第32話 緊急事態

「か……川波?」


 狼狽た声を漏らす自分の視線の先にいたのは、いつもの制服姿ではなく、部屋着姿の川波だった。

 その姿が可愛いのなんのって、白地に薄ピンクのボーダーが入ったパジャマのような服は、まさかのふあふあモコモコのデザインではないか!


「つ……筒乃宮さま……」


 何故か「はぁはぁ」と吐息を漏らし、少し潤んだ瞳で上目遣いに俺のことを見つめてくる川波。その頬が赤く上気しているのも合わさって、俺は色気たっぷりの川波に思わず見惚れてしまう。

 

 だがしかし、明らかに様子がおかしい彼女を前にしてすぐに我に戻ると、「だ、大丈夫か⁉︎」と慌てて問いかける。


「申し訳……ありません……朝の支度が……」


「何言ってんだよ! 今はそんなことより川波が……って、あつ!」


 今にも倒れそうな川波を支えようとその手に触れた瞬間、指先から伝わってきた熱に俺は思わず声を上げる。そして続け様にすぐに言葉を口にしようと唇を開いた瞬間……


 ――え? 


 不意に自分の胸元に川波が寄り掛かってきて、俺の思考が一瞬でフリーズする。

 同じく硬直してしまった自分の身体に伝わってくるのは、布越しでもハッキリとわかるほどの川波の温もりと、そして鼻腔をくすぐってくるフローラルな香り。

 両腕を少しでも上げれば抱きしめられそうなほど密着している事実に、俺は思わず呼吸さえも止めてしまう。


「か、川波……」


 突然の出来事に動揺してしまい、ただ名前を呼ぶことしかできない自分。そんな俺の胸元では、川波が少し苦しそうに呼吸を繰り返している。


「はぁ……すぐに朝の支度を……」


「いいってそんなの! それより川波は安静にしとかないと」


 俺はそう言うと胸元で川波のことを支えながら左手で彼女の部屋の扉を全開にしようとした。

 が、その瞬間俺の左腕を川波が掴む。


「中は……ダメです……」


「ダメって今はそれどころじゃないだろ!」


 俺と同じく普段から自分の部屋は絶対に見せようとしない彼女だが、今はさすがに状況が状況だ。

 けれども川波はよほど部屋に入られるのが嫌なのか、「入らないで下さい」と弱々しい声ながらも頑なに口にしてくる。


「でもこのままだと川波が……」

 

 一向に部屋には入れようとしたがらない彼女に、今度は俺の方が困った声を漏らしてしまう。

 しかしそれでも川波は俺の左腕を掴んでいる手にきゅっと力を込めると、無言のまま小さく首を横に振る。


 一体どうすれば……

 

 一刻も早く川波を安静にさせなければと焦る俺は辺りをキョロキョロと見回す。リビングまで行けばソファはあるが、さすがに病人を寝かせるのには適していない。だとすれば……


 俺は残る選択を頭に思い浮かべると、ゴクリと唾を飲み込んで覚悟を決める。そして震えそうになる唇に力を入れると、川波の耳元で呟く。


「ごめん川波、少しの間我慢してくれ」

 

 え? と微かに彼女の声が聞こえた直後、俺は川波の身体を支えつつゆっくりと後ろ向きになってしゃがみ込む。そして今度は自分の背中を使って川波の身体を受け止める。


「とりあえず俺の部屋まで運ぶからしっかり掴まっててくれよ」


「……はい」

 

 小声でどこか申し訳なさそうな口調で返事を返してきた後、川波が俺の首元にそっと両腕を回してきた。その瞬間、耳元で彼女の吐息が聞こえるやら背中にはむにゅっともの凄く柔らかい感触が押し付けられるやらで、自分の理性が危うく吹き飛ばされそうになってしまう。

