第4話 カープの世界・前

朝、必ず胸の動悸で目覚める。

布団から半身起こした彼は胸を押さえながらゆっくり深呼吸し、処方された安定剤一錠を口中に含み、少し冷ましたほうじ茶で流し込む。


薬が効くまでの30分間、彼は6畳1間のアパートの座卓の前にじっと座り込んで神経が落ち着くのを待つ。

目を閉じると迫り来る何かから逃げようとしたり何かの選択を迫られたりする映像が瞼の裏に浮かぶ。


夢なんてものはいつも漠然としていて取り留めがなくて、恐怖の記憶だけを押し付けてきやがる。


やれやれ、自分の潜在意識ほど恐ろしいものは無いな。

と彼は毎朝思うのだ。


さて今日は休日。1日何しようか?

若者、築地秀則つきじひでのりは窓を開けて朝の8時から既にぎらついている太陽の光を浴びて伸びをした。3ヶ月前に転職したばかりなので外食も買い物も今は我慢している。


けれどこうしてじっと狭い自室に籠っているのは嫌だ。


秀則は白ジーンズに黒Tシャツ。子供の頃から手放さない野球棒を目深に被って取り敢えず外に出、首都長野区の下町にある市場を見て回ることにした。


市場に並ぶ野菜と肉、持ち帰り用の惣菜、リンゴパイ、コーヒー豆等の様々な食物の入り交じった匂いが鼻腔に流れ込む。

新鮮な食糧を求めて街から来た買い物客が行き交う中に自分という個が埋没して溶けていく。この感覚が秀則は好きだった。


取り敢えず野菜と鶏肉、果物と向こう3日間の食糧を買い、暇潰しに路地に足を伸ばして骨董品のIC基盤でも見て回ってから帰るか。


と思って路地にスニーカーの爪先を向けようとした時、彼はある匂いを嗅いだ。


その時取り込んだシーツのひなたの匂い。仔猫を入れて育てていた段ボールの匂い。短い春に脇道に芽吹く若草の匂いなどの彼にとっての懐かしいものが圧倒的な勢いで脳裏を駆け巡った。


彼はその匂いの主、白いノースリーブワンピース姿のおかっぱの髪の毛先をぴん!と跳ね上げた少女の跡を付いていった…



「で、うら若き乙女を尾行してやがった不審者が『これ』ってわけ」

そう言って晃茜こうあかねが両手首に結束バンドを巻かれ壁にもたれて気絶している男の顔に被せた麻袋を取って家族に面通しさせたが兄の真砂まさごも弟のたけるもこんな奴知らない、と肩をすくめた。


「長野区の基盤マーケットからここまで付いてくるなんてしつこい奴!さてはストーカー?少女趣味の変質者?どちらも人間の壊れかけだけれどさ。

姉ちゃんもすぐに撒けば良かったのにわざわざ家の裏で気絶させて連れてくるなんてどういう事だよ」

家の中に厄介ごとを持ち込むなんて、と言いたげな弟の険しい目つきを茜は


「だって、私の右脳がこいつの記憶の中の真砂兄ちゃんの顔をもうスキャンしたんだもん。しょうがないじゃない」


と言って受け流した。


「で、所持品はこれか」

真砂が若者の身体を探るとジーンズのポケットの財布には所持金15370円と運転免許証と健康保険証。

「築地秀則、23才1人世帯…諏訪市在住。驚いた、けっこう近所だ」

買い物バッグには大根と人参と生姜、桃が入っていていつもの買い物のついでに茜を見かけ、付いていったという感じなのだが…


「あ、掌底食らわす時これを大事に握ってたよ」


と妹が差し出した赤地に銀色の鯉が刺繍された野球帽を広げるとさらに真砂は「何て事だ」と困惑した。


4ヶ月前に誘拐された青年を救出するために潜入した電脳麻薬店、ちきゅう屋。そこの入り口にいた客引き男が彼だと?


