第44話 月

 城塞都市ヴェーダは中立地帯である。

 かつてシャザとの決闘に赴いたそこに、再び戻ることになった。

 領主軍は賊軍だが、大きな歓待で迎えられる。それは、ラファリア皇帝陛下の凱旋とでもいうべきものであった。

 ヴェーダの人々が特に熱狂して迎えたのは、死の淵から黄泉帰った人食い姫であった。

 大鹿に乗り、旅姿の女である。わざと剣を背負って、衆庶に見えるようにしていた。

 女傭兵のような、莫連女ばくれんおんなか無頼の輩に見える姿である。

 大鹿ミラールは悠然と歩み、その隣を随伴して歩むのは老いた奴隷二人であった。

 かつてセザリアの港町の戦いで配下とした奴隷も、度重なる戦いで残り二人。皆、戦の中で死んだ。

 老人たちは領主軍の兵士や騎士たちから『爺様』と呼ばれて親しまれていた。彼らもまた、それを悪く思っていない。むしろ、楽しげに中間ちゅうげん働きを行っていた。

 ミラールに揺られながら、リリーは巡礼の旅に思いを馳せた。

 あまりにも奇異で、死と穢れに充ちた旅路である。

 冬の冷たい風にさらされながら、住民たちの見世物として堂々と歩む。

 つくづく、リリーは姫に向いていない。人食い姫というキワモノですら、演じるのが面倒なのだから。

 領主の館まで、長い道を歩む。

 シャザとの戦いは無様であったが、あの日、もう一人の自分と出会った。


運命クエストは、もう終わりだ」


 声に出して言ってみる。

 よく分からないものに道を決められていたというのなら、それは、聖女アメントリルのやり残しを始末することだった。

 今からあるのは、力と力のぶつかり合いに過ぎない。

 雪がちらつき始めた。

 ヴェーダにも雪は積もる。




 領主の館に着いてから、リリーたちは歓待を受けた。

 街の住民が歓迎するのは、齊天后マフが来る戦いまでは敵ではないと宣言したからだ。むしろ、敵として扱う者を罰するとまで言った。

 ヴェーダの表の領主たる夫妻の用意した宴には、大商人たちが集う。

 品定めの視線と社交辞令には辟易とした。

 大森林で過ごすほうが気楽だが、あの森林に領主軍が冬を越せるだけの物資は無い。

 宴の席は疲れる。

 ドレスは着ずに、いつでも暗殺者の襲撃に備えられるようにしていた。武人然とした姿だというのに、ご婦人たちが寄ってくる。

 ご婦人と政商たちの相手をしてから、食事の席につく。


「大変ですわね」


 隣に座るアヤメが言えば、リリーはげんなりとした顔で頷いた。そして、骨付きの鶏肉に齧りつく。

 美味い。

 多少冷めているが、宴の席では仕方ない。給仕を呼んで煮えたぎるスープを頼む。


「お行儀が悪いわ」


「構わんよ。取り繕うほどのことではない」


 侯爵の姫がするものではない。しかし、リリーは人喰い姫だ。


「……ついに、ここまで来ました」


 アヤメは艶やかな黒髪の毛先をいじりながら、感慨深いといった様子で言う。


「戻れるとは、思っていなかったよ」


 リリーは独り言のように言った。


「ふふ、私もそうです。ラファリア様のためにと言っていたけれど、本当は、戻れないと思っていたわ。だって、そうでしょう。ありもしないと言われていたアメントリル様の墓所を捜す巡礼の旅よ。それに、暗殺者に何度襲われたことか」


