第13話 お風呂場の悪魔

「はぁ……何やってんだよ俺のバカ」 

 

 ため息と共に吐き出した自分の言葉にちゃぽんと静かに湯船が答える。今日の入浴剤は癒しと活力を与えてくれるオレンジカラーなのだが、俺の心はただ今絶好調にブルーだ。

 

 あー死にたい。と俺は風呂場で溺死するかのように湯船の中へと顔をつける。ブクブクと泡の音が耳奥で響く暗闇の中、4Kテレビも驚くような鮮明さで思い浮かんでくるのは昼間やらかしてしまった掃除機の一件。


「ばんべあんばぼぼばっばんばんばぼ(なんであんなことやっちゃんだろ)」


お湯の中で思わずそんな言葉を呟いた俺は、だんだんと苦しくなってきたので酸素を求めて顔を上げる。けれどもどれだけ息を吸おうと心の酸素は摂取できないようで相変わらず息苦しい。


 川波にサプライズで喜んでもらう為に掃除機のパイソンを握りしめたはずの俺だったが、つい己の中に眠っていた童心に邪魔されて一人妄想チャンバラを楽しんでしまった。

 挙げ句、俺が脳内で生み出した暗黒卿との決着は見事に勝つことはできたものの最悪のタイミングで川波が帰ってきてしまい、俺はヨーダのごとく背が縮んでしまうのではないかと思うほど川波からお叱りの言葉を頂いてしまう始末。


 唯一の救いは、最後に放った最終奥義の技名を声には出さずに心の中だけで叫んだこと。もしもあんな言葉を口に出して川波に聞かれていたら、俺は一生お婿にはいけなかっただろう。


「恐ろし過ぎる……」と温かい湯船に浸かりながらもガクブルと身体を震わせてしまう俺。だいたいあの時は完全に妄想の世界に入って楽しんでいたとはいえ、あの技名はひど過ぎるだろ。なんだよチェリーの一突きって。童貞まっしぐらじゃねーかよオイ。

 

 思わず居てもたってもいられず素っ裸で立ち上がりながら己の恥に憤っていると、蒸気が立ち込める視界の向こうから声が聞こえてくる。


「筒乃宮様、お湯加減はいかかでしょうか?」


 天使のような美声が聞こえてきた瞬間、俺は見られてはいないとわかっていながらも慌てて湯船へと身を隠した。そして「は、はいっ!」と急いで返事を返すと、「それなら良かったです」と川波の落ち着いた返事が聞こえてきた後、浴室の扉に映っていた彼女のシルエットが足音と共にゆっくりと離れていく。


「……」


 どうやら先ほどの声と口調を聞く限り、俺がやらかしてしまったチャンバラ事件については許してくれたようだ。


 その事実にほっと胸を撫で下ろすと、「二度とヘマはやらかさない」と強く心に刻んで湯船から再び立ち上がる。川波と合わせる顔がなく長風呂をしていたが、これ以上浸かっていると今度は脱水症状になってまたもヘマをやらかしてしまいそうだ。


 その時は川波がお風呂場で裸の俺を看病してくれるのかなー? なんてわけのわからないシチュエーションを妄想していたが、その姿がどう見ても情けなかたったのですぐにやめた。そしてそんなくだらない妄想と一緒に汗を流そうとシャワーを手に取った。と、その時……


「……え?」


 俺は思わず恐怖を滲ませた声を漏らした。視界の上辺、ちょうどお風呂場の電気がある部分に見てはいけない影が映ったような気がしたからだ。


 俺はくっと呼吸を止めるとゆっくりとシャワーを元の位置へと戻して後ろへと一歩下がる。そしてギギギとぎこちない動きで斜め上を見上げた瞬間、思わず声を上げた。


「ヒィィィッ!」


 盛大に叫び声を漏らしてしまった俺はそのままバンと背中をお風呂場の壁に強く打ちつけてしまう。けれどもそんな痛みに意識を向けている間もなく、俺の視線は目の前の恐怖に釘付けになる。


