第31話 朝の胸騒ぎ

 そして彼女は慌てた様子で頭を下げてきた。


「も……申し訳ありません……」

 

 震えそうになる声音を必死に抑えるようにして、川波が謝罪の言葉を口にする。俺はそんな彼女を前にしてただ呆然としてしまい、返す言葉が見つからずに黙り込んでしまう。


「……」

 

 気まずい沈黙だけが、二人の間を静かに流れていた。黙ったまま俯く川波を前に、俺は何か声を掛けようと必死に言葉を探すも、結局何も思い浮かばず焦ってしまう。一緒に住んでいるとはいえ、さすがの自分もこんなに落ち込んでいる彼女の姿を見るのは初めてだった。


 怪我の手当てのことも含めてこのままではいけないと思い、俺はゴクリと唾を飲み込むと勇気を振り絞って唇を開く。


「か、川波……ここは俺が掃除しておくから、先に怪我の手当てを頼む」


「……はい」

 

 俺の声音が真剣なのが伝わったのか、「申し訳ございません」と消え入りそうな声で川波は答えるとそのまま静かに立ち上がる。そして俺に向かって小さく頭を下げると、力のない足取りでリビングを出て行こうとする。


「……」


 静まり返ったキッチンで、俺は川波の後ろ姿をただ黙ったまま呆然と見つめていた。

 

 川波のやつ……大丈夫なのかな?

 

 あからさまに様子がおかしかった川波の姿に、胸の奥にざわりとした嫌な感触がうずく。それが単なる自分の思い過ごしなら良いのだが……

 俺はそんなことを思うと足元に散らばっている割れたグラスの破片を拾っていく。途中床に着いた川波の血を見て再び胸騒ぎを感じてしまうも、それを無理やり消し去るかのように手に取ったタオルで拭い取った。

 

 その後、自室にこもったままなかなか出てこない川波のことが心配になり様子を見に行くも、「今日は体調が悪いので少し休ませて下さい」と扉越しから声が返ってきただけで、結局この日は彼女と顔を合わすことはなかった。



  * * *



「――しまった」


 窓から差し込む朝の光に気づき、俺は瞼を開けると同時に声を漏らした。その瞬間慌てて起き上がろうと身体を動かしたのだが、いつもより狭い寝床だということをすっかり忘れていてそのまま床へと転げ落ちる


「いって!」

 

 ソファから派手に落っこちてしまい、同じく派手に叫び声を上げてしまう俺。万年寝起きが悪い自分だが、さすがにこれには一発で目が覚めた。


「いてて……」とおでこを押さえながらよろよろと立ち上がると、俺は今の状況を整理しようと辺りを見渡す。と、その時。リビングの壁に掛けている時計がふと視界に映る。


「良かった、まだ七時過ぎ……って、あれ?」


 時計の時刻とリビングの静けさに違和感を感じた俺は、いつもならこの時間にキッチンに立っているはずの人物の姿を探す。

 けれども広い空間には自分一人しかおらず、何なら昨日晩飯の代わりに食べたインスタンスラーメンの器がテーブルの上に出しっぱなしになっているではないか。


 おかしい……


 普段この時間は早起きの川波が朝食を作り、それをテーブルに並べ終えている時間だ。それが昨夜俺が見た時とまったく同じ光景ということは……

 嫌なリズムで心臓がドクンと脈打ち出す。それと同時に昨日の記憶が影を纏って脳裏に浮かんでくる。


 突然声を上げて怒った川波の姿。その後彼女は体調が悪いと言って部屋にずっと閉じこもっていたこと。

 そのことが心配で自分の部屋にいても気が気がではなく結局リビングで一夜を明かしてしまったこと……



――だから大丈夫です!

 


 普段滅多に感情を表に出さない川波が声を上げて怒ったあの言葉だけが、不安に飲み込まれていく心の中でハッキリと蘇ってくる。

 

 まさか川波のやつ……俺のことが嫌になって出て行ったりしてないよな?

 

 登校の時間が迫ってきているのにいまだ現れる気配のない彼女に、俺はそんな恐怖さえも感じてしまう。そしてその不安から逃げるように早足でリビングを出ると川波の部屋まで向かった。


「か、川波大丈夫か? まだ体調が悪いのか?」


 僅かに震える手でノックをしながら、俺はこの部屋の主人に向かって呼びかける。

 けれども扉を叩く音も俺の声も虚しく空気を揺らすばかりで中から返事が返ってくる様子はない。


 まさか本当に……


 再びしんと静まり返った廊下の中で恐怖に飲み込まれそうになった俺は、「おい川波!」と右手に込める力を強くして扉をノックする。するとその直後。カチャリという音と共に目の前の扉がゆっくりと開き始めた。


「良かった、部屋の中にいてくれたんだな川な……」


 みぃぃぃーーっ!?

 

 扉が開いた瞬間、俺は思わず心の中で叫び声を上げた。

 そして、まるで幻でも見ているかのように目の前に現れた人物の姿を何度も凝視する。

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