第7話 研究計画、あるいはルール。

「せんせぇ、質問なんですけどぉ」

「ん? どれどれ」


 七回目の講義の後。

 僕のいる教壇の前には、女子学生が列をなしていた。およそ一〇人くらい。いつもこうだ。


 舞が心配する訳である。社会心理学の講義を行っているこの広い講堂で、僕は女子学生たちの視線を独り占めにしていた。……もっと有体に言おう。僕はモテた。


 最初は六〇〇人ほどいた学生たちも、ゴールデンウィークを跨ぐと五〇〇人弱に減った。ここまでは、よくある話。


 しかし講義の感想用紙を分析してみると、女子学生はきちんと講義を受けに来ていることが判明した。

 これは女子学生の方が真面目であることを示しているのと同時に、僕の人気ぶりを表しているように見えた。


 実際、講義が終わる度に、僕の目の前には女子学生が列をなした。僕の社会心理学ゼミに入るにはどうしたらいいか。そんなことを訊いてくる学生もいた。

 また、講堂を出て学内を歩いている時、僕の名前を口にして「かっこいいよね」と噂話をしている女子学生を見かけたこともあった。正直、頬の筋肉が緩む。


 楽しかった。准教授という仕事は本当に楽しかった。

 それは今までただの講師として働いていた時とは考えられない待遇だった。給与面でもそうだし、社会的信用、女性からのウケもいい。何より自分の、自分だけの研究室を持てることが嬉しかった。


 舞も僕が准教授になってから明らかに甘えてくるようになった。まるで付き合いたての頃のようなデートを何回もした。夜景をバックにキスをするとか、ラテアートのカフェでまったり雑談とか、夕方の公園を手を繋いで歩くとか。


 ただ問題は、この立場も来年の四月までに論文を出さなければ崩れ去る、ということだった。


 講義の後。あるいは、早朝。あるいは、夜中。

 僕は自分の研究室に籠って作業をした。


 研究計画書を書いていたのだ。


 僕の研究。『悪魔のような人間を作ることは可能か――人を非倫理的行動に走らせる要因とは――』


 悪魔。

 この悪魔を作り出す画期的な方法を、僕は思いついた。思いついてしまったのだ。

 それは先日ラブホテルで舞が僕に見せてくれたあの映画がきっかけだった。流行りのイケメン俳優が出ているとかいうあの映画だ。名前は確か、『3C』。


 デスゲーム。まるで人狼のような。


 被験者にゲームをしてもらおう。そう、僕は思いついたのだ。


 人狼のように、人の心を反映させるような心理戦のゲームをしてもらおう。そのゲームに、僕はゲームマスターとして「ルールの制定、違反の判定、脱落の判定」をするのだ。そして被験者たちの振舞いを観察する。


 ゲームの結果得られた被験者の行動を「倫理的行動」、「非倫理的行動」に分けて、その出現頻度を統計的に分析すれば、もしかしたら「悪魔」を作り出す方法、条件が分かるのではないか。そう、思ったのである。


 もちろん、これは実験である。僕の人文学的関心の下に行われる。だからフィクションの世界のデスゲームのように命は賭けない。だが、報酬は出そう。そうだな。一時間くらいの拘束で時給二〇〇〇〇円くらいでどうだろうか……いや、もちろん、例えば、の話であるが。


 人は報酬が絡むと行動や思考が変わる。簡単な例を出そう。


 フェスティンガー.Cという心理学者が行った実験がある。


 被験者である学生に、ある単純でつまらない軽作業を行わせる。その軽作業の報酬に一ドル払う被験者と、二〇ドル払う被験者とに分ける。


 その後、被験者に「軽作業がどれだけ楽しかったかをプレゼンする」よう指示する。つまらなかった軽作業を「楽しかった」と言う。嘘をついてもらうのだ。


 さて、一ドルしかもらえなかった学生と、二〇ドルももらった学生、どっちの嘘が上手かった……これはある客観的尺度で判定された……か? 


 一ドルしかもらえなかった学生の方が嘘が上手いと判定されたのである。これは、二〇ドルもらった学生はつまらない軽作業に対する「対価」として十分な額をもらったので、「嘘をつくモチベーションが低かった」ことが理由として考えられる。


 逆に言えば、一ドルしかもらえなかった学生の方は、「こんなつまらない作業をしたのに一ドルしかもらえなかった→もしかして、つまらなくなかったんじゃないか? とてもやりがいがある作業だったんじゃないか?」という認知の歪みが起こったことが考えられる。


 話を戻そう。


 人は報酬をもらうことで行動や思考が変わる。例えば、同じゲームをやってもらうのでも、勝てば一〇〇〇円もらえるゲームと勝てば一〇〇〇〇円もらえるゲームとじゃ後者の方がモチベーションが高くなるだろう。


 そこで、と僕は考える。


 ある心理戦をやってもらう。勝った被験者は報酬を手に入れることができる。負けた被験者は何も得られない。

 

 いわゆるゼロサムゲームをやってもらうのだ。


 ゼロサムゲーム。この用語も知らない人がいるだろうから説明しておこう。


 ゼロサムゲームとは、別名「ゼロ和ゲーム」とも呼ばれている。読んで字のごとく、ゲームにかかった報酬の総和がゼロになるゲームである。


 簡単に言えば、勝てば全部もらえて、負ければ全部失う。そんなゲームである。


 ある二人で行うゲームに、一人一〇〇〇円賭けてもらうとする。

 この場合、勝者は二〇〇〇円、敗者は〇円という分配になる。

 しかしゲームに賭けられた金額は一人につき一〇〇〇円×二人で二〇〇〇円と変化がない。よって和はゼロである。


 僕が被験者にやってもらおうと思っているゲームもこの類だ。


 人は報酬がかかると行動や思考に変化が見られることは既に示した。おそらく僕の実験の被験者も、多額の報酬が賭けられたゼロサムゲームに参加させられたら「できれば勝ちたい」と思うことだろう。その心理が行きつく先はおそらく、利己的行動、ひいては「非倫理的行動」だ。


 いや……。僕は考える。


 ゲームにスポーツマンシップはつきものだ。しかし僕の実験では変なスポーツマンシップを発揮されては困る。正々堂々なんてことを考えられたらそれは「非倫理的行動」に結びつかない。僕は「悪魔」を作りたいのだ。「悪魔」は正々堂々となんてしない。


 ルールで縛ろうか……いや、敢えてルールは設けない方がいいのか? 「何でもあり」にすれば「非倫理的行動」を引き出せるか? 


 あるいは、と僕は考える。


 被験者の中にサクラを混ぜるか? 卑怯な行動をとる人物がいて、その人物が特にペナルティを受けなければ、「あ、そういう手を使っていいんだ」と学習するはずだ。


 協力者が、必要か……? 


 いや、と僕は考える。安易な発想は危険だ。もっと慎重にならねば。僕は考えて、考えて、考える。


 六月。外では雨が降っていた。しとしとという音が僕の思考を研ぎ澄ます。


 講義の後。僕は疲労に包まれながら考えた。

 朝。眩しい光の中で僕は、考えた。

 夜。暗闇の中で、僕は考え続けた。

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