エピローグ

 キーンコーンカーンコーン


 掃除の時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。ぞろぞろと昇降口に向かう生徒たちの流れに一人逆らって、俺は教室へと歩いていた。


 ――あの長い夜が明けてから、早二週間が経った。


 一週間前に懐かしの一ノ瀬家に帰ると、案の定家は大騒ぎだった。すぐに警察に連れていかれて、何があったのかをしつこく聞かれた。もちろん俺は「覚えていない」の一点張りだ。まあいろいろあったけど、何とか無事に解放されて高校生活に戻ることが出来た。


 九月の終わりに飛び出した人間界には、いつの間にか冬が近づいていて、シャツ一枚じゃ寒くなっていた。警察署からの帰り道に震えてくしゃみをしながら、そんなに長い間向こうの世界にいたのか、としみじみしたのを覚えている。


「あ、一ノ瀬先輩!」


 階段を上っていると、聞き覚えのある声が上から降ってきた。顔を上げるとタクと鹿野さんがちょうど階段を下りてきているところだった。鹿野さんは俺を見て満足そうに頷く。


「よかった、元気そうですね! 今度先輩の復活祝いとして、三人で駅前のドーナツ屋に行きませんか?」

「お、いいなそれ。もちろんハルの奢りな」

「俺の復活祝いなのに? それにお前にはこの前ラーメン……わかったよ、奢るよ」

「私もいいんですか!? やったー!」


 ニコニコしながら、鹿野さんとタクは仲良く階段を下りていく。まあ、二人にはかなりお世話になったみたいだし、ドーナツくらい安いものだ。……いや、経済的にはかなり厳しいけど。俺はため息を吐きながら階段を上る。


 階段を上り終えると、廊下を進み、教室の戸を開けた。もう教室には誰もいない。窓辺に歩み寄って、真ん中の窓を開けた。誰にも見られていないことを確認してから、サッシに両足を乗せる。


 人間界に帰ってきてからいろいろ調べていたところ、ちょうど俺の教室のこの窓から飛び降りたところに、あっちの世界に通じる歪みがあることがわかった。俺のせいで屋上は完全に閉鎖されてしまったし、ありがたい偶然だ。


 俺は一つ息を吐きだすと、窓の外へ飛び降りた。



 

「こんにちはー」


 そう言ってドアを開けると、「いらっしゃい」というおばあちゃんの声と一緒に、甘い匂いが俺を出迎えた。俺は中に入って、居間に通じるドアを開ける。すると、


「陽翔。運がいいわね。今ちょうどクッキーが焼けたのよ」

「おばあちゃんに教えてもらって作ったの!」


 エプロンを身に着けたメアとエミリが、キッチンから笑顔をのぞかせた。なるほど、この良い匂いはクッキーか。確かにラッキーだ。


 ソファに座って本を読んでいたエレンが、俺を見て首を傾げる。


「陽翔、毎日ここに来てないか? 学校の方は大丈夫なの?」

「だーいじょうぶ大丈夫。もうすぐ受けられなかったテストの追試で来られなくなるから、今のうちに来てるだけだよ。俺部活辞めたし、放課後は暇なんだよね」


 俺はエレンの隣にどかっと腰を下ろす。エレンは「それならいいけど」と本を閉じた。


「んー、おいしいっ。すっごくおいしいです。流石おばあちゃん」

「あ、なに先につまみ食いしてるのよ。アタシ我慢してたのに!」


 メアの声で二人の方を見ると、ちょうどエミリが幸せそうにクッキーを食べているところだった。メアの抗議を受けたエミリは、「そうだったの?」と目を丸くする。それからもう一つクッキーを指で摘まんだ。


