第19話 中止と、救済。

 目に付いたのは、足元に置かれたスターバックスの袋、そしてグレーのスーツ、手に握られたタブレット、センスのいい……多分、タグホイヤーの……時計、それに、男でも息を呑むほどの端正な顔立ちだった。

 そうだ。彼は、いつだって、人の背後に回るのが得意だったっけ……。


 僕が振り返った先。

 そこにいたのは、あの、名木橋明だった。


「あ、名木橋ぃ」

 僕は彼を歓迎した。何だ、名木橋か……名木橋じゃないか。

「ちょうどよかった。僕は今、実験をしていて……」


「何をしている」

 しかし名木橋は厳しい表情で僕に迫ってきた。

「何をしている?」


 続けざまにそう訊かれる。僕は答える。


「何って、実験だよぉ」

 僕は笑った。


「ほら、四谷教授に言われていた、一年以内に一本の論文を……」

「違う、そうじゃない」


 名木橋は僕の目を覗き込んだ。僕を見下ろすように厳しく、僕に審判を下すかのように強く、見つめてきた。


 それは、真っ直ぐなまなざしだった。

 僕はその目を、以前にも見たことがある気がした。


 名木橋はすぐさま僕の目の前にある机に歩み寄ると、そこに置かれていたルールブックを手に取った。僕が作った、僕のゲームのルールブックだ。それから、モニターに目をやる。被験者たちが映っているモニター。彼は忙しく目を動かしてそれを見つめている。僕はその様子を、ぼんやりと眺めていた。すると、彼が振り返った。


「自分が何をしたのか分かっているのか?」


「は? 何?」

 いつかのように、僕は答えた。

 すると名木橋が僕に詰め寄った。


「この研究、今すぐやめろ!」


 それはあの日、彼が僕に放った言葉と同じだった。あの時と同じ強さ……いや、それ以上の何かを、彼は持っていた。その瞬間、僕は自分が修士時代に戻っている気がした。いや、戻っていた。


「え……」

 しかし僕は、彼が何を言っているのか分からなかった。だからへらへらと訊き返した。素直に。純粋に。

「え?」


 すると名木橋が憤った。


「今すぐこの実験をやめろ! そして、被験者たちを解放しろ!」

「ど、どうして……」僕は訊ねる。この実験を中止したら、僕は、僕は……。


 すると、名木橋は切迫した表情で僕に告げた。


「この実験には倫理的に問題がある!」


「問題?」僕はつぶやいた。「僕の実験に、問題?」


 そんな。そんなはずはない。


 僕の研究は、僕の実験は、事前に完璧に練り上げられていた。僕の実験に問題? 准教授の僕が作った実験だぞ。名木橋は、何を言って……。


「見ろ!」


 名木橋が僕の肩を乱暴に……それこそ、胸倉をつかむような勢いで乱暴に……引き寄せた。


「彼女を見ろ! この子だ!」

 名木橋はモニター番号三番を指差していた。モニターに突き刺さった、彼の細くて長い指が綺麗だった……なんて、僕はそんなことを思った。


 名木橋の怒鳴り声が耳に響いた。

「泣いている! 悲しんでいるんだ! お前さっき、不自然な介入をしていたな? 報酬をエサにして、不必要に被験者の不安や恐怖を煽っていたな?」


 彼はいつから僕を見ていたのだろう? そんな疑問が頭をよぎった。僕が三番に答えを迫っている時から? あるいは、もっと前から? 

 が、今はそんなことはどうでもよかった。


 僕はモニターの中の三番を見た。

 三番は……モニター番号三番、白川いずみは……しくしくと、絶望に打ちひしがれるように、泣いていた。


「分かんない。分かんないよ。ごめんなさい。先生、ごめんなさい。私、私、分からなくて、その、ごめんなさい。私、エーコのことも疑ってる……いい友達じゃない。全然いい友達じゃない。エーコはいつも、私のこと助けてくれるのに……肝心な時に、私は……最低。最低。私って最低。それに、被験者としても……ゲームを全然進められなくて……どうしよう、このままじゃ私、外れ値になっちゃう。せっかく先生が、報酬も払って企画してくれたのに、このままじゃ、このままじゃ……本当にごめんなさい。いい被験者じゃなくて、この実験に貢献できなくて」


