第37話

 


 


 


 


 侯爵の初恋の人が、私……?


 私は、チラリと侯爵に視線を向ける。侯爵のオキニスのような黒く光り輝いている瞳が私のことを見つめている。その瞳には不安と焦燥と少しばかりの期待が込められているような気がした。


 振り返ってみると、侯爵は私のことを魅力がないとは言ったが、それ以外の対応は多分、友好的だったような気がする。たぶん。でも、私のことを好きだと感じたことは今まで一度もなかった。


「ほんとう……に?」


 驚きで声が掠れてしまう。だって、私はこないだまで侯爵と会ったことすらなかったのに。その侯爵の初恋の相手が私だと言われてもなんら実感がわかない。


「……本当だ。魔女に呪われた日に、アンジェリカと偶然出会ったんだ。その時からアンジェリカのことが……。」


 侯爵の真剣な声が私に告げる。本当のことだと。偶然に私と出会ったと。


 私は、まじまじと侯爵の端正な顔を見つめる。だけれども、私は以前侯爵に会ったという記憶はなかった。何年も前だとしても多少は面影があるとは思うのだけれども、数年前のことを思い出してみても侯爵に似た面影を持つ人と会った記憶などなかった。


「……申し訳ございませんが、私には侯爵様とお会いした記憶はございません。人違いではないでしょうか?」


「人違いなどではない。私は、あの日、キャティエル伯爵家の庭でアンジェリカに出会ったのだ。」


 庭で会った?侯爵と?


「お父様に用事があったのですか?」


「違うっ。魔女から逃れるために走っていたらキャティエル伯爵家の庭にたどり着いたんだ。」


 侯爵は嘘をついているようには見えない。だけれども、私は庭で侯爵に会った記憶などなかった。それどころか、屋敷にいる使用人以外の男性と庭で会った記憶などない。


 やはり、侯爵の人違いのようだ。


 私はそう判断をした。


「やはり、人違いかと思われます。」


 私は侯爵に向かって深々と一礼した。


「私がアンジェリカを見間違うはずがないだろう。それに確かにこの屋敷の庭だった。覚えている。」


 侯爵はいくら私が人違いだと言っても納得しないようだ。だが、侯爵がうちの庭を知っているというのはどういうことだろうか。


 侯爵がここに来たのは初めてのはずだ。それなのに、なぜうちの庭を知っているのだろうか。


「ふふふっ。そんなことでもめていないで、言葉よりももっとわかりやすい確認の仕方があるじゃないの。キス、してみればわかるのではなくって?」


 私と侯爵が言い会っていると、見かねた……というより面白がっているローゼリア嬢がそう提案してきた。確かに、侯爵が初恋の人とキスをすれば呪いが解けるとは聞いているが。それだけは聞き入れることができない。


 だって……。


「私、初恋もまだだし。キスだって好きになった人としたいわ。」


 侯爵の呪いを解いてあげたい気持ちはあるけれども、絶対に侯爵は私と初恋の人とを勘違いしているのだ。だから、間違いで侯爵とキスをすることは避けたい。そりゃあ、侯爵は婚約者なのだから、侯爵以外の誰とキスをするんだって話はあるけど。でも、そこは夢を見たっていいじゃない。


「アンジェリカは、私を好いてくれてはいないのか……。」


 侯爵が悲しそうな声を出す。


「そうねぇ。アンジェリカが侯爵様のことがお好きなら、侯爵様がもう襲ってしまっているのではなくって?」


 侯爵を諭すようにローゼリア嬢が言う。その言葉が侯爵の傷を抉ったように思うのは気のせいだろうか。


「ふぐぅ……。」


 侯爵が口を押えてその場に跪く。


「だ、大丈夫ですかっ!?」


 侯爵とキスをするのは嫌だけど、侯爵のことが嫌いなわけではないのだ。だから、侯爵が苦しそうに呻けば気になってしまう。


「大丈夫よ。ちょっと私の言葉で傷を抉ってしまっただけだから。それより、アンジェリカは本当に侯爵様のことが好きじゃないのかしら?少しはカッコイイとか思わなかったの?」


