第20話 教授と、学生。

「前代未聞だ。我が学部の職員が、倫理的に問題のある実験を行っていただなんて」

 四谷教授が荒い口調でそう告げる。僕は、椅子の上で小さくなっていた。


 心理学部教授会議。しかし定例の会議ではなく、僕の実験に対する審理を行うための緊急会議だった。


 僕の実験は当然、問題になった。


 被験者の学生たちはその後、ストレスによる気分障害を訴えた。名木橋が被験者各位に連絡を取り、実験後に体調の変化はないか、精神的負担はないかと聞いて回った。不調のあるなしにかかわらず、彼は一人ひとりと会ってカウンセリングをした……したらしかった。


 詳しいところは僕も知らない。僕はカウンセラーの資格を持っていない。しかし名木橋は、知人のカウンセラーにまで連絡を取ってこれらのことを実行した。カウンセリングには常に名木橋が同席し、被験者たちの変化を見守った。名木橋は、臨床心理士としての資格も持っていた。彼のカウンセリングの技術が、被験者たちを楽にしたのかは分からない。けれど、僕の失敗は拭われた。


 被験者の心理面接にかかわってくれたカウンセラーへの報酬は全て名木橋が支払おうとした。しかし僕が全額出資する旨、申し出た。半端な額ではなかったが、それがせめてもの……贖罪だった。


 九月後半。新しい学期が始まるとともに、次のような謝罪文を、心理学部は公式に発表した。


「去る八月、当学部の職員が行った実験で、体調不良を訴える学生が出ました。問題の実験が倫理的観点に欠けるところのある実験であったことをここに認め、公式に謝罪いたします。なお、体調不良を訴える学生の皆様におかれましては、以下の宛先に連絡を……」


 僕の処分を決める緊急会議には、心理学部に在籍する全職員が参加していた。非常勤講師も含め総勢一〇名。僕は四角形に並べられた机の、端の方の席に座っていた。四谷教授は僕の正面、ホワイトボードの近くに座っていた。名木橋は……僕の隣にいた。


 四谷教授が、僕の書きかけの論文タイトルを読み上げる。


「『悪魔のような人間を作ることは可能か――人を非倫理的行動に走らせる要因とは――』悪魔のような人間を作る? どうしてこんなのが通ると思ったんだね?」


 悪魔のような人間を作る。

 僕は、人が悪に染まる過程が知りたかった。人が非行に走る原因を、悪の誘惑に負ける理由を知りたかった。本当に、ただそれだけだった。純粋に学術的好奇心で実験に臨んでいるつもりだった。


 だが、そんな僕の脳裏では、あの言葉が蘇っていた。


――ああ、悪魔が来りて笛を吹く。父はとてもその日まで生きていることは出来ない。


『悪魔が来りて笛を吹く』の一節だ。いつでも諳んじられるあの一節。僕は、一つ、思うところがあった。


「悪魔」になるのは誰だ? 僕の研究要旨をまとめるとその一言に尽きる。


 僕は、悪魔を見つけようとしていた。悪魔を作り出そうとしていた。人の近くに潜んでいる悪を、環境の中に隠れた悪を見つけようとしていた。


 ところが悪魔は被験者の誰でもなかった。三浦でも、八番の長瀬でもない。本当の悪魔は……僕の探していた、正史の悪魔は……他の誰でもない、僕自身だったのだ。


「申し訳ありません」僕はそう言うしかなかった。「……申し訳ありません」


「研究計画書を読んだ。実験中の映像にも全て目を通した」

 四谷教授は追及の手を緩めない。

「何故研究計画にない介入をした?」


「結果が出ないと思ったからです」僕は小さく続ける。「焦っていました」


「研究の基礎がなっていない」

 四谷教授はほとんど怒鳴り散らしていた。

「学部生でも分かることだぞ」


「申し訳ありません」僕は謝り続ける。「来年の四月までに、論文を仕上げなければ、と焦っていました」


「……私のせいだと言いたいのかね?」四谷教授は静かに告げた。

「私は確かに、君に一年以内に一本の成果を求めた。しかし、こんな形で返されるとは……」

 

「申し訳ありません」僕は平身低頭する。

 四谷教授はそんな僕に最後通牒を突きつけた。


「学期が切り替わる時期だ。社会心理学の講義は通年単位だが、後期からは別の人間に担当してもらう」


 当然だった。僕はつぶやいた。「はい」


「そして、君からは准教授の地位も剥奪する。大学からも追放だ。今後一切、この大学の心理学部にかかわるな」


 強い口調だった。まるで威厳のある父のような。僕は頭を下げ続けた。

「はい」

 そう言うしか、ない。


「異論ある者は?」


 四谷教授が会議室中を見渡す。どうやら自分の決定に同意を求めているようだ。


 ……反対する奴なんて、いない。

 この学部で四谷教授に逆らうことがどういう意味かは分かっている。それは自分のキャリアも、研究者としての立場も危険に晒す行為だ。僕は横目で会議室中を見た。誰も何も言わない。そりゃそうだよな。僕をかばう奴なんて……そう思っていた時だった。