「泣いている」僕は事実を話した。「彼女、泣いているぞ」

「ああ、そうだ。泣いている」名木橋の声が僕を落ち着かせた。


「どうして泣いているんだ……?」


 しかし僕は現実を受け入れられなかった。それは多分、認めたくなかったんだと思う。研究者として、この実験の企画者として、准教授として……すなわち、教育者として。


 そして、一人の人間として。


 名木橋は額に拳を当てる。


「迂闊だった……油断していた……もっとしっかり見ておけばよかった……俺の……俺の責任だ……定期観察を怠った……被害者は……この実験に何人参加した?」


 名木橋の問いに僕は答える。


「四〇人だ」

「四〇人?」

「ああ、一〇人×四回。今日が、四回目だ」


「四〇人……四〇人か」名木橋が額に当てていた拳を口元に持っていった。

「カバーし切れない数じゃない。実験としては中規模だな。これが最後の実験ということは、これ以上犠牲者は増えない……それが唯一の救いだ……おそらく、お前も最初の方は気を付けていただろうから……多分……」


 再び、名木橋が強い目線を僕に送ってきた。それはまるで、最後通告のようだった。


「この研究は人を傷つけるだけじゃなく、君自身も傷つける」

 名木橋が強い言葉でそう告げた。それはいつか、彼が僕に言った言葉と同じだった。再びかつての感覚が戻った。僕が名木橋と親しくなった頃の、修士時代の、あの感覚に。


 名木橋はさらに続けた。

「お前は被験者を道具のように扱っている! 被験者を実験用モルモットのように残酷に、粗雑に扱っている! 目を覚ませ。目を覚ますんだ!」


 その言葉でようやく目が覚めた。忘れていた呼吸を取り戻した。恍惚とした状態から、僕は瞬時に冷却され、現実に戻ってきた。僕は自分のしでかしたことの大きさに呆然とした。多分、そんな僕の様子が魂が抜けているみたいに見えたのだろう。名木橋は再び、僕の肩をつかむと大きく口を開いた。


「今すぐ情報開示をしろ! 被験者の不安を取り除け! カウンセリングも手配しろ! この実験を終わらせろ!」


「あ……あ……僕は……僕は……」

 混乱する僕を差し置いて、名木橋がモニター横のマイクに口を近づけた。


「実験は中止です。被験者各位。一度そのブースを出てください。全員、今から私の言う場所に集合してください。繰り返します。実験は中止です。被験者各位は一度そのブースを出て……」


 名木橋が必死にアナウンスしていた。僕はその様子を、ただぽかんと、見ていることしかできなかった。



「気持ちが悪いとか、頭がふらふらするとかいう被験者はいらっしゃいませんか? どんな些細な違和感でもいい。体調が悪い方、不快感を覚えている方はいらっしゃいませんか?」


 名木橋はセミナーハウスの玄関ホールに被験者を集めた。僕はそのホールの脇にあるベンチに、燃え尽きたように座っていた。


 名木橋が、手元の資料を見ながら指示を飛ばす。


「モニター番号三番の方……白川いずみさんですね。あなたは、こちらへ」


 しくしく泣いている白川さんを、名木橋は自分の横に連れていった。


「あの」

 モニター番号五番……中井英子が白川いずみの背中を擦る。

「私もついて行っていいですか?」


「構いません。あなたは大丈夫ですか?」

 名木橋が訊ねる。すると中井さんは答えた。

「ちょっとムカついてますけど、大丈夫です」


「ひぐっ、えぐっ、エーコぉ」

 白川いずみは中井英子の肩に身を寄せた。

「ごめん。私、ごめん」


「いいんだよ」中井さんは白川さんの頭を撫でた。

「大丈夫。もう大丈夫だから」


「二人とも、後で別室に来れますか?」

 名木橋だった。

「カウンセリングをしたい。一時的にかけられたストレスを軽減することが目的です」


 中井英子は試すように名木橋を見つめていたが、やがて頷いた。

「分かりました」


「他にも、体調不良を訴える方がいらっしゃれば、対応します」

 が、誰も何も言わなかった。全員、沈痛な面持ち。名木橋はその様子を見て口を開いた。

「……やはり、全員に対してカウンセリングを実施します。白川さんの後、モニター番号順に私のいる部屋に来てください。各自三〇分から四〇分程度、時間をもらいます。この後予定があるという方は手を挙げてください。優先的に対応します」


 沈黙。誰も何も言わない。夏休みで暇な学生が集まっていたのだろう。


「では、白川さんの後、モニター番号順に別室に来てください」


 それから名木橋は、僕の元へやって来ると囁いた。

「お前は座っていろ。しばらく休め」

「で、でも」と言い淀んだ僕に、名木橋は強く続けた。


「休め。これを飲んでおけ」

 名木橋が手渡して来たもの。

 それは、スターバックスのコーヒーだった。


 手にしたそれは、ほんのりと、温かかった。夏場なのにホットのコーヒーを持ってくるのがあいつらしかった。名木橋は熱いコーヒーが好きだった。


 白川さんと中井さんが名木橋に連れていかれる。彼はホールを去る時に一瞬、僕の方を見た。

 力強い目線だった。まるで、全てを任せろと言っているかのような。

 その目を見て、僕は、涙が出そうになった。手の中のコーヒーが温かかった。

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