「えっ……。はい。」


「うぐぅ……。」


 ローゼリア嬢の問いかけに私は素直に答える。


「そう。じゃあ、私が侯爵様にキスをしてもいいかしら?」


 ローゼリア嬢はいたずら好きの猫のように目を細めて、私に向かって問いかけてくる。


 なぜ、ローゼリア嬢が侯爵とキスをするようなことになるのだろうか。だって、侯爵の初恋の人はローゼリア嬢ではないのでしょう?さすがにいくらなんでも、侯爵の初恋の人が呪いをかけたローゼリア嬢だとは思えない。


「な、なぜっ!?」


 思ったよりもうろたえたような声が出てしまった。


「あら。もしかしたら私かもしれないでしょ?侯爵の初恋のひと。うふ。」


「それはないわ。」


「そう?じゃあ、そこにいるローザはどうなのかしら?アンジェリカは小さい頃からローザと一緒にいるのでしょう?もしかしたら、侯爵様がキャティエル伯爵家の庭で会ったのは、ローザかもしれないわよ?」


「なっ……。」


 ローゼリア嬢がクスクスと笑いながら告げた言葉に思わず息がつまった。確かにその可能性はあるのだ。私が産まれた時からローザは私のそばにいたのだ。いつもずっと一緒にいた。だから、この家の庭で侯爵と会った少女というのは、ローザの可能性も否定できない。


「侯爵も呪いを解きたいのでしょう?そこにいるローザとキスをしてみたらいかがかしら?もしかしたら呪いが解けるかもしれないわよ。」


 私の反応を見ていたローゼリア嬢は面白そうに目を細めながら、侯爵にけしかける。


 侯爵はギュッと眉を潜めた。


 もしかして、侯爵はローザとキスをしてしまうのだろうか。


 なんだか、それはちょっと嫌な気がした。心がモヤモヤとする。先ほどまで侯爵は私が初恋の相手だと言っていたのに。私以外の人とキスをするなんて、なんだか嫌な気分だ。侯爵とのキスを嫌がっている私がそう思ってはいけないのはわかっているけど。なんだか釈然としない。


「ローザ。キスをするだけ。それだけよ。ふふ。そう、いい子ね。ほら、侯爵も。もしかしたらアンジェリカじゃなくてローザかもしれないわよ。」


「ううっ……。」


 ローゼリア嬢が何かをしたのか、ローザの瞳がとろんとした熱を浮かべる。ローザの瞳は侯爵を見ていた。そんなローザを見てしまった侯爵は、自分の身体を戒めるかのようにギュッと抱きしめた。侯爵の肩がガクガクと震えている。


 なにかを耐えるように時々侯爵は呻く。


「ふふっ。呪いの効果よ。」


 ローゼリア嬢は面白そうに笑いながら侯爵の姿を眺めている。


 呪いの効果。先ほど、ローゼリア嬢が説明してくれたが、侯爵に好意を持っている女性に対して襲い掛かってしまうという呪いだったはず。侯爵は今、その呪いの衝動と戦っているのだろうか。


 このままだと、ローゼも侯爵も傷つくことになることはわかりきっている。


 この呪いを解けるのは侯爵の初恋の人だけ。侯爵はそれが私だという。でも、私は心当たりがない。でも、もし、侯爵の言う通り私だったら?


 もし、そうだとしたならば、二人が傷つくことを止められるのはこの場で私だけ……?


「ダメッ!!」


 思わず衝動で身体が動いた。


 呪いの衝動を耐えようと、今にもローザに襲い掛かりそうな衝動を堪えて苦しんでいる侯爵の前に躍り出る。そうして、私は侯爵をギュッと抱きしめた。意外とがっちりとしている男の人の身体。侯爵からほのかに香ってくる清潔な匂い。


 大丈夫。ちょっとキスをするだけ。本当は好きな人と、って思ったけれどももし私がキスをすることでローザと侯爵を救うことができるのならば……。私の気持ちなんて……二の次よっ!


「……っ!?」


 私は意を決して侯爵にキスをした。


 


 


 


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