第5話 カープの世界・後

人の意識には2つ層があって思考や感情が本人の自覚のうちにある顕在意識。


その下には人生で体験した膨大な記憶がその時の反応や感情が絡み合って蓄積されている無意識の領域があり、


無意識は時としてその場の閃きや眠っている間の夢として意識下に現れ、人の意志決定に影響を及ぼしたりまたはぬぐい去ることが不可能なトラウマとして人を苦しめ続ける。


コウ博士は自分の右の延髄にあるあなにコードを差し込み、コードのもう一方の先を真砂が被っているバイザーの後頭部に差し込む。


意識体となった博士は脳底に埋め込まれた基盤からコードを通してバイザーに覆われた真砂の大脳皮質に白衣の裾を広げてダイブする。白い空間の中に佇む真砂の意識体の背後に着地した博士は息子の両肩に手を置いた。


「父さん!」

振り返った真砂は父の姿が自分と同い年位の若い生身の体でいる事に驚いてこころもちのけ反った。

これがテロに遇う前の父さんの姿か、ちくしょう、僕よりハンサムじゃないか。


「気持ちが若いままという証拠さ」

瑞々しい右頬を撫でた博士は茶目っ気たっぷりに笑った。


これはで親子の意識は物理的に繋がれた。


「真砂、お前は他人の深意識にダイブするのは初めてだ。これは命綱だ、と思って欲しい」


「父さんは何度かダイブしたことあるんだよね?」

「ああ」

「どんなところだった?」

「一言で言えば妄念の密林さ。さあ、行きなさい」


白い空間の足元にある段ボール箱から光が発せられている。箱に頭を突っ込み両肩をねじ入れて真砂は築地秀則こと4年前から官公署や銀行、警備会社等のセキュリティを破って世間を騒がせている特A級ハッカー、

カープの意識の世界に両手足を広げてダイブした…


光が消えて底が見えてきた所で衝撃を抑えるために体を前面に一回転させて着地姿勢を取る。


両手と片膝で着地はしたものの重力の洗礼である衝撃も痛みも無く、何重にも敷かれた綿布団に降りたような感覚。


顔を上げた真砂がそこで見たのは、

基盤マーケットの裏道で茜の後ろ姿を追う秀則から始まり、気だるい表情で寝汗をかいて起き上がる秀則、新しい職場であるネットゲームカフェでソフトドリンクを配る秀則が近い記憶から順に並び、衣装を着たマネキンのように硬直している様だった。


「この領域は顕在意識下で何百回も何万回も再生される立体映像と同じだ。麻酔で眠ってなければお前を異物と見なして攻撃するだろう」


はるか上空から垂れた糸電話を通してコウ博士が説明してくれた。


思いっきりデジタルな行為をしている時に何てアナログな…と真砂は思ったが糸電話のコップを引っ張って口に押し当て、


「父さん、どこをどうやって行くの?」

と指示を仰いだ。


「現在から過去の順に秀則くんの像を追って行くんだ」


職場のゲームマニュアルを客に説明する彼。ドリンクを落として客に謝る彼。職場で面接を受ける彼。


…そして4ヶ月前の職場であった電脳麻薬店、ちきゅう屋に警察が踏み込んで行くのを路地から見ている彼に行き当たり、


築地秀則としての彼の像はそこで途切れてしまい、足元には蓋を開けたままのタブレットガムの缶。


思い出した。客引きをやっていた彼が食べてたやつだ。ゴーグルを取る前、このガムから一定以上食べたら酩酊状態になる成分を検出していた。

拾った缶からオレンジ色のタブレットガムをつまみ出し

「…つまりはこれを食えって事かなあ?」

と次の行動を躊躇う息子に、


「実体の無いガムを食べても体に何の影響も起こらないよ」


とコウ博士は糸電話ごしに苦笑を漏らした。


ええい、ままよ!と真砂は缶に書いてある分量の通り三粒口に放り込んで咀嚼する。強い酒を一気飲みしたような熱さと血管が拡張する感覚。ぐらり、と視界が落ちる。


目の前に現れたのは集合住宅の入り口に良くあるスチールの扉。


ドアノブからぶら下がる木の札には


飼い猫にミルクを


と印字されている。慎重にドアノブに手を掛け鍵が掛かっていない事を確かめると手前に引いて思いきって中に入る。


そこには前の職場、ちきゅう屋で眠る若者たちの脇の水晶玉にハッキングし、記憶を覗き見るハッカーとしてのカープの姿があった。


時には下町の公衆電話から、時には個人経営のネット喫茶から、と逆探査されないように時間をずらし場所を変えて標的のセキュリティを破りを繰り返すカープの意識体が真砂の周囲に乱立する。


