第45話 花と滴る

 教えることなど何も無い。

 シャザはそう言って困り顔で笑んだ。


「また、あの日のように修行をつけてもらえると思っていました」


 二人目の師は首を横に振った。

 ヴェーダ領主館の練兵場で向き合っているというのに、あの日のような修行を行う気は無いと師は言った。

 冬の晴れ間の昼下がりのことである。

 ヴェーダの語り草となっている白昼の決闘を知る兵士たちは、あの日の再現を待ちわびているというのに、いけずなことだ。

 リリーにとっても、それはとても、いけずなことである。


「いけず、ですね」


「町方の娘に流行っている西方訛りですか。そんな言葉を淑女が使うものではありません」


 美姫に言われて、リリーは小さく唸る。


「しかし、なかなか響きが良いではないですか。それに、可愛い言葉に聞こえます」


「まったく、若い者というのはどうしてそんなものに飛びついてしまうのか。いけずというのは、西方都市諸国の遊女たちが使う言葉ですよ。帝国人の使うものではありません」


「シャザ殿はお古い」


「古くて結構」


 シャザは背負っていた戦杖を右手に、何か言おうとして「むむむむ」と唸った。


「その浮ついた精神、鍛え直して進ぜる」


 呆れたように、そして、怒ったように早口でシャザは言った。リリーに乗せられたことに途中で気づいたのだ。


「真剣でよろしいですか」


「構いません。余計なところは成長しましたね、リリー」


「シャザ殿、あなたには見て頂きたかった。強くなったか弱くなったかは分かりませんが、お見せしたいのです。母上には、見せられませんから」


 はっ、とシャザは目を丸くした。

 この娘は、いつの間にか素直になった。

 シャザの知るリリーは、姫にあるまじき自分を隠すため、ことさら武人として振る舞う小娘であった。


「男子三日会わざればなんとやらと言いますが……」


「女子ですよ、シャザ殿」


 言うようになりおったわ。

 シャザはオーク戦杖をくるりと回して、構えた。

 リリーもまた白刃を抜いた。


「成長しましたね」


 相対して、よく分かる。

 三日会わざれば、まさにその言葉の通りである。理外の存在と合一して放つ息吹秘剣、これではもはや使えまい。

 目の前にあるのは、剣鬼でも武人でもなければ、超常の魔剣士でもない。剣が上手い小娘である。


「もはや、言うことはありません。やれ、リリー」


「はい」


 リリーは気負いなく答えると共に抜剣。

 後の先を得手とするシャザにとっては理想の出だしである。リリーは旅で身に付けた地摺りの型から、刃を跳ね上げる。

 金属と金属ぶつかり合う音が響いた。


「む、やるようになりましたね」


 シャザの声には余裕があるが、それは逆に余裕の無さを隠すためのものだ。

 小手先の業などというが、それは誘いのための動きである。組手などに用いられる殺気の無い誘いなど、実戦に役立つものではない。

 そういった類の剣に見えて、確実に殺意のある軌跡であった。


「しっ」


 声の代わりに小さな気合の息を吐いてリリーは答える。

 リリーは鍔競り合いから距離を取るために半歩下がり、また前に出た。


「ふんっ」


 我知らず気合の声が出た。飛びかかる毒蛇のごとき突きを、シャザは戦杖で受け流す。

 師であるシャザをもって、この成長は恐るべきものであった。