「アヤメ、お前もそうだったのか。わたしも、サリヴァン領へ逃げ帰ろうと、そんなことを何度も考えたよ」


 そうしなかったのは、互いの隣に互いがいたからだ。

 アヤメがいたから弱音は吐けなかった。

 リリーがいたから諦めることができなかった。


「リリー、私が出る」


 それは春の戦いのことだ。

 人食い姫率いる四人の勇士。


「ありがとう」


 リリーにあるのは感謝であった。

 帝国のための戦いは、いつしか個人のものへと姿を変えた。神を殺してなお、戦うのは人同士である。


「素直に礼を言われるとヘンな感じね」


「そうか?」


「あなたのこと、最初は大嫌いだったから」


「わたしもだよ。アヤメを見た瞬間に、こいつは敵だと思った」


「あら、ひどい」


 小さく笑う。


「蛇蝎の間柄ではなくなったな」


「けっこう前からよ」


 宴の席で、彼女たちはどう見えているのだろうか。

 人喰い姫と破門された不名誉司祭。物語に出てくる悪役じみている。では、齊天后マフはどうなのだろうか。





 帝都の一画では、巨大な闘技場が建設されている。

 夕暮れを過ぎて暗くなった今も、建設現場には篝火が焚かれていた。

 建築家をもってして、百年の大事業と言わしめた設計は、異常なまでの速さで進んでいる。

 どうしてかと問われれば簡単だ。

 齊天后マフが土くれより造りだした石造りの巨人たちが、昼夜を問わず働いているからだ。

 齊天后マフの言葉を借りるなら『クァ・キンのオブジェクト設置神具』である。

 シャルロッテは自室として与えられた部屋から、闘技場を見ている。

 夜闇の中で輝く闘技場の骨組みに、不吉なものを予感せずにはいられない。

 石と鉄の巨人たちは、現場の職人や建築家の言うことを聞いて作業している。冬が終われば出来上がるだろうと人々は噂していた。


「みんな、強いのが好きなんだ……」


 シャルロッテはどこか自嘲的に言った。

 齊天后マフは怪物として恐れられたが、今となってはその評価も変わってしまっている。

 人々は、禍津大神を倒した齊天后と人食い姫の衝突を噂しあっている。

 古い帝都を懐かしむ人々は人食い姫に肩入れし、新しい帝都の変化を好む人々は齊天后の力を自分たちの為したことのように自慢げに語る。

 遥か遠く、海を越えた辺境にある魔王の国。そこからやって来た船乗りは、自らのことのように魔王ユウ・アギラの偉業を誇らしく語るという。

 人間は勝手なものだ。少し前まで、皇帝陛下万歳と言っていたのに、今は齊天后と人喰い姫を王のように扱っている。

 二人の王はなく、皇帝も一人。


『元気がないね、シャルロッテ』


 耳元で囁いたのは邪妖精だ。あの妖精と対を為す存在だとされているが、誰も真実を知らない。きっと、これを引きこんだ黒騎士ジーンですら。


「ううん、元気よ。ちょっと、疲れてるだけ」


 あれ、それは元気じゃないってことかな。


「姫様、そろそろ宴のお時間ですが」


 シャルロッテを呼ぶのは、黒騎士ジーンである。

 邪妖精の甲殻戦鬼であり、叛乱の立役者。黒騎士という言葉の似合う美丈夫。そして、怪物だ。


「参ります。ジーン様、エスコートを」


「喜んで」


 ジーンと共に水晶宮を歩む。

 先日まで侍女であったシャルロッテに対して、すれ違う者たちは平伏する。

 齊天后マフが愛する魔性の少女。

 学院では様々な家柄の生徒を誘惑し、平民出でありながら聖女候補の地位を得る。先帝陛下を誑かして侍女となり、その後は齊天后マフの寵愛を得た淫魔の如き妖婦。


「ジーン様、淫魔の如き妖婦と呼ばれているのです」


 淫魔呼ばわりされるよりマシなのか、それより悪いのか。

 その言葉を聞いたからか、すれ違う侍女がびくりと可哀想なくらい震えた。噂していたことが露見したとでも思ったのだろう。