「ご……ご……ご……」


 恐怖のあまり唇が思うように動かず、俺は壊れたラジオのように同じ言葉だけを繰り返す。けれどもこの状況でこの一文字を聞けば何が現れたのかは誰もが容易く想像がつくだろう。


 そう。凍りつく俺の視線の先、暗黒卿よりも漆黒の色を纏い突如現れたのは、親指ほどの大きさはあるであろう巨大なゴキブリだった。


「ヒィっ!」

 

 器用に垂直の壁にへばりつきながらカサカサと身体の向きを変えるゴキブリに俺はまたも叫び声を漏らしてしまう。ってかコイツいつからいたの? なんでこんな場所にいるの? もしかして俺こんな奴と一緒に裸のお付き合いをずっとしてたの!?


「おいおい嘘だろ!」と俺は思わずゴキブリ相手に声を発すると、相手は返事のつもりなのかリズムカルに長い触覚をくねくねと揺らしてくるではないか。どうやら心理的には相手のほうが圧倒的に余裕らしい。


「くっ」と俺は今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られるも、ヤツの出方がわからない以上ヘタに動けない。他の部屋ならともかく、ここは狭い空間な上に完全な密室。

 もしも慌てて逃げ出そうとして奴を刺激してしまい「ピタ」と背中にでも飛んできた暁には、俺は本当にお婿にはいけないほどの醜態を晒す羽目になってしまうだろう。


 それだけは何としてでも避けなければいけない、とゴクリと唾を飲み込んだ俺は、息を潜めて出来るだけゆっくりと扉の方へと近づいていく。

 大丈夫、俺ならできる。だって俺はあの暗黒卿(妄想)でさえ倒した男だ。こんなピンチの一つや二つスマートに乗り越えられ……


「筒乃宮さまっ! 大丈夫ですか!」


「うえっへっ!?」


 突如勢いよく風呂場の扉が開いた直後、慌てた表情を浮かべている川波が視界に飛び込んできた。

 その瞬間俺は光の速度さえも超えるかのようなスピードでタオルを手に取るとそれを急いで腰に巻き付ける。ってか川波さん、何やってんの!?


 間一髪のところで彼女の前でゲテモノなものを披露する危機は避けられたものの、素っ裸の主人がいる風呂場の扉を躊躇なく開いてきた川波に俺は驚愕の表情を浮かべる。

 だがそんな俺の挙動不審な行動にゴキブリのほうも驚いたのだろう。まるで俺を威嚇するかのように壁をつたってカサカサと目の前までやってくると、その邪悪で黒々とした羽をバサっと広げてきたではないか。


「ひゃいっ!」


 川波がいることも忘れてそんな情けない声を漏らしてしまった俺は、恐怖のあまり足を滑らせてしまいその場で尻餅をついてしまう。

 そんな自分を見て、「大丈夫ですか!?」と再び声を上げた川波が制服のまま風呂場へと入ってきた。そして彼女も壁に張り付いている邪悪な存在に気づき「なっ」と驚きの声を漏らす。


「筒乃宮様のご入浴を邪魔するなんて許せません」


 家政婦としての責任感に火がついたのか、尻餅をついたままの俺の前で勇敢にゴギブリと向かい合う川波。いつかペットコーナーでも見たことのあるその後ろ姿だが、今回ばかりは状況的に色々とマズイ。

 なので素っ裸の俺は、とりあえず川波には一度撤退して頂こうと口を開きかけるのだが……


「筒乃宮様、この場所は危険です。お下がり下さい」


「いやいや川波さんの方こそお下がり下さいっ!」


 川波の予想外の言葉に、俺は思わず漫才師のようなテンポで突っ込みを入れる。けれども川波のほうはいたって大真面目のようで、「それはできません」とハッキリとした声で俺の言葉を一刀両断。


 これはもう情けない話だが自分の方が引き下がるしかないと思い、俺は両手を床につけると慌てて立ち上がるとする。……が、しかし。


「…………あれ?」


 何故か下半身にまったく力が入らず立ち上がることができない俺。

「おかしいな」と呟いて再びチャレンジするも、やっぱり力を入れることができず尻餅の姿勢のまま動くことができない。どうやらゴキブリの威嚇にビビり過ぎて腰が抜けてしまったようだ。