 息吹は自然との合一を果たす業である。殺し業は冬の嵐となり、誘いの剣は春の陽射しにも似ている。

 今のリリーの振る剣からは、息吹にある鋭さは消えていた。むしろ、どこか柔らかな大気に溶け込むような剣である。

 打ち合うごとに、体力が削られるような不気味さがあった。

 言葉をかけたいが、言葉の代わりに口元が歪な弧を描くのをシャザは止められない。命のやり取りこそが、自らの腹の奥に潜む黒々とした蛇を慰める。

 シャザの本質は嗜虐の悦びを欲する悪鬼であり、同時にそれを諌めようとする菩薩の混ざり合うものだ。


「くふ、ふふふ」


 磨き抜かれた技術により優雅ですらあった戦杖の動きが、激しいものに変わった。

 リリーもそれに合わせて剣の速度を上げる。

 帝国の剣術において、回転数という理がある。

 大剣の一、長剣の二、細剣の三、短剣の四。

 大剣が一撃で相手の命を奪うことに対して、それぞれの得物により命を奪う数があるとするものだ。

 技術を高めれば、全ては一となる。屁理屈である。

 回転数の理で言えば、シャザは高すぎる技量により、常から回転数を増やしていた。手加減をせねば、全てが一で片付くためだ。


「修羅の貌ですな、シャザ殿」


「リリー、よくも、よくも、私の仮面を剥がしてくれたな。弔流きりゅうとは、自らの研鑽を弔う封術であったというのに」


「シャザ殿、……来やれ」


 傍から見れば。それは型稽古か演武、ともすれば舞踏の修練に見えただろう。

 戦杖という長物を相手にしてリリーは距離を詰め、シャザは長い得物で十全にその剣を受ける。

 変幻自在という言葉はシャザを表すだろう。

 捩くれた金棒であるオーク戦杖は、ときに脇をくぐり天を突き、鷹のごとく急降下してつま先を潰しにくる。それをリリーは小さな動作でかわし、受け流す。

 互いの身体を掠めるが、血は落ちない。

 放つのは急所狙いの殺し業だ。生半可に避けられないからこそ、その手を潰していくしかない。

 無限に続くかと思われたそれも、終わりを迎える。

 シャザの振るう戦杖の切っ先が、リリーの額を目前にぴたりと止まった。


「参りました」


 リリーは薄い笑みと共に言う。

 シャザは小さく息を吸い込んで、戦杖を下ろした。呼吸が乱れるのは久方ぶりのことだ。


「教えることは、何もありません」


 リリーは首を横に振った。


「剣以外のことは、教われませんか?」


「遊女上がりの卑女はしために何を望まれます、人食い姫様」


「淑女の振る舞いをご教授下さい」


「言ってくれる……。よろしい、明日からはそちらを教えましょう」


「ありがとうございます」


 シャザは背を向けて練兵場を後にする。

 全身に心地よい疲労がある。

 この立会いはヴェーダの人々の語り草になるだろう。様々な視線に慣れてしまったシャザだが、負けたのは自分だと言いたい気持ちがある。

 隣にやって来た気配に、小さく息を吐く。


「ウドか、帝都はどうでしたか」


「吸血鬼の野郎は餌に食いつきましたよ。ちょいと厄介なおまけがつきましたが」


 ウドは帝都でのことを報告する。

 ユリアンには書状を手渡した。彼奴きゃつが尋常でない様子であったことから、内容までは知らぬが餌に食いついたことは分かった。そして、問題は死神のジャンである。


「そうですか、感謝します。先ほどの立会い、どう見ました」


「シャザ殿の勝ちですな」