「じゃあ、ほら。メアちゃんも口開けて」

「もう、しょうがないわね……」


 何だかんだ言いつつ、メアは口を開ける。エミリがニコニコしながらその口にクッキーを放り込むと、メアがぱっと目を輝かせた。


「おいしい!」

「ふふっ、でしょ? 成功して良かったね」


 エミリは最近、ロジクルさんの家で寝泊まりをしている。いつの間にかメアとも仲良くなっていて、見ていると仲のいい姉妹みたいだ。なごむ。


 二人のやり取りを眺めていると、ふいにメアがこっちを振り返った。「何ボーっとしてるのよ」と腰に手を当てる。


「そんなのんびりしてたら、アタシとエミリで全部食べちゃうわよ」

「待って待って、俺も食べる」

「僕もお腹空いたなあ」

「たくさん焼いたから、みんなお腹いっぱい食べなさいね」


 おばあちゃんが窓辺の椅子に腰かけてお茶を飲みながら、ニコニコと俺たちの様子を眺めている。

 俺は早速星形のクッキーをかじった。ほんのり甘くてどこか懐かしい味がする。期待するように目を輝かせたエミリが俺とエレンを見て首を傾げた。


「おいしい?」

「ん、おいしい。また作ってよ。次はココア味も作ってくれると嬉しい」

「そんな要求するくらいなら自分で作りなさいよ。あ、次はお兄と陽翔に作ってもらうのはどう?」

「うげー、ぜってー無理」


 そんな他愛のない会話をしながら、俺たちはのんびりクッキーを食べる。メアにもエレンにもおばあちゃんにも、もう魔素による痣はない。その姿にまだ違和感を覚えることはあるけど、きっとすぐに慣れるだろう。


 思い出したように、エレンが「そうだ」と顔を上げた。クッキーをくわえたまま棚の方へ歩いていき、一通の手紙を俺に渡してくる。


「これゴンゴさんから」

「マジか!」


 久しぶりに聞くその名前に、俺はすぐに封筒を開けた。同封されていた写真では、ゴンゴさんと女の人、そしてまだ小さい男の子がニコニコ笑っていた。「また家族と一緒に暮らせることになりました」という文も添えられている。


「ゴンゴさん、これからは家族と一緒に暮らせるんだな。奥さんめっちゃ美人だし、あの人意外と抜け目ないって言うか……」

「元々優秀な人だしね。体調も問題なさそうで良かった」


 そう言ったエレンは、眼鏡の奥の目を細めてにやりと笑う。


「陽翔とエミリさんのおかげだね。さすが世界を救った英雄だ」

「だから、そんな大層な存在じゃないって……」


 あれから何度もかけられてきたその言葉に、俺は顔をしかめる。英雄。普通の高校生が背負うには恥ずかしい称号だ。勘弁してほしい。


 エレンはまだおかしそうに笑っているから、容赦なく肘鉄砲を食らわせてやった。





 日も暮れかかってきて、帰る時間になった。メアたちと別れて、俺とエミリは森の中を歩く。目指すはロジクルさんの住んでいたあの小屋で、その近くから俺も人間界に帰ることが出来る。


「ロジクルさん、まだ城下町にいるの?」


 足元に気をつけて歩きながらそう尋ねると、エミリは頷いた。


「うん。まだいろいろやらないといけないことがあるんだって。女王様がまだ全然動けないから、新しい王様とも話し合ってるみたい」


 あの騒動の後、ロジクルさんは城の人と交渉を始めた。今この国の代表として立っているのは、女王の一人息子だ。母親の様子がおかしいことを察知して、療養するとか何とか言って遠くに逃げていたらしい。騒動が終わった後はすぐに戻ってきて、今はロジクルさんたちと一緒にこれからどうしていくかを話し合っている。


 ロジクルさんは巧みな話術で俺たちがやらかしたいろいろ(手紙を盗んだとか城に侵入したとか)を揉み消し、さらには俺が人間界とこっちの世界を自由に行き来する許可まで取ってくれた。本当にありがたい。


