第9話 自己認識と、情報の提示。

「名木橋」


 心理学部棟。二〇三号室。名木橋の研究室前でのことだ。


 僕は名木橋が朝早く研究室に来ることを知っていたから待ち伏せをした。午前七時。名木橋が階段を上ってやってくる。


「心理学部棟入り口の鍵が開いていると思ったら、君だったのか。どうした?」

 名木橋は研究室のドアを開けながら笑った。

「まぁ、入れよ」


 名木橋に言われるままに、僕は彼の研究室に入る。

 室内の様子は僕の予想通りだった。本がたくさん置かれている。だが予想外の要素として、本棚の脇には骨格標本があった。首から名札が下がっている。ビリー。そう書かれている。が、そんな骨格標本より気になるものが、僕にはあった。


「誰これ」


 眼鏡をかけた禿頭の男性の写真が、入って正面の窓の上に飾られていた。名木橋は笑って答える。


「平井太郎」

「誰それ」

「別名、江戸川乱歩だ」

「ああ」


 聞いたことはあった。どんな人かは知らない。ミステリー作家だっけか。横溝正史の名前すら最近になって認識した僕にはその程度の知識しかなかった。


 コーヒー、飲むか? 名木橋はそんなことを口にする。湯を沸かしている名木橋に、僕はゆっくりと訊ねた。

「相談があるんだ……研究のことについて。時間いいか?」

「ああ」名木橋はマグカップ片手に答える。「構わない」


「サクラについてなんだ」

「サクラ」


 僕は頭の中でまとめていた情報を吐きだした。

「実験にサクラを用意するのは手間もリスクもある。そのことは、君も分かるだろ?」

「分かる」名木橋は頷く。ごぼごぼと湯が沸く。コーヒーを淹れる名木橋。豆のいい香りがした。


「でも、どうしてもサクラを実験に使いたい。そこでだ……」

 僕はごくりと唾を飲んだ。

「サクラに偽の情報を提示するんだ。ほら、アッシュの実験で言うと……」

「……アッシュの同調実験のことを言ってるのか?」


「そうだ」僕は話を続ける。


「アッシュの実験で言うと、被験者とサクラとで見せる線分を変えようと思っているんだ」


 僕は息を継いだ。


「線分A、B、C、Dと四つあったとして、線分Aと線分Bの長さが等しかったとする。線分Cと線分Dは線分Aとは違う長さ。けれど線分Aと線分Cは長さの違いが僅かで、見ようによっては似ている」


 名木橋が条件を飲み込むのを待った。

 僕は続ける。


「被験者に見せる選択肢は、『線分Aに対して、線分B、C、D』。一方サクラには、『線分Aに対して、線分CとDしか見せない』んだ。するとどうなると思う?」


 少しの沈黙の後、名木橋は答えた。


「被験者は『線分Aと線分Bが等しい』と答え、サクラたちは『線分Aと線分Cが等しい』と答える。被験者が真実を言うのに対し、サクラたちは『嘘の情報』を言う。アッシュの実験は成立するな。『嘘を言うサクラたちと、真実を言うが周りの意見が自分の意見と違う被験者』という状況は似通う。もっとも、サクラたちは『真実を言っている』という自己認識でいる訳だが」


 名木橋の丁寧なまとめに僕は頷く。


「そうだ。僕が言いたいことの肝は『サクラに自分がサクラであることを認識させなかったらどうだろう?』あるいは『嘘の情報を提示して実験をしたらどうだろう?』っていうことなんだが……」


「ありだと思う」名木橋はコーヒーの入ったマグカップを僕の前に置いた。


「賢い手だな。サクラは自分がサクラであることを認識しないが、本物のサクラである場合と同じ行動をとる。それに、『嘘の情報を提示して実験を行う』ことは心理学じゃままある。実験後に『実は、あれは嘘でした』と情報の開示を行えば倫理的に問題はない」