「おいたわしや姫様。しかし、口さがない者はどこにでもいるものです」


「ふふふ、あなたはいつも、本当のことを言わない人ね」


 妖婦っぽく言ってみたが、ジーンは表情を硬くしただけだ。


「私の言葉は、虫の言葉にすぎませぬ」


「卑下しないで。ジーン様は立派な人よ」


 歩きながらする話でもないが、それは本気で言った。

 マフから聞くところによれば、ラファリア皇帝陛下が腑抜けになる前から、ジーンは誰よりもその野心のために働いたのだとか。


「立派なことがあるものか……」


 小さくジーンは言う。

 シャルロッテは立ち止まった。すると、二歩ほど先でジーンも止まって振り向いた。

 手を、妖婦シャルロッテは手を差し出した。切り傷のある町娘の手だ。


「手を」


「……」


「手を」


 ジーンはその手を取って方膝を突くと、口づけた。


「エスコートを」


「承知」


 手を引かれて歩く。


「ジーン様の手は、働き者の手よ」


「勿体なきお言葉」


「聞いて。あなたも、マフ様も、とても立派よ。だから、自分に価値が無いなんて思わないで。あなたは、間違ってない」


「何が、分かる」


 絞り出すような声と共に、働き者の手は固く堅く硬く。甲虫のものへと変じた。


「あなたのことは分からないけど、やり遂げたことは間違いじゃない」


『どうして、分かる』


 その顔までもを黒い甲虫に変えて、甲殻戦鬼ジーンは言う。


「マフ様も、あなたも間違ってない。ケンカに勝った人は正しいの。だから、次も勝って、正しいことを証明して」


 ジーンにとって、それはあまりにも重い言葉である。

 幾度も同じ時間を繰り返す無間地獄にて、帝国の崩壊を防ぐためありとあらゆる方法を試した。その果てが伝説の魔人に頼ることであったジーンには重すぎる。

 幾度時間を繰り返しても、帝国に黄金の時代は訪れない。


「私は幾度も……」


「勝てばいいの。勝ち続けることだけしか、無い」


 胸の奥に黒々とし憎しみの炎がある。

 かつて繰り返した歴史の中で、シャルロッテという少女は愛を勝ち取るものであった。そして、帝国の組織に様々な変革をもたらした。

 第一皇子と結ばれた際には、身分制度の改革により帝国は荒廃した。第二皇子の時にも、学院長の時にも。

 最も被害が少なかったのは双子の魔術師との時だが、選ばれなかった片割れが乱を起こす。そして、小さな乱は火種となって、やがて大きな内乱に発展した。


「……姫様、このジーンは忠誠を誓い申す」


 この戦に勝てば、領主軍に与した貴族家を改易させられる。そうすれば、経済的破綻だけは避けられる。その後の外国からの干渉を避けることもできる。


「嬉しく思います」


 姫として、そのようにシャルロッテは答えた。

 ジーンは今になって、ようやく怒りの正体を知る。

 世界に選ばれなかったことへの怒りだ。どれほどの地獄にいても、世界はジーンを選ばなかった。しかし、今は世界そのものである少女の手がある。


 宴の席では齊天后マフが待っていた。

 髑髏の顔も見慣れたものだ。

 ジーンから奪うように、マフはシャルロッテを抱きしめる。


『大事なかったか』


「ちょっと、骨ばってて痛いってば。大丈夫、マフ様こそ妖精と戦った後なのにずっと働き詰めでしょう」


『ほほほほ、魔人たるこの身が疲れることなど無い。それよりシャルロッテや、その衣装もよう似合っておるぞ』


 シャルロッテの纏う全ては神具である。

 マフの持つ、国さえ買えるほどの財より下賜された宝物である。魔法使い、魔術師といった者であれば、命と引き換えにでも欲しがるといったものであるらしい。

 ドレスは『斬る』『叩く』『刺す』を無効化し、指輪は炎と水と風を寄せ付けない。他にも様々な奇跡を身に着けている。