眠っている秀則の穏やかな顔つきと清潔な身なりで「人は見た目のほとんどで騙されてしまうもんだなあ…」と頭を掻いた。


子供の頃飼っていた雌猫が突然家出した。その猫はお腹が大きくて出産間近だったのでご飯もあまり入らない位心配した。


周りの大人たちは猫は猫が自分から姿をくらます事はよくある。ほっとけ。とさほど気にしなかった。


猫が生んだ子をくわえて戻ってきたのはそれから4日後の事。さらに猫は30分置きに何処かで生んだ我が子を一匹ずつくわえて次々と玄関マットの上に置いた。


玄関マットで子育てさせる訳にはいかないので猫の親子を段ボールで作った巣に入れてあげた。その瞬間、仔猫の匂いと段ボールの匂いが混ざり合って心がこそばゆくなり


成程、これが幸せというものなのか。

と彼は学習した。


次に目覚めたのはリビングの天井。


なんて、なんて素敵な夢からの目覚めなのだろう。


目に涙を溢れさせて秀則は起き上がった。いつもの胸の動悸もしない。


そうだ、僕はずっと探していた半身を求めて市場で見かけたあの少女から「彼」の匂いがしたので追跡したのだった。


あの子が通称パーツ屋、と呼ばれる義肢装具店に入り、裏手に回った所で記憶が途切れた。


「こんばんは、目覚めはどうだい?」

自分が寝かされていたソファの前のテーブルには淹れたての紅茶と焼きたてのおみくじクッキー。

「悪いけど妹に付きまとっていたから少し身元を調べさせて貰ったよ、築地秀則くん」


ソファの足元の壁際に上下三台、計6台のパネルスクリーンの前の椅子から立ち上がったは砂色の髪と瞳を持つ色白の鷲鼻の青年に、


「…あなたは、一体誰ですか?」


と秀則は大層怯えた。


目で問いかける秀則の様子に真砂は

「父さん、やはり彼は記憶を上書きされている」

とテーブル向こうの席にいる顔の左半分黒のカーボンの外格を晒した初老の男に報告した。


「やあ秀則くん。さっきは娘が手荒な事をして済まない」

コウ博士は紳士然として笑い、秀則に紅茶とお菓子を勧めた。

濃く淹れた筈なのに苦くないお茶と貝を合わせたような形状のおみくじクッキーを割って口に入れると素朴な甘味が口に広がる。


「どうだね?味は」

「美味しいです」素直にそう言うと「そうだろう、私の祖母伝来のレシピで焼いたものだから」と博士は右の口元をほころばせた。


今は禁忌となっている自分のルーツを告げる博士に秀則はいいんですか?と目配せをした。


「C系統の人間だと言うことかね?私は孫世代で日本国籍で納税をしているので何の問題もない」


「実は僕も…なんです。大戦時に祖父が母を逃がしてくれたお陰で僕はこうして平穏に生きていられる。でも、毎晩見る夢にうなされてるんです」


「助けて欲しいかね?」


「それが出来るんだったら」


二枚目のクッキーを飲み込んでからそう言っ途端、全身が急に重くなりおみくじの紙片に印字された、


大吉、懐かしい人に出会える。


の文字を確認したのを最後に彼は再び意識を失った。


「残念、おみくじクッキーは元々日本のレシピでアメリカ人が作ったものなんだ。築地秀則こと特A級ハッカー通称カープ、君が何者かを徹底的に洗い上げる」


秀則の体を実験用のベッドに移して手足を拘束し、深記憶スキャン用のバンドを彼の頭部に巻き、彼の脳の記憶に潜る準備をする。


「ごめんよ、二度も手荒なことして。完全に意識を落とさないと深記憶はスキャン出来ないんだ」


真砂は済まなさそうに秀則の寝顔を見てからモニターに目線を移し、鉢巻型の黒いバイザーを装着すると俗に潜在意識と言われる彼の深記憶の透視を始める…




つづく









































































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