後編

 「……10人に1人、10人に1人」

 女はガチガチと歯を震わせながら端に向かって歩いていく。

 ゆっくり、ゆっくりと。


「助かるよ。無理やり放り投げてもいいけど、そしたら目覚めが悪い」

 女ははたと立ち止まる。

「目覚め?目覚めって誰の?」


「俺の」


「ああ……そう。あの、最後にお化粧直ししてもいいですか?」

 ダメだ、と言おうとしてやめた。

 いいじゃないか。その方が見栄えがいい。

「いいぞ」

 俺はスマホを向けた。


 女はバッグからコンパクトケースを取り出す。カタカタと手を震わせるすぐに落としてしまった。

「あっ」

 ケースはあっという間に闇に消える。1、2、3秒後、地面に叩きつけられた音が届いた。カツーン!

「あーあ。あれも母ちゃんに買ってもらったのかよ」

「あれは自分で買ったの」

「ふうん」

「あの、さっき確率は10分の1って言いましたよね」

「言ったよ」

「10人に1人は助かるんですよね」

「助かる?まあ、それはそうだな、運が良ければ」その時、




「あ」


 女は上を見上げた。

 額に冷たいものが当たる。

 俺も上を見上げる。

 




 雨だ。




 

 天気予報を思い出す。降水確率は何パーセントだっただろう。


 女は持っていた傘をぱっと広げた。



「いっきまーす!」



 女は傘と一緒に飛び降りた。ふっと闇の中に溶けた。

「あっ」と俺は声を上げた。

 また忘れた。コメント撮ってねえ。クソが。

 




>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>





 バシッ!

 俺は女をビンタした。

「起きれ」

「あ、れ?」

 女は起き上がって辺りをキョロキョロと見渡す。

 自分がどこにいるのかすぐにわからないようだ。無理もない。

 さっき飛び降りたはずの屋上に戻っている。気絶していた女を背負って、なんとかもう一度運んできたのだ。

「目覚めたか?」

「私、私」

「自分がわかるか?」

「自分の名前、言ってみろ」

「エミ子」

「あはは。りりあだろ?」

「・・・生きてる。エミ子、生きてる」

 何か信じられないものでも見るかのように自分の両手を眺めている。

 何度も噛み締めるように味わうようにつぶやくといきなり立ち上がると両手を高々と上げた。クソが。


「生きてるううううううううううううう!ああああああ痛っいああああああ」


 女はもう一度ひっくり返った。

「足、折れたか。もう一度立ってみろ」


 女は生まれたての小鹿のように立ち上がる。

「痛いです」

 俺はしゃがんで足を触る。

「折れてるな。だがこれくらいじゃあ命に別状はない」

「ありがとうございます」

「歩いてみろ」

 ひょこひょことシャクトリムシみたいに気持ち悪い動きをしながら女は歩く。

 パシャ。俺はスマホを向けて写真を撮った。闇夜に不気味に女の顔が浮かび上がる。


「やだあ。撮らないで」


 女はスマホに向かって笑顔を向けた。ぱっと一瞬女の明るい一面が見えた。

 いいぞ。

「ピース!」

 女は急にゲラゲラと笑い出す。

 その様子をバッチリ録画モードで撮影した。

 よし、カット!頭の中の監督が声を上げた。


 俺は女を撮り続ける。折れた足、晴れた顔、舐めるようにゆっくりと撮った。


 「恥ずかしいんで、そんなに撮らないでください」


 撮った。


「やだもう」


 俺はじっくり撮った。



「あの・・・まだ撮るんですか?」



「おう」

「え、なんで?」

「何度も言わせんじゃねえよ。見せしめだよ」

「見せしめ?」



「この動画を他の債務者に見せんだよ。借金を返さないと、死ぬより辛い目に合うって」








   


「え?」



「ほら笑えよ」




「え?」



「世の中にはルールってもんがある。ルールってのは破っちゃならねえ」

「今、『死ぬより辛い』って言いました?」






「ルールは絶対だ。ルールが破られたらそれはもう意味がなくなっちまう。もしルールを破るやつがいたら、しっかり教えこまなきゃい

けない。それ相応の報いを受けるんだって」



「え、ちょ、『死ぬより辛い』ってどういう意味ですか?」




「金を貸したら返す。当たり前のことだ。出来ない奴は人間のはくずだ」

「え?え?え?」

「わからないか?」

「なんのことですか?」

「じゃあひとつ聞くけど、ここ何階だよ?」


 女は階下を見て、階数を数える。


「3階」



「3階から落ちて10人中9人が死ぬわけねーだろ」

「えっ。そうなの?」

「逆だよ」

「え?逆?え?どう言うこと?え?」


 女は後退りを始めた。

 拳銃を撃つ。ズドン!おっとそろそろ弾切れだ。


「きゃっ」

 俺は屋上の端を指差した。




「もう一回だ」




「え?え?」

「もっかい飛べ」

「え?え?え?」

「もし次、飛び降りて、また死ななかったら、もう一度。それでも駄目ならもう一度。それも駄目ならまた次。何度でもやるぞ」

「え?え?え?え?え?」

「何度でもだ」

「な、何度でも?」女はもうほとんど泣いていた。




「死ぬまでだ」




 女は鼻水と涙でぐしゃぐしゃになった顔をこちらに向ける。

 理解したか?

 この高さから落ちて死ねるのはせいぜい10人に1人だ、


 俺はもう一度拳銃に弾をこめる。


 もちろんスマホも女に向ける。こんな悲劇もう起きないように俺は願った。

 そのためにはなるべく痛々しく写されていればいい。

 女は青ざめた顔のまま俺とさっき自分が飛び降りたばかりの場所を何度も何度も見比べる。


 もう一回。

 あるいはもう十回。

 

 小刻みに震える女に小さな声でつぶやいた。


 なあ


 おい


 次は


 運がいいといいな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

10分の1 ハル @whit_e

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