「十度やれば、九度は私が勝ちます。ですがリリーは、死合いとなればその一度を引き寄せるでしょう」


「お嬢様ならば、さもありなんといったところですか」


 リリーの従者であるウドは、さも当然といった風に言った。


「本当に、若者の成長というのは……」


 シャザは自らが死人であると自覚した。そろそろ目覚めねばならない。死人は動かないからだ。

 天佑てんゆうというものだった。


乾坤一擲けんこんいってきは今を生きていなければ得られるものではないのですね。ウドさん、いつぞやのあなたへの説教は間違いでした」


「ははは、間違いでもなんでもいいじゃありませンか。全ては受け取る者のおつむ次第、石ころだって金に見えるのが人ってモンでしょう」


 言葉を失った。

 今日は驚くことばかりだ。

 いつの間にか、彼らは何かを失い何かを得て変わっていた。


「年は取りたくないものです」


 美姫は物憂げに言って、贖罪に終わりの時が近づいたことを知る。





 始祖の吸血鬼は全ての吸血鬼の母である。

 遠い昔、巨大な蚊の怪物と通じて子を為した男がいる。それこそが吸血鬼の始まりであった。

 始まりの吸血鬼は人よりも蚊に近かった。

 人間と交わって子を為すごとに、弱くなり、人に似ていく。

 どうして強い特徴を捨てて人間に似ていくのか。

 簡単なことだ。吸血鬼の遺伝子は、人間と言う種の侵略を受けて敗北を喫したに過ぎない。

 ユリアン・バアルという吸血鬼は中途半端な力と、他の吸血鬼には無い野心があった。その野心とは、人の世界で成り上がろうという小さなものだ。

 力ある吸血鬼の多くはすでにいない。魔人たちに狩り尽くされたからだ。

 残る少数の力ある吸血鬼たちも、自らの造りだした半吸血鬼(ダンピール)による親殺しでその姿を減らしていた。

 半吸血鬼とは、人間の特徴を取り入れた吸血ではない。吸血鬼の特徴を、遺伝子を取り込んだ人間である。

 シャザの仲間である伊達男などがその完成形だ。彼は古い時代から生き続けた吸血鬼を狩り、親殺しにより人間という種族の勝利を証明した。

 吸血鬼は役割を終えた種だ。

 人間に統合されるという役割を、始祖の吸血鬼が望んだ役割を全うして滅ぶしか道は無い。

 そんな吸血鬼に咲いた落日らくじつ徒花あだばな。それがユリアン・バアルである。


「ついに、ついに来た」


 ユリアンは手勢を率いてヴェーダを目指す。

 始祖の吸血鬼の羽で造られた書状には、ユリアンの望む全てがあった。

 ただ一つの条件で、妖精と同等の存在である始祖の吸血鬼が自らのために助成するとある。


「ははは、はははは、そんなことだけとは」


 あまりにもその条件は簡単である。ユリアンは悪意に気づけない。そして、気づいたとしてもなかったことにするだろう。

 始祖の吸血鬼の課した試練とは、リリー・ミール・サリヴァンに己が子を宿らせることである。


 ユリアンが帝都を発つ前のことである。

 慌ただしく手勢を集めているさ中のことだ。


「ユリアンくん、どうしたの」


 カリラを伴った寵姫シャルロッテに、ユリアンは膝をついて平伏する。


「これは姫様、ご機嫌麗しゅう」


 水晶宮を自由に歩き回るシャルロッテの姿はよく見られる。

 何をするという訳でもないが、働く者たちに労いの言葉をかけるため、下級の役人や騎士の受けはいい。旧体制を知る貴族からはすこぶる評判は悪かったが、齊天后体制の者たちからは好かれていた。


