第8話 先人の、実験。
心理学実験にサクラを用いることには賛否ある。いやむしろ、昨今の心理学事情では否の立場の方が強い。
簡単に否の立場の主張を紹介しよう。
まず、被験者はそこまで馬鹿じゃないという説。
サクラを混ぜて実験を行っても、敏感な人ならその場の空気を感じとって「これはおかしい」ということに気づく。人の「空気を読む」能力を馬鹿にしてはいけない。そういう説。
次に、質の高いサクラを見つけるのは難しい、という説。
サクラが実験中に笑いだしてしまった……。演技が下手な人物をサクラに設定してしまった……。その手の失敗談は後を絶えない。役者の門が狭き門であることからも分かるように、演技力のある人間はそういない。その辺の人間をサクラにすりゃいいってもんじゃない、という説。
心理学者なら、アッシュの実験の話は小耳に挟んだことがあるだろう。
「アッシュの同調実験」。アメリカの社会心理学者、ソロモン・アッシュが一九五〇年に行った、「明らかに間違っていることであっても、人は周りの人間の意見に影響を受けて同調する」ということを示した実験である。
実験の内容は簡単だ。
被験者に線分を見せる。次に、「先程見せた線分と同じ長さの線分を選んでください」と指示する。選択肢には明らかに間違っている線分と、正しい線分とがある。
ここでサクラの出番だ。
例えば、実験参加者が一〇人だとしたら、九人をサクラにする。本当の被験者はただ一人。残りの九人のサクラは、揃って「間違った線分」を選ぶ。
するとどうなるか。
残った一人の被験者も「間違った線分」を選ぶことが示されたのだ。
この実験はサクラの比率を変えても行われた。すなわち、一〇人中八人をサクラにした場合、七人をサクラにした場合、六人をサクラにした場合……と、様々なパターンを調べた。
その結果、「およそ三〇パーセントの人間が多数派の意見に盲目的に従ってしまうこと」、「多数派の内一人でも違う意見を述べたら被験者は正しい線を選ぶようになること」などが示された。
さて、この実験、実際に現代の学生でやってみたらどうなるか。
僕も他学の講義で経験がある。講義を聴きに来ている学生全員をサクラにして、遅刻してきた学生を被験者にする。やっていることはアッシュとほぼ同じである……サクラの規模は少々違うが。
すると先述のような問題が発生する。すなわち、被験者が「空気を読んでしまう」、あるいは「サクラが下手くそすぎる」などといった問題である。遅刻してきた学生が敏感に「おかしいぞ」ということを感じとるか、サクラの学生が笑いだしてしまうのである。
つまるところ、だ。僕は考える。
心理学実験にサクラを使う、という手はあまり賢くない。被験者をそこまで舐めてはいけないし、演技力の高いサクラを選出する手間もかかる。
協力者はいない方がいいのだ。
僕はそんな結論に行きついた。
これは孤高の実験になる。長い思考の末に行きついたこの結論に僕は昂った。考えてもみて欲しい。ある真理を明らかにするのに、誰かと手柄を山分けにする必要があるのか? ないとしたら? 真理の扉を開いた栄光を全て自分のものにできるとしたら? 僕の目の前の興奮は、そういうことである。
サクラは使わない方向にしよう。
僕はそう、判断を下す。
しかし、そうなるとどうやって「スポーツマンシップ」を封印しようか? その問題は依然として残る。今日の学校教育、ひいては部活動などのスポーツ、精神教育のおかげで、一般人には「卑怯なことはよくない」という洗脳がなされている……僕は教育者でもあるから、多くの人にそのバイアスがかかっていることはよく知っている。
被験者の頭の中からスポーツマンシップ・バイアスを取り除くには? その命題が僕の中に浮かんだ。
「悪魔」を作るにはスポーツマンシップ・バイアスを取り除かねばならない。被験者には利己的になってもらわねばならぬのだ。
一つの手として、被験者に女性を選ぶという手はある。
男性と女性、どちらが利己的かと言うと、子供を産み、育てる女性の方が利己的なのだ。一方で、人類の歴史的に狩りなど「他者との協力」が必要だった男性は利他的である傾向がある。もちろんただの傾向で、利他的な女性、利己的な男性というのもいるだろうが。
七月。そろそろ実験をしないといけなくなった。僕は少々焦った。スポーツマンシップの封印にここまで悩んでいる場合ではない。何か手はないか……。こういう時に、五年というブランクが問題になってくる。空白期間は痛い。
文献を読み漁る。僕と同じような悩みを抱えた心理学者……要するに、サクラを使わずに実験を行うことを考えた学者……はいるはずである。先人の知恵を借りようとしたのだ。
が、焦って読んでいるからか、なかなかいい情報には巡り合えなかった。手当たり次第に論文を読むことにも限界を覚え始める。
何か手は、いい手はないか……。
そんなことを考えながら舞とデートをした時だった。多分そろそろお気づきの方もいると思うが、舞は僕にとってまさに幸運の女神で、彼女といる時にいいアイディアに巡り合うことは多かった……そして舞は、上の空になっている僕にも決して文句は言わなかった。
「もう! 六時に来るって言ったから、待ってたじゃん!」
七月半ば。舞と渋谷で待ち合わせた時のことだった。
六時に渋谷。僕はどうやらLINEでそのようなことを言ったらしかった。全く覚えていない。ただ漠然と、夜に渋谷に行こうとしか思っていなかった。渋谷に着いたのは七時。舞から心配のLINEはあったが道中も上の空で気づいていなかった。
「あ、ごめん……」とつぶやいた時だ。僕の頭にひらめきが下りてきたのは。
六時に来ると言っていたから、六時に来ると思い込んでいた。
そりゃそうだ。いや、だが……しかし……もしかして、もしかして。
「舞」
彼女の名前を呼ぶ。
「何」
怒っている。だが僕は微笑んだ。
「舞を犯したい」
彼女の頬が赤くなることは、見なくても知っている。
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