そこにはセキュリティを破るだけでウイルスを流したり電子マネーを盗むような真似はしない、ただハッカーとしての実力を試し、覗いた情報から知識を吸収するのだけが目的の情報の湖を泳ぐ鯉(カープ)のような彼の姿があった。


大学、高校、物心ついた幼少期まであるのはハッカーである彼が元々の人格で、

穏やかで人当たりのいい築地秀則の人格は社会に適応するためにカープが作り出した多重人格モデルなのだろう。


白血病で母を亡くした中学時代の夕日が差す病床脇でうなだれる彼。


大学卒業直前に肺癌で逝った外科医の父が神妙な顔して脳の模型のパーツを取り、説明している「肉親との思い出」を見せられて実の親を持たない真砂に少し切ない思いがよぎった。


「父さん、彼は多重人格のハッカーでセキュリティ破りを度々やらかしているけどそれはガードが甘いぞ、って戒めの為で他はぎりぎりの所でアシの付かない覗きしかやってない。秀則くんを苦しめるのは蓄積された過剰な情報が夢で上がってくるからだろう」


一旦引き、上げ、る…?


と糸電話に話しかけようとした時である。秀則の父が手に持つ脳のパーツ、海馬に


Optimas

(オプティマス)


と文字が浮かんだのを真砂は見逃さなかった。父親の手から海馬を取り上げ、手洗い台の上の琺瑯製の洗面器の水の中にそれを投げ込んだ。


途端に洗面器の中から大量の水が溢れて全ての築地秀則ことカープの残像を押し流す。室内に水が溢れて胸元まで水位が来る。


「しょっぱい!これは海水だ!」


「ここからは無意識の領域だ。実際に溺れる事は無いから落ち着いて進みなさい」


海水に沈む中、強く握った糸電話が辛うじて意識の命綱代わりだった。不意に、海中から真砂の体が引き上げられ「最後の避難船」に乗せられる自分の隣には学生服の少女。


速く、速く!と避難客が船室になだれ込む故郷からの景色が急速に遠ざかってゆく…


窓の外から閃光が差し込み、間を置いて激しく船体が揺れた。


「父さん、これって秀則くんの記憶じゃない。まるで2030年9月に起きた…」


「そうだ、東洋のとある大国の最期であり第三次世界大戦の勝敗を決めた各都市への核攻撃の瞬間だ」


荷物を抱えたまま気絶しているのは秀則の母親であろう。


「これは母親の話から秀則くんが作り上げた映像か?それとも」


糸電話の奥で呟く父をよそに真砂は船室を出て操舵室のドアに掛けられているOptimasの文字を見付け、取っ手を引いて中に入る。


大理石の床に紅い牡丹柄の絨毯が敷かれた応接室に真砂はいた。


テーブルの上には湯気をたてた茶と月餅。奥のソファから上等な背広を着た男が立ち上がり、


「よくぞここまで来てくれました。晃真砂こうまさごサン」


と握手を求めた。


それに応じない真砂は

「貴方の正体はだいたい解っています、秀則くんの母方の祖父の王俊哲おうしゅんてつさん?物理学者の」


と今は敗戦して滅ぼされ世界の歴史からも抹消されたC系統の名で真砂は彼を呼んだ。


ええ、と俊哲は頷いて


「あなたが見たあの光、あれが『最初の一発』です。あれを皮切りに周辺諸国から次々と核攻撃を受け都市部の8億5千万人が死に、事実上国は滅びました」


「貴方はかなり重要なことを仰っている」


最初の一発。それが何処から発射されたのか?終戦後全ての核保有国は沈黙し続け未だ解明されていない。


「もしかしたら発射施設にいた誰かが故意におこなった自爆ではないか?という説もあるし僕もそう思うのですが」


「その通り、当時職員だった私がやりました。故国が世界中に向けて打つ前に」


そうですか…と深くため息をついた真砂は辺りを見回し、


「貴方は秀則くんの脳底基盤に埋め込まれたプログラムですね?真実をいつか誰かに伝えるための」


俊哲は「そうです。こんな形で残った結果、孫を苦しめる事になりました…オプティマス、秀則を救ってくれませんか?」


と終戦直後の40年前、世界中各地の政治家や起業家の不正を暴きまくったサイバー集団の名で真砂を呼び、絨毯の上にひざまづいた。


「かなり強引なやり方になりますがいいのですか?」


