超過風月

柿尊慈

超過風月

 ひとりぼうっと雨の中、傘を差して歩いていると、地面にビニール傘が落ちていた。俺はその近くにしゃがみこんで、まるで子猫に話しかけるように、「そうか、お前もひとりなんだな……」なんて言ってみる。

 バカじゃないのか、とすぐに我に返った。

 こいつは猫じゃねぇ、傘だ。何なら、壊れてない健全な傘だ。誰かが落としたのだろう。いや、置いてくるならまだしも、傘を道に落とすか? この、そこそこの大雨の中で。落としたやつは、相当の馬鹿者だろう。それも、傘に向かって話しかけちまうような、俺と同じくらいの、バカだ。

「こんな道路の真ん中に捨てられてたら、いつ車に轢かれちまうかわかんねぇよな、かわいそうに……」

 俺の声を掻き消すように、雨が降りしきる。

 かわいそうなのは、俺だった。同じ徹を踏んでいる。何も反省していない。よほど寂しいのか? どうしてまた傘に話しかける?

 安物のビニール傘。駅の近くのコンビニで購入したものだろうか。いくらビニール傘が使い捨て感覚を持たれるようなものだとしても、実際に捨てることはなかろう。ずっとここに転がっていたのなら、確実に車に轢かれているはずだ。しかし、こいつは無傷。ということは、誰かが少し前に、ここに落としていったのだ。この、雨の中。

 落ちていたビニール傘を手に取る。拾った人は1割もらえるんだっけ。いや、どこだよ、ビニール傘の1割。骨1本とかだろうか。いや、質量的には1割すらなさそうだが、どう考えても骨1本なくなるだけで傘はポンコツになるのだから、1割どころか8割くらいの機能が停止してしまう。

 いや、何の話だ。

 傘を差しながら、空いた手でビニール傘を持つ。二刀流の剣士になったような気分で立ち上がると、ふいに背後から声をかけられた。

「――すみません」

 女の声がした。メス・ボイスだ。メス・ボイスに振り返るとそこには、身長160センチくらいであろうか、まあ、そこそこに、俺の好みと言えないこともないひとりの女性が、傘を持たずに立ち尽くしていた。とはいえ、びしょびしょの美女というわけではなく、傘の代わりにリュックサックを頭の上にかかげて、雨をしのいでいる。

「どうかしましたか?」

 過去最大級のいい声で俺が答えると、黒く長い髪を少し濡らした女性は、顎をくいっと動かした。

「その傘、私のです」

 その傘……。

 なんと! 雨は天の恵みというが、まさにこれは、恵みの雨ではないか。雨のおかげで俺は、普段関わることのないような美女に、話しかけてもらえたのだ。しかも、たまたま拾った傘が彼女のもので、つまり俺は彼女を助けた紳士ということになる。

「そうでしたか、それはよかった。さあ、どうぞ」

 いい声を続けるのは苦労するな、などと思いながら、俺は体ごと彼女を向いて、ビニール傘を突き出した。彼女は、動かない。

 なるほど。これはあれだ、試されているわけだ。この状況でおれは、傘を差しだすだけではなく、さらに歩みを進めることで、さりげなく俺の傘の下に彼女を入れて、これ以上濡れるのを防いでやるべきなのだ。そして、さりげなく相合い傘も達成できるという最高の――

「いや、それはよかったじゃなくて。それじゃまずいんですよ」

「はい?」

「私の傘は、今あなたが差しているそれです」

「えっ」

 驚きのあまり、俺は差していた傘を手から落とした。




 よく考えたら俺の本来の傘は緑色だったはずで、なのに俺は堂々と、彼女の持ち物である淡いピンクの傘を差して、挙句の果てに、傘に話しかけていたのだ。地獄のようである。

「それで? どうして俺はあなたに付き合わなければならないんですかね?」

 振り返った彼女は、エスカレーターの一段上から俺を見下ろして、眉をひそめた。

「あなたが傘を壊したからでしょう?」

「ええ、おっしゃる通りなんですけれども」

 彼女からの突然の告白から衝撃を受けすぎた俺は、ぽろりと差していた傘を手元から落とし、瞬間、結構な速度で俺たちの脇を通り過ぎて行った自動車に当てられて、彼女の傘はバキリと骨が折れてしまったのである。