「マフ様も、今日も悪役っぽくてステキよ」


 齊天后マフの真紅のドレスは、あまりにも邪悪だ。

 強い力を持つことは周知の事実であり、悪魔じみた姿であるが故にそれは頼もしく映る。

 年の瀬の宴の顔ぶれは、水晶宮に詰める高官と商人たちのものだ。

 新しい帝国の宴だ。

 どっちが勝とうと、変化は避けられない。

 ジーンが甲殻戦鬼としての姿を晒しているというのに、驚かれはしても剣を抜く者すらいないのだ。


「そうか、私は勝っていたのか」


 ジーンは自分でも我知らず呟いていた。

 シャルロッテの御成りに気付いた楽隊が、演奏を始めた。ジーンの言葉は華やかな音の洪水に押し流される。

 目の前では、骨の貴婦人と姫がくるくると踊っている。


「はは、はははは」


 久方ぶりに、ジーンは笑った。

 失敗しているに違いないと感じていたのは、染み付いた負け犬の習いであった。

 帝国の勇士の座はすでに勝ち得た。


「ご機嫌のようですな、ジーン殿」


「ああ、そうだな、そうだ。踊らぬか、カリラ殿」


 いつの間にか傍らにいたカリラは少しだけ驚いた顔をした。


「ふふ、姥桜うばさくらを誘うのか」


 人食い姫の師であり、ジーンですらも勝てぬ深淵の遣い手カリラ。彼女は男物の騎士装束である。


「桜に変わりない」


「……その、なんだ、いいのか」


 どうしてここで照れるのか。

 ジーンはカリラの手を取って、踊りの輪に入る。


「おい、少し早いぞ」


「ははは、踊りは苦手か」


「形しか知らん」


 それでも合わせてくる辺りが達人の所以ゆえんか。

 くるくると踊る。

 戦いの前にある、どこか空虚で底抜けに明るい宴となった。






 吸血鬼の地下回廊へと降りる。

 リリーとアヤメはかつてと同じく湿った狂気の世界へとやって来ていた。

 修道士のごとき吸血鬼に案内されて、あの場所へとたどり着く。

 真っ黒な穴を中心とした巨大な広場には、やはり不穏な空気が満ちていた。それは妖精の棲家に充ちていた異常さと似ている。


「来たか」


 突然の突風と、巨大な羽音。

 リリーは髪を押さえる。

 回廊を高速でやって来るそれの気配に、怖気を覚えた。

 妖精の脅威を知った身体が、自然と萎縮する。かつてのわたしは、どう

してあれに恐怖しなかったのか。


「来ましたわね」


 アヤメもまた身を固くしていた。

 突風が吹き抜けると共に、そこには見上げんばかりの巨大な『蚊』が表れていた。妖精の本体よりは小さいが、その存在は同じくそこに在ってそこに無い。


『よくぞ戻ったのう、リリー・ミール・サリヴァン、人食い姫や』


 その言葉もまた、大気を震わすのではなく頭の中に直接響いた。


「始祖の吸血鬼よ、あなたの言った通り、我が道には結果だけがあった」


 蚊が喜色を顕したように感じる。

 巨体な羽音に眩暈がした。


『鬼に遭い神を殺したか。リリーや、お前は運命に打ち勝った。もはや、呪いの如くここにあったものは無い。時間を歪めるものも、地獄より戻りし者も、妖精の退去と共に全ては変成した。世界を知ったか、リリー』


「知らぬ。世界など、未だ分からん」


 だが、それで良い。

 世界など、自らの手の届く所にしかない。それで良いと知った。


『人のままであったか。お前が望むのであれば、この婆が力を賜ろう』


「いらん。代わりに聞かせろ。わたしは、自分の意思でここにいるのか」


 これ以上、何かの役柄にあるなど真っ平御免。


『はははははははははははははははは。素晴らしい。お前の口からそれが出るとは。無論、全てはお前の意思にある。人食い姫や、お前たちの歩む先には何も無い。人間よ、この惑星にある恐るべき種、人間よ。あとは人の理にて始末をつけるがよい。それこそが、貴公と魔人の為したもの』


