第11話

 思いがけなく、ルースの過去の片鱗に触れてしまったのは、それから数日後のことだった。

 たまたま手が空いたサーラは、水汲みをしようと思い立つ。

 孤児院にある小さな井戸はかなり深く、水汲みはなかなか重労働だ。いつもならルースがしてくれていたことだが、今日は朝からとても忙しそうだった。水汲みのためだけに呼び出すのは、気が引ける。

(手が空いた人が、できることをやったほうがいいよね)

 サーラも少しずつ仕事を覚えてきたが、まだまだ他の人の手を借りずにできることは多くない。水をいっぱいに入れた桶はかなり重いが、厨房まではそれほど遠い距離ではなかった。

 だから、頑張れば何とかなるかもしれないと思っていた。

 でも水桶はサーラが想像していたよりもずっと重かった。

 何とか必死に運んでいたが、厨房に入ったところで、とうとうその重さに耐えきれずに水桶を落としてしまう。

「あっ……」

 鈍い音が響き渡った。

 水桶は勢いよく転がり、厨房が水浸しになっていく。

「ああ、どうしよう……」

 サーラは慌てて水桶を拾い、おろおろと周囲を見渡した。

 以前よりはできることが増えてきたと、少し慢心していたのかもしれない。

 はやく掃除なければならないと慌てていたところに、たまたまルースが荷物を厨房に運び込んできた。

 惨状を見て、一瞬で理由を悟ったのだろう。彼は呆れたような顔をしながらも、掃除を手伝ってくれた。

「忙しいのに、ごめんなさい」

 かえって手間を増やしてしまった。

「無理はするな。水汲みは俺に任せておけ。怪我はないか?」

 呆れていたからてっきり叱られると思っていたのに、そんな優しい声を掛けられて、思わず彼を見つめる。

「どうした?」

「……いえ。怒られるかもしれないと思っていたから」

「故意ではないのに怒る方がおかしいだろう。とにかく無理はするな。この町は大丈夫だが、町によっては水がとても貴重な場所もある」

「はい」

 素直に頷くと、ルースはとても優しい顔をして頷き、孤児院の子どもにするように、サーラの頭を撫でた。

「……っ」

 こんなふうに触れられるなんて思わなかった。

 思わず頬を染めて彼を見上げると、ルースははっとしたようにサーラから離れた。

「すまない。つい、妹のことを思い出していた」

 彼には妹がいるらしい。

 きっと、サーラと同じような年頃なのだろう。いつもこうして、優しく頭を撫でていたのかもしれない。

「妹さんがいらしたのですね」

 何だか微笑ましくなってそう言うと、彼は静かに目を伏せる。

「ああ。だが今はもういない。死んでしまったからな」

「え……」

 思いがけない言葉だった。

 そう言った彼の瞳があまりにも悲しそうで、サーラはもう何も言えずに口を閉ざした。

 もう戻らない昔を懐かしんでいるような、悲しい目だ。そんな顔をしているルースに、どう声を掛けたらいいのかわからなかった。

「すまない。忘れてくれ」

 サーラの視線に気が付いた彼はそう言うと、すぐさま厨房を出て行った。

 その後ろ姿を見送ったあと、サーラはすぐに動くことができずに、その場に立ち尽くす。

(……っ)

 どうしてこんなに、胸が痛いのだろう。

 妹を亡くしたのはルースであって、サーラではない。

 それなのに、自分のことのように胸が痛む。

 サーラは自分の胸に手を当てたまま、しばらく厨房に佇んでいた。

 この痛みは、容易に消えそうになかった。


 そんなことがあっても、何事もなかったように日々が過ぎていく。

 変わったのは、たまにルースの姿を見かけると、少し胸が痛むことだ。

 どうしてこんな気持ちになるのか、自分でもわからない。ただ、少しでも彼の悲しみが薄れるように祈るだけだ。

 そのうち孤児院での生活にも少しずつ慣れてきて、あまり大きな失敗をすることもなくなっていた。

 パンも上手に焼けるようになった。

 子どもたちに読み書きを教えるのも楽しい。

 カーティスのこともエリーのことも忘れて、充実した日々を過ごしていた。

 キリネは教えるのが上手で、できないことがあっても丁寧に説明してくれる。だから彼女に色々なことを教わるのが、本当に楽しかった。

 ずっとこんな日が続けばいいと、願っていた。

 だが、ある日のこと。

 厨房で後片付けをしていたサーラは、孤児院の院長に呼び出された。

(何かあったのかしら?)

 サーラは急いで院長室に向かいながら、呼び出された理由を考える。

 院長とは毎朝、顔を合わせている。もちろん今朝もそうだった。夕食のあとにまた呼び出すなんて、明日の朝まで待てないような緊急事態だとしか思えない。

「サーラです」

 院長室の扉を叩いてそう名乗ると、奥から優しい声がして、入室を促す。言われた通りに部屋の中に入ると、院長が椅子に座ったまま、優しく微笑んでいた。

「急に呼び出してしまって、ごめんなさいね。緊急だからと、これが届けられたものだから」

 そう言って彼女が指した先には、一通の手紙が置かれていた。

「手紙、ですか?」

 それを見て、思わず首を傾げる。

 サーラには、手紙のやりとりをするほど親しい者は誰もいない。友人はそれなりにいたが、家を出されたときに、その繋がりはすべて切れてしまった。彼女たちは貴族で、自分は身分のない修道女。それも当然のことだと受け止めている。

「ええ。それと、修道院に一度戻ってほしいと言っていたわ」

 終わりは、あまりにも突然のことだった。

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