「問題の大きさを鑑みるに、彼からは准教授の立場を剥奪せざるを得ません。ですが、社会心理学の講師は彼しかいないと私は思います」


 名木橋だった。彼は挙手して意見を述べていた。

 名木橋は手元に何か資料を用意していた。彼はそれを見つめながら、不意に、まるで自身がまとめた研究結果を報告するかのように、立ち上がった。


「社会心理学の講義参加者について調べました。前任の北先生の時は、大型連休を挟むと出席者数が履修登録者数の四分の一になっていたのに対し、彼が担当するようになってからは僅か一〇〇名前後の減少で済んでいます。六〇〇名前後の履修登録者数の内、およそ五〇〇名近くの学生が出席していたことになる。これは、それだけ彼の講義が魅力的だったことを示しているのではないでしょうか」


「社会心理学は人気講義だ」

 四谷教授は厳しい表情を名木橋に向ける。

「講義自体の人気が高かっただけで、彼の功績ではない」


「私は彼の功績だと思います」


 名木橋は引かなかった。


「社会心理学の講義のレスポンス・ペーパー……授業感想用紙ですね……より、一部抜粋します。『群集心理が働くとどんなに危険でも人は周りの行動に同調してしまう。すごい研究だと思います!』『傍観者効果。これってもしかして、透明人間になれるってことですか?』『フット・イン・ザ・ドアテクニック、使ってみたいと思います!』……私も、いち講師としてこの大学で講義を担当させていただいていますが」


 名木橋は息を継いだ。


「学生からこんなにポジティブな反応を引き出せたことはありません」


「それは君の腕が悪いからだろう」

 四谷教授は軽蔑的に笑った。しかしその顔に名木橋は告げた。

「……非常に申し上げにくいのですが、四谷先生の講義は、観察している限り七割の学生が寝ています」


 四谷教授の表情が凍った。しかし名木橋は続けた。


「彼は、当学部の講師の中でも随一の腕前を誇る講師です。彼を除外したら、当然学生からの人気も落ちるでしょう」


「学生からの人気取りがしたくて講義をしているわけではない」

 四谷教授が冷たく言い放った。

「我々の本分は研究だ。その研究で、彼は失敗したのだ」


「彼は学生を、ひいては未来を育てられます」

 名木橋は引かない。一歩も、引かない。

「後進の人材を育てることも、我々の立派な仕事の一つです」


 四谷教授はため息をついた。重く強く、聞こえるように。それから口を開いた。

「この話をするのは、非常に残念なのだが」

 そう断ってから、教授は続けた。


「……名木橋くん。君は、特別研究に参画していたね。『半側空間無視とその病巣について』だったかな?」

「そうです」

 名木橋の言葉を聞いてから、四谷教授が静かに続けた。

「君は教授になりたい。違うかね」


「できれば、そうですね」

 名木橋は事も無げに答えた。


「最近結婚したそうじゃないか。奥さんは元気かね」

「ご心配には及びません」

「子供も、生まれたんだって?」

「ええ」


 四谷教授はもう一度ため息をつくと、両手を組み、名木橋を見つめた。


「私の意見に異を唱えるということはだ、名木橋くん。君の処遇も考えないといけないね。つまりは、連帯責任だ。その分、問題の彼の責任は軽くはなるだろうが、私は名木橋くんについても考えなければいけなくなるね」


「名木橋……」僕は小さな声で呼びかけた。必死に呼びかけた。届いてほしかった。僕の悲痛な声が、名木橋に、彼の耳に、届いてほしかった。


 耐えられなかった。名木橋が、僕の友人が、僕のせいでキャリアに傷をつけるだなんて、そんな結末、耐えられなかった。彼には妻もいる。彼には子供もいる。彼には守らなければならない家族がいる。そんな彼が、僕と同じ目に遭うくらいなら、いっそ僕の首を切ってくれた方がマシだった。だから僕は続けた。消え入りそうな、小さい声で。


「名木橋、いい。僕のことは、いい」


 しかし名木橋は片手で僕を制した。

 それから四谷教授に向かってハッキリ告げた。


「では、考えてください」


 その一言で会議は終わった。場に同席していた教員たちは、まるで宇宙人でも見るかのような目で名木橋を見つめていた。

 しかし彼は一人、手元の資料をまとめると、周りの視線は気にもかけず、真っ直ぐに会議室から出ていった。僕は慌ててその後に続いた。



「名木橋」

 心理学部棟の外。まだ残暑厳しい、むせ返るような空気の中で、僕は彼を呼び止めた。

「どうして……どうして僕を、かばった」

 