 始祖の吸血鬼から奇妙な突風が発せられる。

 膝をついて風に飛ばされないように屈めば、蚊の姿は雲散霧消していくところだ。

 笑い声が頭に響く。


『人として生きよ、リリー。お前はまさに真なる人じゃ。ありとあらゆる異を殺す真なる人じゃ。ははははははははは』


 リリーの返答は彼の存在のお気に召すものであったのだろう。

 呵呵大笑かかたいしょうする鬼神として、始祖の吸血鬼は去った。


「化物の言うことはよく分からんな」


 リリーは微笑んで言う。だが、自分の戦いであることだけは分かった。

 分からぬことは、聞けばよい。ただそれだけで、大抵のことは分かる。


「さて、用の一つは済みましたわね。そろそろ、やりますか」


「ああ、やろう」


 アヤメは宴の時と同じ柔らかな雰囲気のまま、手斧を握る。

 リリーもまた、黄金騎士から奪った魔国の剣を抜く。

 地下は、外よりも暖かい。

 吸血鬼の力が及んでいるせいか、薄着でも寒くない。

 ふと、天井を見上げた。

 小さな穴があって、それは地上の枯れ井戸に通じている。そこからは、月の光が見えた。


「今日は半月か」


 アヤメに向き直れば、目の前には手斧の切っ先があった。すんでのところで避けて、そのまま肉薄する。

 脇腹を抉ろうという剣に対して、アヤメは恥も外聞もなく距離を取る。下がりながら、手斧を投げつけてくる。

 手斧というのは厄介だ。大抵の剣を折ってしまうため、かわすしかない。いや、受けてもいいのだが、アヤメ相手に立ち止まるのは怖い。

 不思議だ。

 互いに命を奪うつもりなのに、殺気は無い。なんとなく始めたことだというのに、息がぴったりと合う。

 勝手知ったる他人の殺し業。

 必殺の応酬だというのに、互いに楽しんでいる。

 修行にしても危険すぎる。どうしてこんなことをしているのか。

 何合打ち合っただろう。腕は疲れ切って鉛のようだ。

 十分も二十分も打ち合うなど正気では無い。


「いくか」


「そうね」


 互いに息が荒い。

 剣は重く、取り落とした。アヤメも手斧を捨てて、近づくと拳の技で互いに叩きあう。

 滝のような汗と乱れる呼吸。どちらからともなく、一歩離れてからへたり込んだ。


「アヤメ、強いんだな」


「リリーこそ」


 たまには組手でもするか、という話だった。だというのに、今では何をしていたか分からない。

 全身が痛むし、手を動かすのも億劫なくらい疲れた。

 汗は全身を濡らしていて、とめどなく出続けている。

 蒸し風呂を借りて、その後に湯船に入りたい。いや、それは贅沢すぎないだろうか。それとも、それくらいは許されるのか。


「風呂を借りよう。これでは、汗臭い」


「そうですわね。汗を流さないと、気持ち悪いわ」


 この後、身体が冷えるといけないとうことで大きな湯殿に案内されて、二人で入ることになった。

 女同士とはいえ、互いの裸身を見るのは妙に気恥ずかしいものであった。



 少し離れていたところで修練を見ていたのは、シャザと伊達男である。


「教えることは無さそうだな」


 半吸血鬼の伊達男は、苦笑して言った。


「ええ、寂しいものです」


 シャザもまた、そのように言って微笑む。

 人は弱い。

 虎は生まれた時から強いのでない。ただ、成長して虎の強さになるだけだ。


「ユリアンを、父上を斬りましょう」


「……いいのか」


「いいのです」


 ユリアン・バアル、齊天后に与する吸血鬼にして、伊達男の父親である。そして、シャザの前世の母を奴隷にまで追いやった元凶でもある。


「俺は、別に恨んじゃいねえ。ただ、ツケを払わせに行く」


「私は、私の区切りをつけに」


 ウドに頼んで、すでに餌は撒いてある。





 年の瀬の帝都。

 悪名高き女の僧院で、司祭長リュリュは落ち着かない様子で茶を飲む。

 神事にも上の空で、昼餉の時からそわそわとしているのを、修道女たちは心配そうに見守るだけだ。

 当の本人がなんともないというものだから、周りは見ている他に無い。

 夜半、客人があった。