「別に麗しくないかな。何か、あったの?」


 ユリアンはその物言いに戸惑った。学生であったころのような口ぶりだ。

 護衛にあるカリラは何も言わずにユリアンたちを見ている。


「はは、火急の任があり出立の手配を行っている次第にございます」


「ユリアンくん、どうして、戦うの」


 ユリアンはその言葉を聞いた瞬間、強烈な怒りに視界が白く染まった。

 後先を考えず、言葉を発する。


「強さを証明するのに、これ以上の機会は無いかと」


 お前に何が分かる。

 齊天后に愛されただけのガキに何が分かる。


「……ユリアンくんは充分強いよ」


 吸血鬼という日陰者に生まれ、立身出世を夢見て帝都を目指した。吸血鬼は人より強い力を持つというのに、届かなかった。


「齊天后様の世は、力ある者が昇る世にございます」


 帝国の臣として細作働きを続け、太平の世になってからは学院の生徒の監視役となる。どれほどに、暗部である細作たちからも嗤われたか。

 同朋からは吸血鬼の誇りを捨てたと蔑まれ、同じく臣である者たちからは嘲りを受ける。


「悪いこと、向いてないよ。いま、辛そうなのに」


 俺はどのようなことでもしたぞ。俺はどれだけ汚いこともやった。それでも、お前たちは認めなかっただろう。いくら結果を出しても、女衒の吸血鬼と俺を呼ぶ。


「悪という言葉は古来、強いという意味にありました。吸血鬼たる私めもまた、悪に相応しいということを寵姫様に証明してみせましょう」


 ユリアンは立ち上がり、背を向けた。

 シャルロッテから言葉は無い。

 妖精には齊天后殿ですら太刀打ちできなかったと聞く。ならば、それと同等かそれ以上の存在である始祖の吸血鬼の力を得られれば、帝国の頂きにまで昇れるやもしれぬ。

 背を向けたユリアンは気付かない。

 寵姫シャルロッテが哀しげに目を伏せたことに。

 ユリアン・バアルが他者から侮られるのは、吸血鬼特有の柳腰や美形からではない。正面から戦うことのできない弱さを見抜かれているからだ。


 弱い者は、時に虚勢と理屈をこねる。


 弱かろうが強かろうが、目の前に刃があれば獣の理で撥ね除けねばならない。尻尾を巻いて背中から斬られるくらいなら、腹に刃を埋められてでも刺し違えねばならない。

 帝国で力を武器にするというのなら、そのような獣の理を持たねばならない。


「そんなの、似合わないのに……」


 どうしてもそれが持てないのなら、他にも道はあった。

 獣から遠いのであれば、その理から離れた世界で生きるしかない。法務官や徴税官といった獣性を理知で制する生き方がある。

 ユリアンのあろうとする姿は、あまりにも痛みを伴う。寵姫はそれを嗅ぎ取っていた。

 唇を噛んで止められないことを悔やむシャルロッテの肩に、カリラが手を置いた。


「姫様、何を考えていらっしゃるかは分かります。あれはあれで良いのですよ。男に生まれたなら、それもまた一つの道でしょう」


「そんなこと、無い」


 カリラは肩の手を離していた。

 年若く、運命に翻弄される寵姫の言葉には、煮え滾る独善が込められている。それこそ、カリラともあろう者が、驚きのあまり我を忘れてしまうほどの熱があった。


「カリラさん、行って下さい。手を貸せとは言いません。だけど、ユリアンくんが、間違わないように」


 寵姫や毒婦などと呼ばれる姫は、熱を内包している。力ある壊れた屍に過ぎなかった齊天后マフも、彼女の熱で生き返った。

 逡巡するよりも先に、口が動く。


「……我が君より、姫様に従うよう仰せつかっております。代わりの護衛を手配し、すぐにでも発ちましょう」


 カリラがついに、帝都を出る。







 時間を止めることはできず、新年を迎えた。

 世は不穏であるというのに例年の行事は行われ、人々は小さな宴を楽しむ。

 城塞都市ヴェーダでもそれは変わらず、領主の館では連日の宴が行われている。主役はラファリア皇帝陛下だが、リリーもまた客寄せの珍奇な動物といった有様で賓客を楽しませている。

 リリーは腹が痛いだなんだと言って出るのを拒むが、これも勝利した後に活きる布石だと言われて渋々出席していた。

 アヤメもまた名前が売れ始めており、仕方ないといった様子で宴を楽しんでいる。内心ではうんざりだろうが、楽しげな仮面を被って冒険譚を語る毎日を過ごすハメに陥っていた。