「……嘘だろ」


 呆然とした表情でそんな言葉を漏らす自分の目の前では、何やらただならぬオーラを放ちながらゴキブリと対峙している川波の姿。 

 おそらく敵の息の根をこの場所で仕留める為だろう。

 川波は左手をそっと持ち上げると、ゴキブリを逃がさない為にお風呂場の扉をパタンと閉めた。


「……」

 

 それは世にも奇妙な密室が生まれた瞬間だった。


 風呂場というかなり特殊な環境で突如現れたゴキブリ。

 そんな相手と勇敢に対峙して駆除しようとする女子高生。

 そしてほぼ真っ裸で腰を抜かしているだけの男。


 もはやカオスと化した狭い空間の中ではあるが、俺だけが一番情けない状況であることだけは間違いない。というより好きな子の前でこの醜態はさすがに恥ずかし過ぎるんですけどっ!?


「あ、あのさ川波……」とゴキブリへの恐怖心よりも川波に対しての羞恥心の方が勝ってしまった俺は、やっぱり彼女には退場して頂こうと思い口を開いた。

 けれども戦闘モードのスイッチが入ってしまった川波には俺の声が届いていないようで、彼女はゴキブリを撃墜する為にゆっくりとシャワーへと手を伸ばす。

 だかしかし。命の危機を野生の本能が察知したのか、ゴキブリが突然その邪悪な羽を羽ばたかせてきた。


「危ないっ!」


 セリフだけはヒーローのような言葉を叫んだ俺は、腰を抜かしたまま咄嗟に川波の左腕を掴んだ。

 その瞬間「え?」と声を漏らしてこちらを振り返ろうとした川波だったが、俺が変な体勢のままで腕を引っ張ってしまったせいで濡れた床に足を滑らせてしまう。


「きゃっ」


「うげっ!」


 突如股の上に重圧を感じた俺は、その痛みに思わず目を閉じる。けれどもすぐに状況を確かめようと慌てて瞼を開けた瞬間、視界に飛び込んできた光景に我が目を疑う。


「……え?」


 硬直する視界の中に真っ先に飛び込んできたのは、自分の薄い胸板に背中と横顔を預けている川波の姿だった。どうやら足を滑らせて転んだ際に、うまい具合に俺の身体にすっぽりと収まったらしい。


「なっ……なっ……」

 

 突如訪れてしまったラッキースケ……いや、緊急事態な体勢に俺は思わず口をパクパクとさせる。すると同じく状況を理解した川波が慌てた様子で声を発した。


「も、申し訳ありません筒乃宮さま!」


「いやちょっとあんまり動かな……ひゃんっ!」

 

 急いで立ち上がろうとする川波が、俺の上に乗ったままモゾモゾと腰を動かしてくるので思わず変な声が漏れてしまった。挙げ句の果てに、まだ直接確認したわけではないがおそらく高確率で腰に巻いているタオルがズレているような気がする。

 そのせいで肝心な部分が露わにならないようにと俺のほうもクネクネと身をよじってしまうせいか、自分の両足の間にすっぽりとはまっている川波がなかなか立ち上がることができない。


「ちょっと筒乃宮様、落ち着いてくだ……」

 

 そう言いながら川波が腰を上げて何とか立ち上がろうとした時だった。身体を支えようと彼女が伸ばした右手が運悪くシャワーの蛇口に当たってしまい、突如頭上から流水が降り注いできたのだ。しかも冷水。


「ひゃっ」


「キャッ」

 

 突然の冷水による攻撃に、もはやどっちが乙女のなのかわからないような声を発してしまう俺。すぐに川波がシャワーを止めてくれたものの、先ほどまで湯船で暖まっていたはずが今やゴキブリの出現と冷水によって身も心も冷え切っている。

 だがその直後、前方に映った川波の姿に思わず俺はドキリと心臓の音を鳴らしてしまう。


「なっ!?」


 驚きの声を漏らす自分の視界に映るのは、制服のまま頭からシャワーの水をびっしょりと浴びた川波の後ろ姿。

 その姿がエロいのなんのって、濡れて透け感を増したシャツが川波のボディラインにピッタリと張り付いているではないか。

 もちろんそのせいで一目で純白だとわかる彼女の下着が……って、違う違う! 俺はこんな時に何を意識しているんだっ!?