 旅の商人だという男だが、いかにも大身といった金のかかった装いである。かといって嫌味がある訳でもなし、一角の人物と見て取れる中年男であった。

 リュリュが通せというので、身も検めず通すことになったが、修道女たちは気が気ではない。

 応接に使用している部屋で、リュリュは男と対面した。


「そのような姿で来ると、誤解されるでしょう」


「仕事のせいもあって、こいつが一番よかったンですよ」


 一角の人物から出そうにない町方訛りに、リュリュは破顔した。


「ウドや、そのような物言いは礼を欠くというもの。その化けの皮は剥がせぬかえ」


「そうしたいンですが、帰りの算段はつけてあるンで、この姿でねえと」


「そうか。よう帰った、我が子や」


 ウドがかわす前に、リュリュは彼を抱きすくめた。

 母の身体は温かく、ウドはおずおずと手を伸ばして抱きしめる。


「母上、ただいま帰りました」


「うむ、帝都を脱した折には齊天后殿とぶつかったと聞いて心配しました。無事で何よりです」


 リュリュは幼子にするようにウドの頭を撫でる。その手は優しく、変装を剥がしたくなってくる。


「母上、こいつは気恥ずかしい」


「ほほほ、何を言うておる。……また危ない橋を渡っておるな」


 ウドは沈黙を返答とした。


「生きて帰りなさい。母からのお願いです。生きて、帰りなさい」


 リュリュとウドしばらく話し込んだ後に、別れた。

 そこまで長い時間ではなかった。それでも、今生の別れとなるかもしれないものである。だが、互いにそれ以上の時間を必要としなかった。

 教会の権勢争いに明け暮れたリュリュ。細作として生きたウド。義理の親子にとって、限られた時間の安らぎでも得難いものである。

 修道女たちは、リュリュに遂に男の愛人が出来たと噂したが、当のリュリュは目くじらを立てることもなく、泰然とするのみであったという。



 ウドは夜闇に紛れて帝都を脱した。

 シャザたっての頼みで、吸血鬼ユリアン・バアルに書状を届けた帰りのことである。


「おい、ニンジャ、待てや」


 帝都の城外に出て街道を走り抜けている時であった。

 ウドは気配だけで剣呑な殺気から飛びのく。

 さきほどまで立っていた場所に刃が振り下ろされていた。刃が大気を斬り裂く異常な音が響いた。


「魔人の業かい」


 ウドの言葉に、放った相手は小さく笑った。


「ははっ、お前、リリーと一緒にいたヤツだろ。ユリアンのとこにいっただろ。後をつけたよ」


 月明かりに照らされた男の顔は、かつてセザリアの港でリリーが対峙した死神のものであった。その顔からは、かつての悪童めいた愛嬌は消えている。


「ひでぇ顔だ。幽鬼の有様だぜ」


 水晶宮で大暴れした時の姿をウドは覚えている。しかし、あの時とはまるで別人。

 痩せこけて、物乞いのような有様。しかし、片手の剣をだらりと下げた今の姿に、隙は一分も無い。


「はははは、死神らしくなったろ。別にお前を殺す気はねえよ」


 嘘だ。

 先ほどの一撃には明確な殺意があった。しかし、今の言葉には嘘の臭いが無い。狂人の類のように矛盾している。

 ウドは油断なく距離を取ろうとするが、どうにも危ない。どこに逃げても不味いと勘が告げている。


「リリーに伝えろ。次の満月に、立会いに行く」


「年明け早々に決闘とは……。春まで待てねえんで?」


「見世物になる気はねえよ」


 ウドは何か言おうとしたが、あえて止めた。

 今はシャザに頼まれた仕事がある。まずは戻らねばならない。


「へい、ようがす」


「虎剣山の風穴ふうけつで、剣を磨いたぜ。次は負けねえよ」


「お嬢様には必ずお伝え致します。では、これにて御免」


 ウドは姿を消して走る。背後に警戒するが、本当に追ってこないつもりのようだ。


 死神は空に浮かぶ半月を見やる。

 口元に、虚ろな笑みが浮く。

 夜の城外に立ち尽くすその姿は、彷徨さまよい出た死神のようだ。

 不吉な孤影は、ジャンの二つ名に相応しいものであった。

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