 すると彼は振り返った。それから、当たり前のことだ、と言わんばかりの調子で告げた。


「友達だからだ」


「友達って、お前……」

 馬鹿かよ。

 しかしその言葉が出なかった。嗚咽が漏れそうで、思わず口を手で覆う。名木橋は続けた。


「お前は准教授じゃなくなった」


 静かな声だった。


「けれど、失ったらまた、得ればいい。しっかり講義をしろ。学生から刺激を受ければ、またいい研究が浮かぶかもしれない。その時は真摯に、学問と向き合え。そうすればまた、准教授に……もちろん、教授にも……なれるかもしれない」


 手の隙間から嗚咽が漏れた。感情は胸の奥から無限に湧き上がってくるのだが、それを言葉にする方法が分からなかった。僕は混乱した。混乱したが、何とか、一つ、深呼吸をすると、必死の思いで言葉を紡いだ。


「失ったらまた、得ればいいのなら……」

 こんな時にこんな言葉しか吐けない僕は、本当に性根が腐っているな。そんなことを思いながら続けた。


「僕だって、失ったらまた得ればいいじゃないか。僕の代わりなんていくらでもいるだろう。僕なんかいなくてもいいだろう。僕である必要なんてないだろう」


 しかし名木橋は、僕から視線を逸らさなかった。


「駄目だ」ハッキリとそう告げる。

「お前は一人しかいない。俺の同僚は、俺の同期はお前一人しかいない。代わりは、いないんだ」

 お前は失ったら得られない。彼はそうも告げた。


「それに、お前は俺だけにとって大切な存在、という訳でもないようだぜ」

 不意に、名木橋が僕の背後に視線を飛ばした。

「客だぞ」


 客……? 僕は慌てて振り返った。さっき出てきた心理学部棟の入り口。そこに誰かがいた。

 まず真っ先に目に飛び込んできたのは、白くて綺麗な、スカートだった。ふんわりと風に揺れている。その脇にもう一人、デニム姿の人物がいた。僕が呆然としていると、スカートの方が僕に近寄ってきた。


「先生……?」

 涙で霞んでよく見えなかったが、どうやら僕の後ろにいたのは、女子学生のようだった。


「先生、大丈夫ですか?」


 僕に声をかけてくれた女子学生。


 それは、白川いずみさんだった。


 一緒に、中井英子さんもいる。デニム姿だ。彼女はひどく納得がいかないような顔をしていたが、しかし白川さんから離れるつもりはないようだった。


「先生、実験の時、体調が悪そうにしていましたよね」

 白川さんは、いつの間にか僕の背中を擦ってくれていた。

「大丈夫でしたか? 今もしんどいんですか?」


「君は、君は、どうして……」

 もう、訳が分からなかった。彼女が僕に優しく接してくれる意味が分からなかった。理由が、魂胆が分からなかった。心理学的に考えても、人間として考えても謎だらけだった。本当に、意味が分からない。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、僕は続けた。


「僕は、君に、ひどいことをしたのに……」


 すると白川さんは、優しく微笑んで僕の顔を覗き込んだ。

「先生は、私に色々教えてくれましたから」

 僕の背中を擦る手を止めず、彼女は続けた。


「私、馬鹿だから、毎週毎週似たようなことを質問しに行きました。けど、先生はいつでも、私に笑顔で教えてくれました。すごく、嬉しかった。いい先生だと思った。だから、だからね。私はね、先生」


 彼女はにっこりと、温かく笑って続けた。


「いつか、先生みたいになりたいんです」


 僕は膝から崩れ落ちた。耐え切れなくて嗚咽が漏れる。野獣の咆哮のような声が喉から出た。両手で地面を何度も殴った。拳に血が滲んだ。滲むくらいに殴り続けた。

 

 僕みたいになりたい? 彼女はそう言ったのか? こんな、悪魔のような、悪魔のような最低の屑人間なりたいと? 


 信じられなかった。彼女が言っていることは嘘だと思った。だが、胸から気持ちが溢れた。僕は何とかその気持ちを言葉にした。


「申し訳ない……本当に、申し訳ない……」

「謝らないでください」

「でも……本当に……ごめんなさい……」

「いいんです。謝らないで」

 

 白川さんはいつまでも優しく、僕の背中を擦っていた。


「また、素敵な講義をしてくださいね。私、後期の授業も楽しみにしています」


「学生の期待に応えるのも仕事の内だ」

 名木橋が僕の後ろで、静かにつぶやいた。

「しっかりやれよ」


 名木橋が去っていく足音が聞こえた。後には僕と、白川さんと、中井さんが残された。白川さんはずっと僕の背中を擦ってくれていた。時間にしてどれくらいかは分からない。多分五分か、一〇分程度のことだろう。だが僕には永遠に感じられた。僕はまるで赤ん坊みたいに泣き続けた。それは僕の終わりを示す泣き声でもあり、僕の誕生を示す泣き声でもあった。


 そろそろ夏が終わるのだろう。遠くでひぐらしが鳴いていた。


 了

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正史の悪魔 飯田太朗 @taroIda

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