 だがしかし、こんな状況で下心なんて出している場合ではないと己の心を強く律すると、俺は邪念を押し込むかのように大きく息を吸い込んで川波の身体を慎重に持ち上げる。


「大丈夫か川波?」


 彼女の身体に負担がかからないように少し前かがみになりながら尋ねると、川波がコクリと小さく頷く。それを合図に、俺は隣室である自分の部屋に向かってゆっくりと歩き出す。


 七×一=七、七×二=十四、七×三=二十……


 自分の背中に川波のあんなとこやこんなとこが当たっていることや、彼女の身体を支える為に川波の太もも内側に触れているという事実を忘却させる為にも俺は心の中で必死に九九を唱えた。一瞬でも気を抜いてしまうと煩悩の獣が暴れ出しそうでほんとにヤバいからね!


「川波、もうちょっとだからな!」


 自分の部屋の前までたどり着き、そんな言葉を口にしながら扉を開けたーーその瞬間だった。


 視界に飛び込んできた光景に俺は思わず息を止める。


 ――しまった!

 

 硬直した自分の視線の先にあったのは、大森に早く返さないといけないと思いながらも隅々まで堪能していた大人用の写真集。それがあろうことか机の上に堂々と広げられているではないか!


「…………」


 死を覚悟する思いでそっと川波の横顔を覗いてみると、幸いにも彼女は俺の肩に顔を埋めているので事件現場はまだ見られてはいない。


 今しかチャンスがないっ! と心の中で叫び声を上げた俺は、まるでバレリーナのような無駄のない滑らかな動きでまずは川波をベッドまで運ぶ。

 そして自分の身体で彼女の視線を遮りながら川波をゆっくりとベッドに寝かせると、そのまま今度は忍者のようなスピードで机の上に置かれている淫らな本を引き出しの中へと音もなく隠す。……ふぅ。とりあえずこれで俺のモラルと尊厳は守られただろう。

 

 そんなことを思い安堵の息を吐き出すのも束の間、「つ、筒乃宮さま……」と川波の声が聞こえてきたので俺は慌てて振り返る。


「学校の……お時間が……」


 自分の体調のことよりも俺のことを心配してくれる川波の言葉に思わず胸の奥が熱くなる。

 けれどももちろん彼女のことを見捨てることはできないので、俺はもう一度リビングに向かうと熱冷ましのシートやら風邪薬など必要なものを持って急いで自室へと戻ってきた。


「三十八度二分……やっぱりかなり熱があるな」

 

 測り終えた体温計を見て、俺は険しい声で呟いた。そして少し苦しそうに呼吸をしている川波の顔を覗き込む。


「川波、今日は学校休んで病院に行ったほうがいい」


「病院は大丈夫です……薬を飲んだので……それより」


 筒乃宮様が……と再び自分のことを心配してくれる川波。そんな彼女に向かって俺は首を横に振ると、いつになく真剣な口調で言葉を紡ぐ。


「今は俺のことよりも川波の体調の方が大事だ。とりあえず学校には連絡して必要なものは買ってくるから川波はゆっくり休んでてくれ」


「でも……」


「いいから気にするなって。それに普段は俺の方が散々お世話になってるんだから、こういう時ぐらい川波の力になりたいんだ」


「……」


 俺の言葉をどう受け取ってくれたのかは分からないが、川波はそれ以上言葉を口にすることはなかった。そして徐々に薬が効いてきたのか、今度は眠るようにゆっくりと瞼を閉じていく。


「……眠ったみたいだな」

 

 先ほどと比べると少し呼吸が穏やかになっている彼女の横顔を見て、俺はほっと胸を撫で下ろす。そして川波を起こさないように静かにベッドから離れると自分の部屋をそっと出た。


「まずは学校に連絡しないと」


 俺は一人そんなことを呟くとスマホを置きっぱなしにしているリビングへと急いで向かう。チラリと視界に映った壁掛け時計の針はいつもの登校時間をとうに過ぎていたが、今はそんなことどうでもよかった。


 こんな時だからこそ、川波といつも一緒にいる自分が一番力になるべきなんだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る