最終話 迷宮の最期
見られていた。
ずっと、見られていた。
僕はそっと、フラヴェラの胸からナイフを抜いた。息絶えた彼女の体からは、派手に血が飛び散ることはなかった。力無く転がる彼女の目にそっと手をかぶせて、目を閉じさせる。ばらばらの方向を向く四肢を整え、ちゃんとまっすぐにしてその場に寝かせる。胸の下で手を組ませると、ようやく僕は彼女を見ることができた。はじめて見る彼女の体は、とても美しかった。
このままじゃ駄目だろうと、僕はローブを脱いだ。彼女の体を隠すようにローブかけてやってから、立ち上がる。眠っているみたいだった。
たったこれだけのことでも、きっと少し前なら面倒だと思ってしまったんだろう。
それから、近くに落ちていたグリフォンのマントの留め金を左手に握った。
もう、何もかもが遅すぎた。
出来ることなら、仲間たちと笑いあえた、あの日々に戻りたい。
そう願っても、もう遅いんだ。
左手の痛みが、《怠惰》に落ちそうになる自分を引き上げてくれる。
僕は破り取ったローブの切れ端で、グリフォンの留め金ごと無理矢理に左手を縛り上げた。そして、いましがたフラヴェラを殺したナイフを持って、虚空を見上げる。
「……出てこいよ」
おもむろに呟く。
「姿を、現せ……」
ナイフを握りしめ、視線の主へと言い放つ。
「ずっと見てたんだろ。僕らのことを……」
この迷宮に入ったときから、ずっと。
レンツィが一度、エルヴァンに報告したという視線。そいつは、どんな魔物を倒しても再び現れ、じっとパーティの様子を見ていたという。視線だけだから最初のうちは警戒していたが、いつの間にか、気にしなくなっていた。
でも、そんなことができるのはどうせ、迷宮の中では一体しかいない。
「出てこいっ!! 《狂乱の魔王》!!」
その声に応えるように、天井で闇が蠢いた。ざわざわと気配が集約すると、暗闇の中で巨大な眼球が開いた。闇を切り裂き、そいつは僕をじっと睨めつけながら姿を現した。その影は、まさに巨大な蜘蛛だった。
僕らは蜘蛛の巣にかかり、お互いを殺し合って残った極上の餌というわけだ。
《色欲》に落ちた彼女は救いを求め、《傲慢》に抗いはじめた彼は死んだ。
あとは《怠惰》に生きる僕だけだ。
だから、僕がやらないといけない。
非常に面倒臭いから、思考はクリアにしよう。
たった三文字でいい。
「殺す」
ほらみろ。
僕だって抗える。
いまにも挫けて膝をつきそうな心を、左手を貫く痛みが支えてくれる。
回復術師を舐めるんじゃない。
がさがさと天井を這いずる音がする。巨大な目玉についた脚は、くすんだ肌色の、人の指だった。化け物め。魔王だから当たり前か。人の手は慈愛の象徴なんだぞ。反吐が出る。
僕が《怠惰》なら、お前はなんだ。
《強欲》か。もっともっと、この《狂乱》を見たかったんだろうけど、それももう終わりだ。
杖なんかなくたっていい。
指先に最大限の魔力を込める。《ヒール》にすらならないただの魔力だ。そいつをナイフにありったけに込めてやる。右手がイカレそうだ。ナイフから電撃のような光が迸る。腕が焼けそうなほどに熱い。だけど、回復術師だってやるときはやるってことを、見せてやる。
やがて蜘蛛の目が笑うように僕を見ると、勢いよく僕の目の前に降りてきた。
*
それからひと月ほど後のことだった。
公国の王城に、ボロボロのローブを身に纏った男がやってきた。彼は自分を『鋼炎の牙の使い』と名乗り、その証として、グリフォンの装飾が付けられたマントの留め金を差し出した。それは紛れもなく公国が彼らに下賜したものだった。
男はそこで迷宮の構造と、魔王の最期、そして迷宮で見つかった百年前の兵士たちの日誌を提出し、そこで起きていた恐るべき現象を告げた。人々は《狂乱》の真の意味を理解すると、恐れおののいたのである。
それと同時に、男は冒険者パーティ『鋼炎の牙』が勇敢にも迷宮の踏破及び魔王討伐に成功しながらも、息絶えてしまったことを告げた。
「そなたは『鋼炎の牙』の生き残りではないのか」
大公はそう問うたが、彼は変わらぬ口調で「主人達はみな迷宮で息絶えてしまった」としか言わなかった。声から判断しようにも、焼けただれた喉から出るのは掠れ声だけで、誰も確信が持てなかった。
何人かが顔を確かめようとしたが、顔の片側が崩壊し、片目を失い、大きな傷や痣をいくつも負った彼の顔に、みな目を背けることしかできなかった。目撃した者によると、襤褸布に覆われた腕からは、焼け焦げた黒い皮膚が僅かばかりに見えていたという。その腕は一、二本の指先を除いてまったく動くことはなかった。
主を失った迷宮は急激に衰退し、やがて崩れ果てた。
迷宮があった場所には、『鋼炎の牙』の功績を讃える石碑が建てられた。墓石の役割をも持ったその石碑は、公国からの依頼を受けたとはいえ、一介の冒険者パーティには破格の待遇であった。人々は勇敢に戦った彼らに敬意を表して、花や剣を供えるものたちが絶えなかったという。
同様に――『鋼炎の牙』という主を失った男は、人知れぬままどこかへと立ち去っていった。
ときおり、公国から遠く離れた場所で、酷い傷を負った男の目撃情報と、彼が質の高い回復魔法を使って人を助けたという噂がぽつぽつとあがった。
しかしその噂も次第に途切れると、二度とその姿を見ることはなかった。
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