階段

 男が起床した時、身体を絶望が貫いた。

 あ、やべぇ。これ、完全に筋肉痛だ。それも、かなりひどいタイプの……。


 上体を起こそうとする、その気持ちだけで嫌がる細胞……まるで横倒しになったジェンガだ。

 慎重に組み立てて羽毛布団をはがし、立膝をつく。

 今日ばかりは無様な格好で壁に寄りかかりながら、ずるずると上昇。普段ならものの一分もかからぬ日常の動作だが、こんなことをしているため、五分はどぶにすてている。

 時間を無駄に使って、生身のジェンガは立ち上がることに成功した。立っているだけで痛みの液体が循環して、血管とともに揺れ動くのが分かる。

 じんじんと、波打つ拍動に意識を向ける日が来ようとは……男は鋭くとがる疲労の身体を揺らして整頓された自室を歩く。


 ゆっくりとした足取りで、カーテンよりも早くドアを開けた。

 そこには一階に降りる半螺旋の階段がどっかりと鎮座していた。


 こんな身体でも、ここを降りなければ何もできない。

 卒論の締め切りが近いというのに、この体たらく……。

 夜更かしばかりの生活プラス、寝酒が悪化して気づいたときにはもう朝だ。みごとな昼夜逆転だった。

 

 そんな自堕落な生活に区切りをつけるべく、ほんの二日ばかり前に模様替えを行ったばかりなのだ。二階だと何もできないようにしなければ、留年の文字が浮き彫りになっていく。

 それだけは回避したかった――というわけで、一階を活動スペースに、自室のある二階を休止スペースにした。

 テレビ台やPC台、タンスに机、スタック、キャビネット……重たい荷物を下に降ろしたばかりなのだ。この階段を何度も往復して。

 中腹で引き返すようになっている半螺旋の階段。十段以上はあろうか。一人でよくできたな俺。


 まあ、それをひとりですべて終わらせたせいで、二日遅れのひどい筋肉痛になってしまったのだが。

 いつまでも若い年でいると思っていた代償だろう。ある意味自明だった。

 無論玄関も、台所も全部下にある。ルーティン通りに進めば次は浴室だ。それも下にある。

 しかし、と男は悔やんだ。まさか留年以上に嫌なことが相まみえることになるなんて。やられた……こんな身体で階段を使えだって?


 男は露骨に頭を抱え、壁に背をあずける。ちょっと触れただけで左肩は痛みにあえいだ。

 動くことのない下り階段をみて、まるで大蛇と対峙している風な気がしてきた。地中から頭部を這い出して、左にとぐろを巻くオロチ。ちろりと長い舌を伸ばして威嚇する……。

 自身は勇者か何かだろうか。剣も持たず、「対話しよう!」とでも言って時間を稼ぐ主人公――くだらない妄想だな。頭は痛みから逃避したいらしい。


 ……いつまでもここにいるべきではない。あれよあれよという間に三月末。一刻を争う時期だ。コロナはいつまでも待っていてくれるのに、卒論は待ってくれない。ひどい世界だ。

 

 疼痛とうつうに抗い、一歩降りる。

 足先にいた蛇の牙が、右のふくらはぎを噛みにきた。

 朝からバッドエンドの死臭が身体から噴き出してくるように、男の声は絶望をにじませて叫び散らかした。


 十回はくだらない。

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