 名木橋の言葉に僕は喜ぶ。

「そうか……! そうだよな! 君にそう言ってもらえて嬉しいよ」


 名木橋はにやりと笑った。悪そうな笑顔だ。彼は昔から、実験について話す時こんな顔をする。その笑顔が、たまらないという女学生……学生に限らないか……も多い。


「四谷教授が無茶を言ったそうだな」

 名木橋はコーヒーを飲む。

「一年で論文一本だろ?」


「そうなんだ」僕もコーヒーを飲む。緊張していたのだろうか。喉が渇いていた。ごくごくとブラックのコーヒーを飲む。

「もう七月だ。そろそろ実験をしないといけない」


「まぁ、焦るなよ」僕とは対照的に、名木橋はのんびりした口調だった。

「急いてはことを仕損じるぞ」


「准教授の立場を失いたくない」

 名木橋が本棚の脇の抽斗からティムタムを取り出してくるのを僕は見つめていた。

「やっとつかんだ地位なんだ」


「失ったら、また得ればいい」名木橋はティムタムをかじった。

「少なくとも、俺はそう思っている」


「君は優秀だから捨てられることなんかない」

「そうか?」


 名木橋が首を傾げたので僕は思い出した。彼が学部一年の時、当時付き合っていた先輩女子に捨てられたことを。


「俺だって捨てられたことはある」

 思考を読んだのだろうか。名木橋は真っ直ぐに僕を見据えていた。

 僕は思考を読み返した。


「……羨ましいな。君は『得た』ようだな」

 僕は名木橋の左手の薬指を見てつぶやいた。彼もそれに気づいたらしく、また悪そうににやりと笑って答えた。

「まぁな」


「いつ知り合ったんだ?」

「二七の時。右脳と歌唱能力の関係について研究をしていた時だ」


 名木橋が准教授になったばかりの時だ。僕は他学での教職に夢中になっていた。僕がこの大学から離れている間に、彼は嫁さんを見つけた、という訳か。


「いつ結婚した?」

「三一になる春。去年だ」


 根掘り葉掘り訊いたからだろうか。名木橋は表情を少し硬くした。彼の表情を和らげるために、僕は冗談を飛ばすことにした。


「新婚か。毎晩ベッドでひいひい言わせてるのか?」

「まぁな」僕の目論見はうまくいって、名木橋は下卑た笑いを浮かべた。男は下ネタを言っておけば明るくなる。

「いい女だからな」


「羨ましい」

 僕は舞のことを考えた。頭の中で舞を裸にする。と、不思議な劣等感に包まれた。

 僕だって女をひいひい言わせている。僕だって三〇代で准教授になれた。僕だって実験を企画できる。僕だって、僕だって……。


「実験、いつやるんだ」

 名木橋の問いに、僕は現実に引き戻された。

「来月にはやろうと思っている」

「被験者として参加しようか?」


 名木橋の申し出を、しかし僕は断った。名木橋のように賢い奴に参加してもらっても、実験のデータとしては扱いにくい極端な値、いわゆる外れ値を出すだけだろう。そう思ったからだ。


 そして実際、名木橋は学部生時代から「外れ値メーカー」として有名だった。優秀過ぎるのだ。言語性IQも動作性IQも、もちろん全検査IQも、全てずば抜けて高いのだから。


「『外れ値メーカー』がよく言うよ」

 僕が笑うと名木橋も笑った。

「悪いな」


「けれど、論文を書き上げたら、君に見せる」

 僕はコーヒーを飲み干し立ち上がった。

「添削してくれるか?」


「俺でよければ喜んで」

 見送るためか、名木橋も立ち上がった。

「北先生が死んだ今となっては、僕の論文を添削できるのなんか君しかいない」

 僕の賛辞に名木橋は喜んだ顔を見せた。


「またな」

「ああ」


 名木橋の研究室を出た僕は、強くはっきりとした自信と、妙な暗い感情とに支配されていた。

「僕だって……僕だって……」


 僕だって、「悪魔」を作り出せる。


 深呼吸をすると感情が落ち着いた。僕は早朝の心理学部棟を歩いて、自分の研究室に向かった。


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