第38話

 


 


 


 侯爵にキスをすると、侯爵の身体から力が抜けたのがわかった。


 侯爵はその場に崩れ落ちるように座り込む。侯爵の黒いオキニスのような瞳はどこか幻想の中を漂っているような感じがした。正気ではないのだろうか。


「侯爵様……?大丈夫、ですか?」


 不安に感じて、侯爵と視線を合わせるようにして問いかける。


「……っ!!?」


 すると、侯爵は顔を真っ赤にして私から視線を外してそっぽを向いてしまった。耳まで真っ赤にしている侯爵が可愛らしいと思ってしまったのは秘密だ。


「ふふっ。アンジェリカにキスされて、照れているのね。でも、どうやら好意を持っている女性に襲い掛かってしまう呪いは解けたみたいね。よかったじゃない。ふふふっ。」


 ローゼリア嬢はそう言って私と侯爵を交互に見て微笑んだ。


 確かに、侯爵の呪いは解けたのか、侯爵はロザリーに反応しなくなったようで、ロザリーの方を見ることもないし、衝動を耐えている様子もない。これに関してはホッとする。でも、それと同時に、本当に侯爵の初恋の相手が自分だったということに気恥ずかしさを感じて顔が熱い。本当に私だったとは思わなかった。だって、私は侯爵とは会った記憶がまるっきりないからだ。


 ……私が、忘れているだけなのだろうか。


「あの……。侯爵様、呪いが解けたみたいで、よかったですね?」


 私は熱くなる頬を無視して、侯爵に話しかける。


「あ、ああ……。ああ……。」


 侯爵はまだ実感がわかないのか、困惑したような声をしていた。


 なぜだろうか?呪いが解けたのに嬉しくないのだろうか。


 それとも、私が呪いを解いてしまったことでショックを受けているのだろうか。例えば、もっと女性らしい魅力を持っているローゼリア嬢のような女性がよかった。とか。


 いや、でも、侯爵本人が私が侯爵の初恋の人だと認めていたようだからそれはないか。


 もしかして……私の口臭が臭かった、とか?


 え、それって私がショックなんだけど。私、今日何か、変なもの食べたかしら。


「侯爵様。ちゃんとにアンジェリカとお話しませんと、アンジェリカが誤解しておりますよ?」


 ローゼリア嬢は私の困惑を感じ取ったのか、そう侯爵に助言をしていた。


「……アンジェリカとキスしてしまった。ああ……。」


「侯爵様、私とキスしたのがそんなに衝撃的だったんですか?」


 なぜだか、侯爵がとてもショックを受けているようなので、私まで辛くなってきてしまう。


「衝撃的もなにも!!アンジェリカとのキスだぞ!!もっと、こう堪能していたかったのにっ!私としたことが、驚きで固まってしまった……。情けない。せっかくアンジェリカからキスをしてくれたのにっ。こんな機会なかなかないだろうにっ。私としたことが……。私としたことが……。」


 侯爵は堰を切るようにいきなり叫び始めた。


 その内容からするに、私の考えていたことは杞憂だったようだ。


 っていうか、お父様とお母様の前で、私とのキスを堪能したかったとか、そんなこと言われたら私の方が恥ずかしい。このまま穴を掘ってもぐりたいくらいだ。むしろ、なにもかも放り投げて自室に籠ってしまいたいくらいだ。


「わ、わ、私、失礼いたしますっ!!」


 私ともっとキスしていたいとか侯爵が叫びだしたので、私は耐え切れなくなって自室に戻ろうと踵を返した。だが、それよりも早く侯爵のがっしりとした腕に抱きか抱えられる。


「アンジェリカ。ありがとう。君のお陰で忌々しい呪いから解き放たれたよ。」


「い、いえ……。呪いが解けたならよかったです。」


 先ほどまで叫んでいた侯爵が私の耳元で甘く囁く。その声色に思わずゾクッとしてしまった。


 侯爵の声が今まで聞いたどの声よりも甘く、私のことを大好きだと言っているように聞こえたからだ。


 恥ずかしくて侯爵の身体から逃れようとジタバタともがくが、侯爵は私を放さないとばかりにぎゅっと抱きしめてくる。私は侯爵の腕から逃れられずにいた。


「これは……婚約破棄はしなくても良いのかな?」


「そうですわね。どうやら侯爵様はアンジェリカにご執心のようですし、アンジェリカもまんざらでもないようですし……。」


 侯爵に抱きしめられている横で、お父様とお母様がそんな会話をしているのが聞こえてきた。先ほどまで私に魅力がないと言われてお怒りモードだったお父様とお母様だったが、侯爵のこの様子を見て考え直したようだ。


 ホッとした表情でそう言われてしまうと私は何も言えなくなってしまう。


 だって、ほんの少しだけ、侯爵の腕の中がなぜだか居心地がいいと感じてしまったから。私を抱きしめる侯爵の体温がとても気持ちいいと思ってしまったから。


 その時だった。唐突に侯爵の腕が私から離れた。そうして、侯爵の体温も遠くなる。


 侯爵の腕の中が気持ちいいと思ってしまったのがいけなかったのだろうか。


「侯爵様っ?」


 なぜ急に私から離れたのだろうかと不安に思って辺りを見回すと、既に侯爵の姿はなかった。代わりに、真っ黒な黒猫のクリスが今まで侯爵がいた場所にちょこんと座っていたのだった。


 


 


 


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