 明けて五日を過ぎたころからリリーは宴に出なくなった。月のモノだという言い訳を使うことになったが、月と共に訪れるというのなら間違ってはいない。

 アヤメも付き従うつもりだったが、ラファリアの護衛としての役目があった。



 リリー、ウド、シャザ、伊達男は冷たい夜の街道を進んでいた。

 城塞都市ヴェーダを出て一里ほどの距離を歩く。

 街道には雪が積もっていたが、風は穏やかである。新年を迎えたばかりの、今年最初の満月が空に煌々と輝いている。

 月は人を狂わせるというが、これだけ寒いとそんなものに見惚れている余裕は無かった。

 伊達男が簡単な風よけ天幕と焚火を作ってくれたおかげで、手を温められる。

 リリーは石を投げいれて温石おんじゃくを作ることにした。

 温石とは、焼いた石を布でくるみ、懐に入れて暖を取るための道具だ。修行の旅で師より教わった知恵の一つである。

 手を温めておくのは冬の戦いの備えだ。かじかんだ手で剣など握れようがない。


「随分と古いことをするんだな」


 と、伊達男は言った。

 リリーはこの半吸血鬼とあまり話したことが無い。だが、どこか稚気を残した振る舞いは嫌いではない。死神の無理をして明るく振る舞うようなものとは真逆にある。


「師が、古い人でしたから」


 ずれた人だったと今なら分かる。

 不器用な生き方をしていて、それはとても美しく見えた。しかし、その果てにあったのは苦難の生だ。あれだけの腕を持ちながら、諸国を放浪して生きる無頼でしかないのだから。


