——長い影のような男


 わたしがまだ小学生にもならない、小さな幼女であった頃のこと。

 ある日曜の朝である。

 両親はまだ眠っていた。


 わたしはカーテンの隙間からさす朝日に目が覚めてしまっていて、暇を持て余していた。母親を揺すっても眠ったまま嫌がって手をはねのけられる。それでわたしは、一人で寝室を出て廊下を歩いた。


 秋も終わりかけで冷たい指先がひたひたと床を鳴らし、これまた冷えたドアノブを掴むと体重をかけてドアを開けた。


 リビングに入った時、少し暗いなと思った。明かりは窓からたっぷり入っているけれど、気配として何かどんよりと曇ったような雰囲気。わたしは、脳裏に泥棒を思った。気配だけである。いるのかもしれない。それとも何か、水でも漏れているのかもしれない。耳を澄ましたけれど、何の物音もしないので、違うとわかった。一通り見回しても、変わったことがなかった。


 けれど、すこし歩いて、わたしはびっくりした。

 テレビがついていたのだ。

 昨日父さんが消したはずなのに。


 当時はブラウン管である。わたしはソファの横、ちゃんとテレビの画面が見えるところまで来て、ソファを掴みながら画面を見た。



——雨が降っている街角である。電信柱と同じくらいの背の高さの、真っ黒な長い影みたいな男が、帽子をかむって、傘もささずに立っている。すこしうつむき加減で、肩も腰もないように細い。

 輪郭もぼんやりして、肩があるから、ようやく人とわかる。でも、それにしては、変に長い。

——雨のなか、佇んでいる。全く動かず、灰色の画面の中、ぼんやり黒い。

 ずっとそれだけの映像である。男の顔は見えない。



 わたしは怖くなって、すこしづつ離れた。男は徐々に顔を上げる。口のあたりが見えてくるのだが、そこはより一層黒く、何も見えなかった。


 見ちゃいけないと思って、手のひらで目を塞いだとき、今まで無音だったテレビはザサッと音を出して、何やらわからない加工した声みたいな音を流した。


 わたしは思わず泣き出した。その泣き声に母親は起きてきて、わたしをなだめた。


「どうしたの」

 わたしはテレビを指さした。

「何もないよ。誰かいるの?」

 わたしは首を振った。「誰もいない。誰もいない」

「いないね。はいはい」


 母はわたしを抱きしめて頭を撫でた。彼女の肩越しにそうっと目を上げてみると、テレビは当たり前のように消えていた。

 ゾッと凍った背筋は、それからずっと治らなかった。



 それから半年ほどの期間、月に二、三度そういうことがあった。


 一人でリビングにいるとき、テレビに長い影のような男が映るのだ。他の誰かがいるときは絶対に見えなかったし、それが映ってすぐに誰かを呼んでも、それは同じだった。

 わたしはいつも、声が聞こえる瞬間に、どうしても泣いてしまった。


 三ヶ月くらい経過してようやく泣かないようになり、それからはもう見ないようにだけ心掛けた。別の方を向いて、固く目を瞑るった。


 そしてそれは、いつの間にか見えなくなった。



——しかし今、ファミレスから見える窓の外に、その男が立っていて、わたしを見ている。

 雨の中、三メートル近い身長で、傘もささずに立っている。通り過ぎる誰一人、彼の存在に気づいていない。

 彼は一心にわたしを見ている。

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