真砂の肩に掛けていた糸電話からいきなり現れたコウ博士は俊哲の前に立って厳しい顔で問い掛ける。


「構いません」


「解りました、引き受けましょう」


と博士は生まれてくる国を間違えた哀しき核物理学者の手を取った。


謝謝シェシェ…と涙に濡れた顔を上げた俊哲の姿は消え、絨毯の上には直径2センチの古ぼけた電子基板だけが残った。窓からの夕陽が応接室全体と基板を照らしそれがやけに美しい、と真砂は思った。


「さあ、我々ももう上がろう」


というコウ博士の合図で親子は応接室から退出した。


麻酔から目覚めた秀則は意識の混濁感と首元のひきつれた痛みを感じた。ぼんやりとした視界に映る砂色の瞳の青年医師の顔は確かに見覚えがある。


「君の脳底の電子基盤、確かに摘出させて頂きましたよ」


とアクリルケースに入れられた直径2センチの物体を見せると秀則はああ、と声を上げ


「19の頃です。父にそれを埋め込まれたのは…成人したら誰もが入れるチップだと思ってたんですが祖父の記憶が僕を苦しめました」


チップから脳に流れる電子信号が命令となり、このままでは駄目だ。世界の為に何かしなければという義務感が秀則を世界中の軍事施設に侵入出来る特Aハッカー「カープ」にした。


絶えず自分の目から脳内に流れてくる世界中の秘密。それを管理している気になったつもりの自分。傲慢なカープが大嫌いで薬物を使って人格乖離させる事を覚えた。


「あの夜にマサルさん、あなたが客として店に来て大暴れするのを見てこの人なら助けてくれるかも、と思って付いて行ったんです」


「付いて来たのは『この子』だったんだけどね」


と真砂が秀則の膝に乗せたのは三毛猫型のアンドロイド。「ニケ!」と叫んで秀則は猫を抱き寄せ頬ずりをする。


「ガムを噛んで秀則くんに戻った君はその猫ちゃんのリモートアイを通してして僕の暴れっぷりを一部始終見てたとはね…参った。僕たち『オプティマス』より上手だ」


晃真砂は一見人畜無害で大人しそうな患者の前で人生初めての敗けを認めた。


「でもニケのGPSをすぐに抜かれて目標を見失ってしまった。市場で妹さんを見かけたのは本当に偶然だった」


「あー、妹はニケを一番なでなでしてたからねー」


そりゃべったり匂い付けてただろうよ。妹が尾行されてた時、右の電脳で彼の記憶にある僕の顔をサーチしなければ、妹が我が家の電磁遮断領域に彼を誘い込まなければ、僕たち二人は再会出来なかったんだから。


「会話の様子だと人格の統合が進んでいるようだね」


ベッド一床の秘密の病室に栄養食のボトルを持って入って来たのは右半身サイボーグ化した黒いカーボン外格に白衣を引っ掛けたコウ博士。


ハッカーカープとして今までやって来た事も故国で苦しんだ祖父の記憶も受け入れる覚悟が出来た秀則は、


「やって来た事は消せないし決して忘れる事も出来ません…起きたら限られたエリアの平和な世界と日常が待ってるんだから悪夢ぐらい引き受けますよ」


とさっぱりした顔で栄養食ボトルを博士から受け取り、むせないようにチューブで少しずつ飲み始める。


「記憶を思い出す時の痛みや感情が少しずつ薄れていく方法が一つだけある」


「何なんですか?その方法は!」と目を丸くする秀則と

「あーあー、始まった始まった父さんの戯れ言」

そんな方法あったら人類全てトラウマから救われるよ。とわざと白い目を向ける真砂に向かって博士はぴん!と人差し指を立て左の頬にえくぼを浮かべた。


「なあに、老化という不可逆的な忘却だよ」



カープの世界、終わり


























































































































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Optimas ~オプティマス~ 白浜 台与 @iyo-sirahama

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