「帰る家も無いと、師は言っておりました」


 どこの出身であるかは知らないが、異国人であるのに間違いない。海を渡った魔国か、それとも東の果てにあるタイクーンが治める神秘の大地か。


「帰る家は、見つけるか作るかするもんだぜ」


気障キザなことを仰る」


 伊達男に、それはよく似合う。

 リッドの諧謔かいぎゃくには気取ったところがあり、黄金騎士のそれはどこか捻くれている。それに比べて、伊達男のそれは真っ直ぐだ。同じような男たちでも、それぞれ違う。

 ラファリア皇帝陛下はどうだろう。あれは、いつも真正面からの言葉を逃げる。

 どうにもおかしくなってきた。理由は分からない。


「ふふ、はははは。助言を頂きたいがよろしいですか、伊達男殿」


「帝国一の伊達男に、答えられない悩みは無いぜ。恋するウサギちゃん」


 片目を閉じて言う伊達男に笑みを誘われた。


「わたしを好いているという男はみな、ロクでもない。わたしは、どんな男を選ぶべきでしょうか」


 伊達男は笑みから困り顔になった。

 リリーは火中の石を見ながら返答を待つ。たき火の炎から発せられる熱に、体の正面が暑くなった。髪を焦がさないよう気をつけて背中を火に向ける。


「疲れない相手がいいんじゃねえか。一般論だが」


「周りの男は、だいたい疲れます」


 大抵は戦った。そして、ラファリアに至っては巡礼の旅だ。


「なら、もっと出会いを見つけるこった」


「町娘ではありません。簡単に言ってくれる」


「俺から見たら、大抵の女はガキだよ」


 半吸血鬼の寿命は長い。エルフより長生きする者もいるとか。彼は三十代の男に見えるが、実年齢は分からない。

 ウドがたき火に当りにやって来た。

 冬用の忍装束だというのに、手をすり合わせて冷えた体を温めている様は滑稽だ。


「ははははは」


「ふふふ」


「そんなに笑わなくたっていいでしょうに。細作だって寒いものは寒いンですよ」


 ウドは拗ねたように言う。

 この男も旅を経て変わった。

 談笑しているとシャザも火に当たりにやってきた。そして、口を開く。


「物見から連絡がありました。暗殺者の手練れが十人程度、多くて三十ほどですか。頭目のユリアンは私が相手をします」


 シャザの言葉に一同は頷いた。


「死神は、わたしがやりましょう」


 仕留めきれなかった相手であり、魔人だ。

 生半なまなかな相手に後れをとるなどあり得ないが、戦いに絶対は無い。

 ここで敵を待ち構える者たちはみな、小さなたき火を作って体を温めている。

 寒さに対して強靭な抵抗力を持つ亜人や吸血鬼はそんなことをする必要が無く、冬場でも戦える。だが、彼らは人間という種に敗北した。


「来ましたな」


 居住まいを正してウドが言った。




 戦いの始まりは唐突だった。

 闇から現れた吸血鬼たちが、待ち構えていた兵士と細作の首筋に飛びかかる。

 吸血鬼は読み物や詩作の中で耽美な血の吸い方を披露するが、実際には太い血管を噛み千切り血を啜る鬼だ。

 シャザはユリアンの気配を探り闇に飛びこみ、伊達男とウドが手勢を率いて吸血鬼たちと切り結ぶ。

 リリーもまた、襲い来る吸血鬼を斬った。


「妙だな」


 ころりと転がる首を見もせずにリリーは言葉を漏らした。

 こんなに簡単に人の首は斬れたものだったろうか。上手い具合に刃が走ったのは分かるが、以前よりも気負わずに剣を振れている。

 殺意とは荒々しいものである。なのに、今の心は静かだ。人を斬ることに何も感じないという訳ではないが、いやに、自らが静かであった。

 これが、修羅というものか。

 はたと気づく。

 そうか、わたしは修羅であったか。

 息吹は人の遣う剣。どうして息吹を乗せられなくなったか、戦いの中で分かる。この身は外道まで堕ちたか。だが、それで良い。鉄の棒で人を叩くことが生きがいというのなら、間違っていない。

