は?したことないの』

 『叩いたりとか、暴力はお母さんがダメって言ってたし』

 『あほじゃん。それであんたがボコボコにされたら意味ないって。あのね、世の中いいやつばっかりじゃないんだよ。あんたが何もしなくても、嫌なことしてくる馬鹿はいっぱいいるの』


 彩葉の手を取って、ツリーハウスを降りる。この時彩葉を放っておけなかったのは、彼女に自分を重ねていたからだ。理不尽な理由で酷い目に合う彩葉を見て見ぬふりすることが出来なかった。


 『あたしが柔道教えてあげる』

 『柔道?やったことないよ』

 『だから、一からやるの。自分の身は自分で守るんだよ。いつも誰かが守ってくれるわけじゃないんだから』


 その日を機に、紅葉は彩葉に柔道を教えるようになった。最初は力も弱く、中々上達しなかった彩葉だけど、努力家な彼女は少しずつ技を覚えて、力を付けていった。そうして気づけば虐めっ子を自分の力でやっつけてしまったのだ。


 下を向いて、いつも泣いてばかりだった彩葉と、友達になるつもりはなかった。気の強い紅葉と性格が合うとは思えなかったし、あちらも自分に対して怖がっているのを感じ取っていたからだ。


 けれどお節介が働いてしまったため、彼女に手を差し伸べた。

 あの頃は体も小さく、力も弱い彩葉が自分を守れるように教えてあげたというのに。


 彩葉は柔道が楽しくなったのか、それからすぐに道場に通い始め、めきめきと力を付けていった。そして、まさか中学生になって、大会で再会した彩葉に試合で負けるなんて思いもしなかった。

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