「面倒なこと丸投げしちゃって申し訳ないし、今度ロジクルさんに会ったらお礼言わないとなあ。他にも言いたい事とかいろいろあるし」

「他にも?」

「うん。俺たちだけが予言されていた救世主だー、みたいな言い方したけど、ロジクルさんと千代子さんも絶対関係あるだろ、ってこと。俺たちだけ『愛が世界を救ったんですね』とか冷やかされて恥ずかしい思いをするなんて、ちょっと不公平じゃん」


 確かに俺の魔素を吸収する力はエミリと会ったからだろうけど、エミリは俺と出会う前から特殊な力を持っていたわけで。多分その力にはロジクルさんと千代子さんの存在が関係しているだろう。これは絶対に伝えておきたい。


「確かに……」


 エミリは納得したように何度か頷いていたけど、ふと思い出したように「早く人間界に行きたいなぁ」と呟いた。何の脈絡もない呟きに俺は笑う。


「そればっかりだな。そんなに人間界が気に入った?」

「もちろん。許可もらえたらすぐに行く。クラスのみんなにも会いたいし、肉まんも食べたいし」


 そう話すエミリの横顔は楽しそうだ。


 俺には二つの世界を行き来する許可が下りたけど、エミリには下りなかった。まあ、エミリの生まれ故郷はここなんだから当然と言えば当然かもしれない。そのこともあって俺たちはこっちの世界で会うことになったんだけど、エミリは人間界をやたらと気に掛けている。

 ちなみに、俺が人間界に持ち帰った魔道具のおかげでみんなのエミリの認識は書き換わり、「家族の転勤で転校した」ということになっている。つまり許可が下りれば学校にも顔が出せる状況が用意してあるってわけだ。


「肉まんいいな。確かにもうそろそろ良い時期かも」

「陽翔が教えてくれたんだよ。夏はアイス、冬は肉まんだって」

「そうだっけ? よく覚えてるな」

「覚えてるよ。陽翔が言ったことは忘れないから」

「重っ」


 そう笑ったところで、エミリが足を止めた。気が付けば、もう小屋のすぐ近くまで来ていた。エミリは俺を見上げて微笑む。


「改めてありがとう、陽翔。こんなところまで私を助けにきてくれて」


 ふいに森の中を吹き抜けた風が、エミリの髪をなびかせた。エミリはくすぐったそうに目を細める。


「こうしてまた陽翔とおしゃべり出来るなんて思ってなかった。……人間界に行きたいって思う気持ちもあるんだけど、本当は、陽翔の隣にいられるだけでも十分に幸せなの。こんなに幸せでいいのかなって、思っちゃうくらい」


 切なげに笑うエミリは、今にも消えてしまいそうな気がした。気が付くと俺は彼女へ手を伸ばしていた。


「いいに決まってるだろ」


 エミリの手を掴んだ。そのまま引き寄せて抱きしめる。


「これからいろんなところへ行こう。人間界もそうだけど、まだこっちの世界も全然探検してないんだからさ。いろんなところへ行って、たくさん思い出作ろう。俺が……俺が、もっとエミリのこと幸せにするから」


 緊張しながらそんなセリフを口にすると、無慈悲にも吹き出す声が聞こえてきた。「笑うなよ」と言うと、「だって」と笑いを堪える声が返ってくる。


「最後のところで照れたの丸わかりなんだもん。俺がって二回言った」

「あーあ! 気づくなよそんなとこー……」


 すげぇ恥ずかしい。顔を覆う俺を見て、エミリがまた笑う。指の隙間から見えるエミリは、悔しいことに楽しそうだ。愛おしさを噛みしめながら考える。


 これから先、大変なことなんていくらでも待ち受けているだろう。でも俺たちなら絶対に乗り越えられる。もう離れ離れになったりしない。


 いつの間にか日は暮れて、俺たちの頭上には星空が広がっていた。息を呑むほど美しい星空の下で、エミリはまるで子供みたいに笑っている。


 この幸せを二度と手放さないように、俺はエミリをもう一度強く抱きしめた。

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幼馴染を追いかけて、俺は異世界に飛び降りる @amaneiro

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