 一方、ウドも同じく戦っていた。

 相手は吸血鬼だが、動きで分かる。細作だ。


「骨の貴婦人殿の手勢じゃねえってことかい」


 独断だろう。

 目当てを引き寄せる餌だと言われて書状を届けた経緯がある。この戦い、齊天后マフは預かり知らぬことだ。

 ウドの飛び苦無が吸血鬼の額に突き刺さる。これで倒れてくれるのは有難い。

 普通の吸血鬼であれば、多少丈夫な人間という程度の脅威でしかないが、本物の怪物はこの程度では死なない。


「おーいおい、俺の相手にゃ弱いんじゃねえのかっ」


 名の知られた吸血鬼殺しである伊達男の陽気な声が響いた。ウドは笑いそうになった。ぐるりと七人からの吸血鬼に囲まれて、呑まれているのは敵方だ。

 ここまでは問題無い。

 ウドは戦場を駆けながら、シャザの姿を追う。

 気負う戦いほど危ないものは無い。





 びゅう、と強い風が吹いている。

 あまりにも寒く、達人であるシャザであっても、息を吸い込むのが一苦労という有様だ。


「ユリアン・バアルか」


 シャザの声はそんな中でも大きく響いた。


「おっと、これは随分と美しい御嬢さんだね。どこかで会ったかな?」


 闇の中から現れる相貌は、白皙の美形を持つユリアン・バアルである。

 風が吹いた。


「……という名前を憶えていらっしゃるか」


 シャザは前世の母の名を尋ねる。


「さて、聞いた記憶はあるが」


「母の仇討ちじゃ」


 万感の想いがあるというのに、シャザの口から出たのは実に単純な言葉である。

 真の仇が誰であるか、それはもう分からない。だが、やらねばならぬ。そうでないと、帳尻が合わない。


「ははっ、それだけ美しいなら、血も美味そうだ」


 ユリアンの瞳がぎらりと輝いた。

 シャザはオーク戦杖を突き入れるが、ユリアンは避けもしない。心臓を穿つ一撃に手応えはなく、彼の肉体が霧に変じたと知れる。

 古い吸血鬼にだけできる霧化という理外の力だ。

 シャザは戦杖を引き戻して気配が集まる場所を穿つ。


「ぐっ、なんだ」


 霧の中で血の花が咲いた。

 命の動きは風が教えてくれる。どうして分かるのかは、よく分からない。ただなんとなく、相手はここを突かれたら嫌だろうな、という部分に向けて切っ先を押し当てるだけだ。


「……吸血鬼の力というもの、見せて下さい」


 シャザにとって父とは誰なのだろうか。

 オークであったころに憎んだすくたれ者の父か。それとも、今生の商人であった父か。それとも、知性を授けてくれたフレキシブル教授が父と言えるのか。

 そのどれもが父親なのだろう。


「ふん、見せてやろう」


 霧化させていた肉体を人の形に戻す。シャザからすれば遅すぎる。それでは、突いてくれと言っているようなものだ。

 戦杖は、ユリアンの腕を掠め、はなびらのように血が舞い散る。


「くそつ、生意気な女め」


 ユリアンが腕を振れば、滴る血は鋭い礫となってシャザに襲いかかる。

 肉体が、頭より先に反応した。染み付いた業で、考えるより先にそれを戦杖を回転させて弾いた。


「……」


 息が、上手くできない。きっと、冷たい風のせいだ。

 前世の母。気の触れた奴隷である母が愛した美しき吸血鬼ユリアン・バアルは、憎い相手のはずである。

 ユリアンは本当に仇なのか。

 母は、狂っていた母は、本当は誰を愛していたのか。どうして火刑に処せられる父へと走ったのか。

 呼気が乱れる。


「はっ、はっ、はっ」


 近くに野良犬でもいるのかと思ったが、それはシャザ自らの呼吸であった。口を開けて、空気を吸っている。


「よ、妖術ですか」


 齊天后マフに与えられた『進化』のための神具で、ユリアンは古い吸血鬼と同等の力を持つに至っている。そこまでの調べはついている。


「ふふ、血漿弾というのさ。さあ、人間は高貴な僕の餌だと知れ」


 どうして、みずからの食事を餌などと呼ぶのか。それでは獣であることを認めているようではないか。

 私、俺、という、人間、オーク、は、どうしてこんなことをしているのか。

 ユリアンは元より関わり無き者ではないのか。これは父とは呼べない。ただ、狂った女が拠り所にしていた化物に過ぎない。

 血の弾丸をよけながら、後ろに、後ろに。

 火に包まれる前世の父母から、逃げ出したのではなかったか。あの時も、こんなふうに足は後ろに進んでいた気がする。


「うっ、く」


 シャザは息を吐いた。

 戦杖が重い。

 どうして、こんなにも腕が重いのか。

 腕に血の弾丸が当たる。右の二の腕から、シャザの血が溢れる。

 こんな怪我を負うのは、ずっと久しぶりだ。


「ああ、そうか」


 思い出した。

 痛みは様々なことを思い出させてくれる。


「戦意喪失かな」


 ユリアンの声はあまりにも軽く上滑りしていて、シャザは悲しくなる。

 ただ無言で、戦杖による突きを左手で放つ。それは、ユリアンではなく、何も無い場所を突いた。