「本当だったら俺じゃなくて、あの車の運転手があなたの傘を弁償するべきだと思うんですよ」

「じゃあ、そう言ってたら、追いかけてくれたの?」

 まあ、無理でしょうけどね。相手は車ですし。さすがに男がひとり必死の形相で追いかけてきてたら止まってくれるかもしれないけどさ。いや、もっと加速して逃げていきそうな気もするけど。

 俺は首を振って、それを見て満足気に彼女がゆっくりと頷くと、俺たちはエレベーターを降りた。

 そんなわけで俺は、先程出会ったばかりのそこそこ美女と一緒に、駅の近くのデパートで、彼女の新しい傘を買いに来たのである。お金だけくれてもいいのよ、などと言われたが、もし1万円渡して3000円の傘を買われたら悲しいし気分も悪いので、いっそのこと美女とデートできると思うことにして、俺は彼女についてきたのだ。

 まあ途中で、弁償するのは俺じゃなくてもよかったのでは、なんて思ってしまったわけだが。

 というのも、これが愛想のいい、ぷりてぃな、きゃぴきゃぴした女の子だったならば、もう少し俺のモチベーションも上がっていたのかもしれないが、いかんせんこの名前も知らない女性は、さっきの雨よりも冷たいのだ。

 いや、それが妙にそそられるみたいなところはあるし、仮にぷりてぃな女の子だとしても、さすがに傘をぶっ壊されたら阿修羅と化すのかもしれないけど。

 まあ、せっかくの美女との(弁償)デートでありますから? 存分に楽しまないともったいないというもの。じっくりと選んでもらって、じっくりと、女性との時間を――。


「得した気分ね」

 そりゃそうでしょうよ、あなたは。

 当然といえば当然だが、そもそも買いたいものが決まっているのだから選ぶのに時間がかかるということなどなく、まっすぐに売り場に向かった彼女はすばやく目当ての商品を手に取ってまっすぐにレジスターに駆けていった。俺はそれに必死で早歩きで追いつき、レジで財布を開いたところで、彼女が何か異変に気付く。

 商品が、お買い得だったのだ。元の値段から2割引になっていた。

 しかし、だからこそ彼女は気が済まない。自分は元の値段で買って、それが壊れて、弁償してもらおうとしたら、なんと割引。これでは彼女が納得いかない。轢かれた傘の引かれた2割が、彼女に惹かれた俺の財布にのしかかる。要するに、俺は差分だけ別のものをおごることになったのだ。

 そんなわけで俺たちは、駅前デパートの地下にあるフードコートに座っている。傘を折られたときに比べれば明らかに上機嫌な彼女は、ここに来て3つ目となるクレープを黙々と頬張っている。頬張るというのはあくまでもたとえで、実際には小さなひと口でお上品に食べているのだけれど。上品じゃないのはその量だ。なんだクレープ3つ目って。

 それに、どう考えても差分の2割を超える額が、この3つのクレープに使われている。つまり、俺は彼女のために新しい傘を購入しクレープをおごるだけの人になった。もはや、彼氏の域である。もしかすると彼氏かもしれない。

「ないわね」

 ばっさりと否定された。ここまで切れ味がいいといっそ斬られた方も気分がいい。今更だけどマゾヒストかもしれない、俺。

「ところで、俺にはひとつ気がかりなことがありまして」

「こんなに食べて太らないか、とか?」

「まあたしかにそれは気になるけどさ」

 3日ぶりに食事にありつけたかのような食いっぷりである。かといって、食事をしてなかった人のようには見えない。彼女は細いが、健康的なスタイルだ。化粧は濃くないが、肌も綺麗だったりするので、少なくともビタミンだけは不足しているようには見えない。

「俺はその……あなたの傘を間違えて持って行ってしまったわけだ」

「そうね」

「疑問は残る」

「だから、何よ?」

「俺の傘、どこ?」

 しばしの沈黙。

「――そろそろシメのクレープかな」

 いや、シメのクレープって何だよ。聞いたことないぞ。

 この期に及んでまだ食べようとするのか。というか、もう既に料金は超過しているんですよ。俺のおごりの額からは、とっくに!