 さすがに今の状態で下心なんて抱いてしまえば男として言い逃れができない現象がすぐにバレてしまうので、俺は「見たらダメだ見たらダメだ見たらダメだ」と念仏のように心の中で唱えると冷水の力も借りて心頭を滅却させる。そして川波から視線を逸らすと、口調だけは紳士に声を掛ける。


「だ、大丈夫か川波?」


「はい……けれど『やつ』が」


 そう言って頭上をチラリと見上げる川波。同じように俺も上を見上げた瞬間、「ひっ」と再び恐怖を滲ませたような声を漏らす。

 俺と川波がラブコメのようなハプニングに見舞われている最中、高みの見物でもしていたのか、小さな暗黒卿がちょうど自分たちの真上の天井まで移動していたのだ。

 もしも奴が血迷ってこのままバンジージャンプでもしてきたら、もれなく俺の顔面にクリティカルヒットするだろう。


 一瞬そんな最悪の結末を想像してしまった俺は、恐怖のあまり身体のあらゆる部分をぶるりと縮こませる。その間も、意識が完全に『敵』の方へと向いている川波は、自身がびしょ濡れになっているにも関わらず攻撃のチャンスを伺っていた。


 でもさすがにこれじゃあ……


  一向に天井から動く気配のない敵を前に、俺はゴクリと唾を飲み込む。この高さだと当たり前だが川波の手が届くことはない。

 俺だったらジャンプしてパンチの一発でも喰らわせることができるかもしれないが、残念ながら今は腰が抜けているのでそれは不可能だ。かと言ってシャワーを使った攻撃なんてしてしまえば再び川波自身が頭から濡れてしまうことになってしまう。


「一体どうすれば……」と腰を抜かした状態でぼそりと呟いた直後だった。

 黙ったまま天井を見上げていた川波が、「少しお借りします」と突如口を開く。


「――っ!?」


 何をと尋ねる間もなく川波の声が聞こえた直後、俺の下半身が不思議なほどの開放感に満たされた。

 次の瞬間、先ほどまで俺にとって唯一の防具だったはずのタオルが、川波の手によって鞭のようなしなやかな動きで天井へと伸びていくではないか。


 ……え?


 あまりの一瞬の出来事に、俺は状況がうまく飲み込むことができず間の抜けた声だけを漏らす。

 するとそんな俺の視界の中で、川波が放った一撃が見事に暗黒卿の背中にヒットして、そのまま敵は湯船に向かって一直線に落ちていく。そしてポシャンと音が鳴ったと同時に、川波は目にも止まらぬ速さで湯船に蓋をした。


「筒乃宮様、これでもう安心……」

 

 ふぅと胸を撫で下ろしながら川波がそんな言葉を口して振り返った時だった。彼女もようやく自分が何を武器にしていたのか気づいたのだろう。

 産まれたての赤ん坊のような俺の姿を見て、川波がしばしフリーズする。


「………………失礼しました」

 

 もはや聞こえるか聞こえないかのような囁き声で謝罪の言葉を口にした彼女は、顔を真っ赤にしながらまるで忍者のようなスピードと静けさで風呂場から出で行ってしまう。

 そんな川波の後ろ姿を、腰が抜けたままただ呆然と見つめる俺。


「…………」

 

 もはや情けないとかそんな生温い言葉では片付けることができないほどの屈辱的な大惨事。

 いまだ腰に力が入らない俺は尻餅をついた姿勢のまま、川波が置いていったタオルへと手を伸ばした。そしてもう手遅れだとわかりながらも、そのタオルでもう一人の小さな自分をそっと隠す。


 ……残念ながらやはり俺がお婿になれる日は、今世ではやってこないのかもしれない。

 

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