 虚空に血の花が咲く。

 幻影を作り、透明化の術でその身を隠していたユリアンの下腹部に、戦杖の切っ先が埋まっていた。


「やるな。だが、この程度で吸血鬼である僕は倒せないよ」


 シャザはユリアンを見ていなかった。


「生まれてなんて、きたくなかった」


 ああ、いま、泣いているのか。


「何を、言っている」


 シャザは表情も無く、涙を零していた。


「生まれてなんて、きたくなかった……。この世に欲しいものなど何一つ無い。この世に、価値あるものなど、何一つ、無い」


 戦杖を引き抜いて大地に突き刺す。

 雪に、切っ先は埋まった。

 シャザの手からはぽたりぽたりと血が零れ落ちて、雪を赤く染めていた。


「じゃあ、死ねよ」


 ユリアンの手が、悪鬼のものへと変化してシャザに肉薄する。

 瞬間、ユリアンの見たものは空に輝く月の光である。

 何が起きたか、痛みと共に気づく。女の手で顎を下から殴られたのだ。


「私があがなう罪は、私がこの世に生まれたこと。ユリアン・バアル、ここで、私のために死ね」


 腹を蹴りつけられる瞬間、ユリアンは巨大な蝙蝠へと姿を変じた。

 吸血鬼にだけ出来る異常な形態変化で蹴りを避け、そのまま人の姿に戻りシャザの胸元に爪を振り下ろす。

 シャザはユリアンの腕をすり抜けるように前に出て、左手で貫手を放つ。指先は、ユリアンの右目を、眼窩を抉った。

 左手を抜いて、そのまま大地に突き刺していた戦杖を取る。


「やめろ、やめてくれ」


 シャザは何も言わず、ユリアンの心臓を一突きにした。

 迷いの無い、常からのシャザの業であった。


「これで良い。帳尻は合った」


 価値が無いのなら、外に価値を求めよう。欲しいものは、かつてあった。今はもう無い。とうの昔に失くしてしまっていた。

 自らの胸に空いた空虚は、何を入れても塞がるまい。だからこそ、他者の空虚を埋めよう。悲しみに満ちた空虚を埋めよう。

 悲しみも何も無く、ただ胸に空いた穴を埋めてくれるのは、きっと、前世の父と母、そして、今生の父と母にあった。だが、そのどちらをも、自らが捨てた。

 孤独を友にし続けると、こうなる。一番欲しいものを自らで遠ざける。


 ユリアンはシャザの心を知りようがない。

 すれ違うだけの、あまりにも孤独な因縁であった。だが、それも終わる。

 シャザが背を向けて歩き出す。

 伊達男に加勢をせねばならない。

 背後の気配には気づいていた。

 ユリアンの肉体が魔狼へと変化し、背中に襲い来る。

 古い吸血鬼は、様々な獣へと姿を変える術を持つ。生命とはほど遠い位置にある怪物であるからこそ可能な、魔の御業である。

 シャザ自身にも、これを見越して背を向けたのが慈悲であるのか、それとも下卑た悪意から来るものかは判然としない。

 ただ、互いにそれは最後の機会であると分かる。

 ユリアンにとっては敵を倒し理想へと近づく野心の踏み台として、シャザにとっては過去の清算として。


「さらば、母の愛したひとよ」


 そうつぶやいた直後、シャザの口から到底人が出すとは思えぬ気合の声が発された。

 振り向きざま、大気を揺るがすほどの気合の声と共に放ったのは左の拳である。

 魔狼の眉間にシャザの拳が吸い込まれる。そして、魔狼の眉間は砕かれて弾けた。

 目玉と細かな骨が飛び出て、血が辺りに飛び散る。

 真白な雪は、血と脳漿によって穢された。

 所詮、血潮とは体液であり野卑なる命そのものだ。血を花に例えることもあるが、それは偽りである。

 勝ったというのに、得たのは空虚である。ただ、そこに何も無いとだけ、それを確認するためだけの戦いであった。





 手出し無用にて。

 そう言われていたリリーは、唇を噛んでその戦いを見た。


「シャザ殿」


 簡単な事情は聞き及んでいる。

 ただ仇であるとだけ。

 物語にあるものと、仇討ちはあまりにも違う。サビーネのことで知っていたはずだ。

 それなのに、シャザを止められなかった。勝ったのにあれほど苦しみを背負うのか。恨みは無いと言っていたのに、あんなに苦しいのか。

 あれは、春を迎えた時にある自らの姿だ。


「これを見せるために……」


 シャザの意図を知ることはできない。他者であるが故に。だが、帳尻は合った。

 雪を割る足音が聞こえた。

 ざくざく、と雪を踏み砕く音だ。


「ユリアンは死んだか。あいつには世話になったから、メシぐらいは奢ろうと思ってたんだが、間の悪いことだ」


 風が止んだ。

 月明かりに照らされた死神が、そこにいる。

 セザリアで戦った時とは別人と思えるほどに、死神は静かであった。だが、口元に笑みがある。


「あの時の続きといくか、死神のジャンよ」


「そうだな。そのために来たよ。リリー」


 互いが同時に、刃を構えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る