 などと思っていたら、彼女は自分のリュックから財布を取り出して、クレープ屋の方に歩いて行った。何かを注文して、待っている。意外と常識があるのかもしれない。ちゃんと、自分のお金で支払いを済ませた。まあ、それでも俺の支払いは超過してるんですけどね! 差額を返してください。

 戻ってきた彼女は、4つ目のクレープを片手に持ち、もう片方の手でまだ財布を持っていた。中身を確認しながら、彼女は言う。

「いくら?」

「何が?」

「余計におごってもらったでしょう? だから、その超過分をさ」

 ……はあ、それはまた。

 それならそうと最初からそう言ってくれればよかったのに、まさかそんなことになるとも思っていなかったから、受け取ったレシートは俺が飲み干した紙コップと一緒にゴミ箱にダンクしてしまったのだ。わざわざゴミ箱を漁るのも嫌だし。

「いいのよ、俺のおごりで。手数料だと思ってくれれば」

「変な人」

「自分好みの女の人とこうして一緒に時間を過ごせているんだ。クレープのひとつやふたつ、どうってことないさ」

 特に激しい感情など何もなく、淡々とそんなことを口にしたのだが、彼女の方は口をへの字に曲げて、訝しげな目で俺を見下ろした。

「……その反応に傷ついたから、やっぱりもらっておこうかな、超過分」

「いやよ」

 例によって、バッサリである。




 実は、というほどでもないが、俺と彼女は、雨に打たれる傘のシーンよりも以前に、既に出会っていた。以前というよりは、直前だ。

 俺はエキナカのカフェでちょっとした雑務をこなし、そのときに緑色の傘を持っていた。そして彼女は、同じ店のどこかにいたのである。薄いピンク色の、傘を持って。俺たちはふたりとも、傘は傘立てにぶち込んでいたものだから、俺が間違えて彼女の傘を持って行ったということになるだろう。どうして間違えたんだ。

 そして彼女は俺が店を出たあとに時間差で店を出ようとしたが、傘がないことに気づく。お気に入りの傘であったので腹が立った彼女は、犯人がそばにいるかどうかもわからないのに、雨の中リュックを傘代わりにして駅を飛び出した。

「そしたら、私の傘を差して、落ちてる傘に話しかけてる人がいて」

「あっ、見てたのね」

「やばいやつだと一瞬思ったけど、あんまりにも穏やかに話しかけてるものだから、悪い人じゃないのかもしれないと思って」

「なるほど、好感度が上がったと」

「上がってはないけどね」

 どうやら彼女の方が俺よりひとつ年上らしく、同じ大学の3年生であった。学部が全く違うために、大学内で会う機会など全くと言っていいほどなかったのだが、幸か不幸か、恥ずかしいところを見られるというファースト・コンタクト。

 さて、気が利くんだか冷たいんだかよくわからない彼女は、今度は俺についてきてくれて、ふたりが出会う直前まで滞在していた例のカフェに足を運んだ。これ以上彼女が食べるのを見たら胃もたれしそうなので、あくまでも目的は傘立ての確認だった。とはいったものの、一度入ってしまうと何も注文しないで出ていくのは気が引けるということで、結局彼女は何かシェイクのようなものを注文したのである。

「食べものじゃないから大丈夫でしょう?」

 いったい何を根拠に何が大丈夫だと思ったのかはわからないが、まあ彼女が大丈夫だと言っているのだから、大丈夫なのだろう。

 ちなみに俺の傘はなかった。大丈夫じゃないじゃないか。


 犯人は事件現場に戻ってくるというのが、俺の数少ない読書経験から導き出されたルールである。とはいえ、俺の傘を取っていった犯人は、自覚なく間違えて持って行ったためにもはや犯人ということもできないため、犯行現場であるカフェに戻ってくることはなかった。事件は迷宮入り。というか、事件ではなく事故だったのだ。

 しかし、解決していない問題がひとつある。道端に落ちていたビニール傘は、いったい誰のものであったのか。当たり前だが、彼女に声をかけられて、挙句の果てに彼女の傘を破壊に導いた俺は、そんな小汚い(当社比。実際は新品、未使用か)ビニール傘にかまっている暇もなく、例のビニール傘は道端に置き去りにしてしまった。いや、置き去りも何も、最初から置き去りだったんだけどさ。

