X17 美少女が惑う


「あ」


 ふと忘れ物に気がついて、私は短い声を上げました。


「……どうした?」


「いえ、課題用のテキストを一冊、家に置いてきてしまったようで」


「……あぁ」


 そう反応した廉さんは、なんだかぼんやりしたような声でした。


 思えば今日の廉さんは、最初からずっと、こんな調子だったような気がします。

 一緒に夏休みの課題を進めようということになって、こうして廉さんの部屋にお邪魔しているのですが。

 廉さんはどうにも、集中できていない様子です。


 しかしまあ、これはおそらく。


「……眠いんですか?」


「……眠くない」


「嘘ですね。昨日、夜更かししていたでしょう」


 廉さんはここ数日、なにかの海外ドラマにハマっていると言っていました。

 少し調べた感じでは、話数がかなり多いようだったので、きっと遅くまでそれを見ていたんだと思います。


「ダメですよ。生活習慣が乱れると、どこかでしわ寄せが来ますから」


「眠くないって……」


 そう言いながらも、廉さんはふわぁっとあくびをしました。

 バツが悪そうに頬を掻いて、私から視線をそらします。


 やれやれ、困った人ですね。


「一度、テキストを取りに帰りますね。すぐに戻ってくるので、ドアは開けておいていただけると」


「……ほい」


「もうっ……」


 少し呆れた気持ちで、私は廉さんの家を出ました。

 棟を移動して、そのまま自分の家へ。

 机に置いていたテキストを見つけて、また来た道を戻ります。


 それにしても、食生活といい睡眠リズムといい、廉さんは放っておくと体調を崩しかねませんね。

 まあ以前に風邪を引いてしまった手前、私もあまり偉そうなことは言えませんが……。


 ですが廉さんの身近にいる人間として、廉さんの自堕落は私が是正しなければいけません。

 とりあえず、今日は早めに寝るように言っておかないと。


「戻りました」


 そう声をかけながら、廉さんのいる部屋のドアを開けます。

 すると、そこには……。


「……」


「……廉さん?」


「……」


「……」


 廉さんは腕を枕にして、すっかり眠ってしまっていました。


 これは……どうしたものでしょうか。


「廉さん、ダメですよ。今眠っては、夜にまた寝付けなくなります」


 少しかわいそうに思いながらも、私は心を鬼にして、廉さんの身体を軽く揺すりました。

 しかしいっこうに目覚める気配はなく、そのまますぅすぅと、寝息を立て始めてしまいます。


「……はぁ」


 仕方ありません。

 廉さんが目を覚ますまで、ひとりで課題を進めてしまいましょう。

 さすがに、夕食時までには目を覚ますでしょうし。


 そう決めて、私は元の通り、廉さんの向かいに座りました。

 テキストを広げて、ペンを持って、目の前の問題を……。


「……」


「……」


「……すぅ」


 ……かわいい。


「はっ……!」


 自分の頭に邪念が湧いていることに気がついて、私は思わず口に両手を当てました。


 初めて見る廉さんの寝顔は、あどけなさの中に微かな凛々しさを含んだ、なんとも蠱惑的なもので……。


「……廉さん」


 私は深く息を吸って、心を鎮めました。


 わかっています。

 きっとこれは、私の目が少なからず、眩んでいるのです。


 こんなことを言うのはなんですが、廉さんの顔というのは、特別整っているというような感じではありません。

 それこそどちらかといえば、無愛想な表情もあいまって、あまり見た目の印象のいいタイプの人ではないのです。


 しかし……。


「……」


 ツン、と指で頬をつつくと、廉さんはキュッと眉根を寄せました。

 口元がピクッと動いて、ん、という低い声が漏れます。


「……っ」


 私はいつのまにかペンを置いて、向かいに座る廉さんの顔を覗き込んでいました。


 決して、外見を理由に好きになったわけじゃないのに。


 どうして廉さんを見ると、こんなにうずうずしてしまうのでしょうか。

 どうしてこんなに、頬が緩んできてしまうのでしょうか。


 いいえ、それだけでなく。

 力の抜けた骨張った手や、案外広い肩幅や、頬にかかる少しクセのついた髪まで。

 廉さんのあらゆる一部分が、私にはとても愛おしくて。

 ずっと見ていると、だんだんと心を乱されていくような気がしてしまって。


「……」


 私は廉さんの手に、自分の手を絡めました。

 クイッと引っ張るように動かして、今度は揺らすように、軽く押してみるように。

 その度に、私は小さな罪悪感と、大きな幸福感に襲われるようでした。


「廉さん」


 名前を呼んでも、廉さんは黙ったまま寝息を立てます。

 なのに、私は無性に嬉しくなって、また名前を呼びました。


「廉さん」


 覚えていますか、廉さん。


 ひとりでもできることを、私と一緒にやりたいと、言ってくれたこと。


 あのときは、本当に嬉しかった。

 嬉しくて嬉しくて、もうどうにかなってしまいそうでした。


 けれど、最近私は思うんです、廉さん。


 なにもやることがなくたって、ただふたりで一緒にいることが幸せだと。

 あなたと一緒にいること自体が、私にとっての幸せなんじゃないかと、そんなふうに思うんです。


 あなたは、どう思っていますか。

 私と同じように、感じてくれていますか。


 私たちは、よく似ています。

 ですがやっぱり、こういうことには自信が持てません。


 だから、いつかしっかり、話し合えたら嬉しいです。


「……理華」


「ほあっ」


「…………すぅ」


「……はぁ」


 ちゃんと、眠くないときに、ですけどね。





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