第10話 悪魔が来りて、笛を吹く。
――ああ、悪魔が来りて笛を吹く。父はとてもその日まで生きていることは出来ない。
『悪魔が来りて笛を吹く』作中に出てくる椿子爵という人物の遺書である。僕はこの文章がとても気に入っている。頭の中でありありと、この遺書を読み上げている子爵の声が聞こえてきそうなくらい、気に入っている。
本を手に取る。「笛」。表紙にはそう書かれている。このところ、僕はずっとこの本をただ、読むでもなく、朗読する訳でもなく、眺めていることが多かった。
「そう言えば、君は今どんな研究をしているんだ?」
ある日の昼。名木橋と二人、学食で飯を食いながら話した。名木橋は六〇〇円の日替わりランチ、僕は四八〇円のかけそばを食べていた。二人並んで座りながら、僕は名木橋の研究テーマについて訊ねた。
「『半側空間無視の病巣について』だ」
名木橋は日替わりランチのラーメンを啜りながら答えた。
「半側空間無視って何だっけ」
僕は首を傾げた。
心理学は大きく理系的分野と文系的分野に分かれる。名木橋がやっている大脳生理学は理系的、医学的分野だ。一方、僕が専門にしている社会心理学は文系的、社会学的分野だ。同じ心理学でも扱う用語が大きく異なる。
「大脳の半球に障害が起きて半側のあらゆる刺激を無視してしまう障害だ」
……説明を受けても分からなかったので僕はさらに訊ねた。
「つまりどういう病気だ?」
すると名木橋は小さく笑って答えた。
「具体的な例を挙げると、視界の左半分を無視する。例えば円の図形なんかを見せて『見えたものを描いてください』と言うと綺麗な右側だけの半円を描く。決して左半分が『見えなく』なっている訳ではない。左側に注意を促すと認識する。見えてはいるんだ。ただ、患者の中で『左』という概念が消失している」
「はー」
すごい病気もあるものだ、と感心する。
「何で左側なんだ?」
僕の質問に、名木橋はラーメンを持ち上げた手を止める。
「右脳に病巣があった場合のみ、左側を無視する。体の左側は右脳がコントロールしているからな。逆に左脳がやられたら右側を無視するが、この場合は失語が前面に出ることが多い。左脳は言語野とも呼ばれていて、言葉を操る脳部位だからな」
「失語ってのは」
僕もそばを持ち上げた手を止める。
「しゃべれなくなるのか」
「簡単に言うとそうだ」
名木橋はラーメンを啜る。
「『しゃべる』以外にも、『書く』『読む』『聞く』に障害が出ることもある。ブローカ失語やウェルニッケ失語が有名だな」
「君は相変わらずすごいことを研究しているな」
僕もそばを啜った。
「そういや、准教授になった時の研究も右脳に関する研究だったっけ?」
「『右脳と歌唱能力の関係性について』」
早いもので、名木橋はあっという間にラーメンを食べ終わった。
「その関係で右脳について調べて、半側空間無視の研究に行きついた」
「忙しいのか」
このところ名木橋を学内で見かけない気がしたので僕は訊ねた。彼は頷いた。
「週に二回講義があるから、その時だけ大学に来る。それ以外は、近くの大学病院で脳溢血や脳腫瘍の患者なんかに研究協力を依頼して実験データを集めている」
……面白い話だと、と名木橋は続けた。
「脳腫瘍の患者からデータを取ることがある。彼らは脳外科手術で腫瘍を取り除く。その手術の最中に、麻酔を弱めて起きてもらう。そして実際に剥き出しの脳みそを触りながら、『ここを触るとどうですか?』なんてことを訊いて手術をする。いわゆる、覚醒下手術というやつだ」
あまりのことに、僕は持ち上げていたそばを、ぼちゃんと丼の中に落とした。
「頭を開いて直接脳を触るのか? 手術中の患者に起きてもらって?」
名木橋は頷く。
「そうだ」
「頭おかしいだろ……」
そばを食べる気を失くしたので、僕は一旦箸を置いた。
「『脳のどの場所がやられた場合に半側空間無視の障害が起きるのか』を知るためには実際の生きた患者が必要だ。死体じゃ研究できない。猿の脳みそでも限界はあるしな。その点、脳腫瘍の患者は、もうある部位が駄目になることは確実なんだ。だったら、研究のために力になってくれた方が建設的というものだ」
名木橋はスープを掬って飲んだ。
「面白いぞ。今度見学に来るか?」
「遠慮しとく」
お互い、しばしの沈黙。
気を取り直して僕はそばを啜る。すると今度は名木橋が訊ねてきた。
「そっちの研究は? 実験は始めたのか?」
僕はにやりと……名木橋に負けないくらい悪そうににやりと……笑った。
「被験者を募集した。ほら……」
僕は学食の掲示板を示した。
「募集のポスターを出した」
「なるほどな」掲示板まで少し距離があったので、名木橋は目を細めて掲示板を見つめた。
「『報酬、五〇〇〇円。拘束時間、約一時間』……時給五〇〇〇円か。奮発したな」
「まぁな」
名木橋はさらにポスターを見ながら続ける。
「『条件によっては報酬額が前後します』……? どういうことだ?」
「ゼロサムゲームをやってもらう」
頭のいい名木橋は僕のその一言で理解したようだ。
「なるほどな。簡単に言えばギャンブルか」
「ああ」僕もそばを食べ終わる。
食後、二人で学内を歩きながら話をした。
「君、ゼミは持たないのか」
僕の問いに名木橋は答えた。
「持たない。特別研究の最中だからな」
「特別研究……?」
僕は驚いた。
「大学の垣根を超えた研究、ってやつか」
「そうだ」
名木橋は短く答えた。
「さっき話した、半側空間無視の研究がそれだ」
僕は言葉を続ける。
「それって上手くいけば……」
「教授になれる」
名木橋は訳もない風に告げた。
「だから、頑張っている」
「もう教授になるのか」
僕たちはまだまだ三〇代だぞ? そんな言葉を飲み込む。
「君だって今や准教授だろう」
名木橋は涼しい顔をしてこちらを見てくる。
「いや、そうだが……」
僕の中で、ぼんやりとした影が生まれる。
僕は、自分の立場を守るための研究しかできていない。特別研究なんて、夢のまた夢だ。しかし、名木橋の奴はその夢のまた夢に挑んでいる。僕と同じ学年だったのに、僕と同い年なのに、僕の同僚なのに……。
「それじゃ、俺はここで」
名木橋が片手を上げる。
「大学病院に行かないといけないからな。今日は実験が三件控えている」
「あ、ああ……」僕も片手を上げて挨拶をする。名木橋は薄っすら笑顔を浮かべて告げた。
「研究、頑張れよ。応援している」
「ありがとう」
しかし僕の言葉を待たず、名木橋は颯爽と去っていった。僕はその姿を見送った。彼は大学構内のモノレール駅へと向かった。そんな彼の背中が遠く、小さく見えた。
僕は、僕は……。
気づけば、僕は名木橋の背中ではなく、足元に落ちる自分の影を見つめていた。
ゆらり。影が小さく、揺れた気がした。
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