 俺たちは駅を出て、ふたりの出会いの場所――および、ビニール傘の落ちていた場所まで戻ってきた。雨は少し弱まり、今や小雨になっている。傘を差すほどでもない。彼女は買ったばかりの傘をしっかりと開いていたけれど。

 さて、意外や意外。俺の求めているものはそこにあった。

「いや、なんであるんだよ」

 ビニール傘は、そのまま路上に転がっていた。俺の緑色の傘は、その隣。しかし、近づけば近づくほど、そのフォルムが明確になればなるほど、俺の瞳は、彼の変わり果てた姿を鮮明に映し出してしまうのである。

「バッキバキね」

 美女はそう言った。そう、バッキバキだ。路上に放置されたらそのうちこうなるだろうと誰もが予想できる、あんまりな結末だった。俺の緑色の傘は、見事に車に轢かれてボロボロになっていたのである。


 けどまあ、きっと、ビニール傘を庇って、俺の傘は轢かれたんだろう。想像してみようじゃないか。道端に転がるビニール傘。そこに突っ込んでくる自動車。

「危ない!」

 そう声を上げた俺の傘は、彼女を突き飛ばして、身代わりとなったのだ。


「――こっちもボロボロね」

 なんてことはなく、ビニール傘も綺麗に下敷きになった形跡があり、身代わりも何も一緒にお陀仏という、非常に格好のつかない感じの仕上がりだ。危ない! なんて声を上げることができるもんか。ただの傘だぞ。危ないのは俺の頭だ。

 俺はしゃがみこんで、数年使い続けてきた俺の傘の、変わり果てた姿に手を合わせる。特に思い入れがあったわけじゃないが、結構な期間使い続けたため勝手に魂とか宿ってそうなので、傘の霊的なやつが呪ってこないように、成仏させているのだ。いや、仏になれるのかはわからないが。

「考えられるのは、誰かが故意に、他人の傘を盗んでは道端に放置し、轢かれて壊れるのを楽しんでいるとか、あるいは設置した本人がトドメを刺しているとか」

 無残な姿で発見された傘2本を見下ろしながら、彼女はそんなことを言った。

 この世界というか、この近辺にそんな歪んだ性癖をお持ちの方がいらっしゃるとは考えたくないが、彼女の予測はある程度正しいのだろう。道端に傘が2本並んで落ちているなんて、ありえない。人為的なものとしか考えられない。

「けど、まあ」

 俺はビニール傘の方に語りかける。

「よかったじゃん、ひとりじゃなくなってさ」

 何もよくない。語りかけるな、俺。

 彼女が小さく鼻で笑う。俺だって、道端に転がってる折れた傘に向かって「よかったじゃん」とか話しかけてる男がいたら指を差して笑うだろうけどさ。

 彼女は声に出して俺の奇行をバカにすることはなく、黙って飲みかけのシェイクを俺に突き出した。

 しばしの沈黙。再度突き出してくるので、これは合意が成立したと考えられるだろう。それを受け取る。少しの罪悪感に動きを止めてから、ストローをくわえて吸い込む。間接キス。

 甘いものが身にしみた。疲れていたのだろう。正直、傘がないとか間違えたとか、そんな程度のことじゃここまで疲れるはずもなく、彼女に対して気を遣ってるんだか遣ってないんだかよくわからない距離感で接していたために、疲労感を味わっていたのだろう。あなたのせいじゃないか、とは口にしない。

 ズゴゴッと、ストローが空気を吸い込み始める音がする。残りの少なかったシェイクを飲み干して、ストローをかじりながらぼうっと、寄り添った傘たちを見る。

 まあ、俺も今、ひとりじゃないんだけどさ。

 しゃがんだまま、彼女を振り返った。目が合うと、彼女が手を差し出す。

 白い手のひらを見つめた。そして頭上から、メス・ボイス。

「今あなたが飲んだ分のシェイク代、よろしく」




 おいおい、それはないだろう。




(おわり)

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超過風月 柿尊慈 @kaki_sonji

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