多利思比孤


「妹子、皇子みこ様たちがいらっしゃったよ」

 宴も終わり、皆が各々の部屋へと帰った頃、薄暗い廊下の中央で河勝が妹子を呼び止めた。妹子は彼を見て眉をしかめたが、「どうも」と軽く礼を述べる。

「で、今どちらに?」

「奥の部屋。四人だけでいいんだよね?」

「貴方も来るんですか? まあいいですけど」


 そんな会話をしながら目的の部屋へ行くと、そこには二人の人物が座っていた。そのうち、すらっとした背丈の男が妹子たちを見上げ、「長旅ご苦労さまでした。久しぶりですね」と相好を崩す。

「お気遣い感謝致します。改めまして、大礼・小野妹子帰着致しました」

 妹子が恭しく礼をすると、長身の男は満足そうに頷く。彼こそが、今回の使節を派遣した厩戸皇子うまやとのみこである。後に聖徳太子と称えられる彼は、現在 大王おおきみを補佐する摂政という立場にいた。今は彼の叔母にあたる額田部皇女ぬかたべのひめみこ(推古天皇)が大王の位についているが、彼女の次はこの厩戸が即位するだろうと目されている。

 すると、今度はもう片方の男が眉を下げた。

「疲れただろう。少し座ってはどうだ?」

 そちらの男は年増のようだが、身体付きは小柄であった。彼は妹子たちに座るよう促すと、「河勝の言う通り大王以外には我々のことは伝えていないよ」と姿勢を整える。

 彼は現在の大臣おおおみである蘇我馬子そがのうまこだ。先程大和と会話をしていた蝦夷えみしの父にあたる。蘇我氏は馬子の前代である稲目いなめによって比較的最近に力を持った氏族であったが、今は国の宰相とも言えるような地位までのぼりつめていた。それも、皇族との結び付きの強さと、どこか人を惹きつけるような馬子のカリスマ性によるものだろう。蘇我と対になっていた物部氏が弱体化してからというもの、この馬子と厩戸が二つの柱となって大王のことを支えていた。


 馬子は妹子と河勝を座らせると、「何か話があると聞いたんだが」と落ち着いた声で問いかける。

「はい、皇子さまと大臣に相談したき議がございまして」

 厩戸と馬子は顔を見合せた。二人は誰にも悟られぬようひっそりとここまでやって来たのだ。そうしてまで相談したいことなど一体何なのだろう。そんな疑問が二人の顔から読み取れた。

 しかし妹子は二人のことなど全く興味がなさそうに袖を探ると、一つの書物を手にのせる。そして姿勢を低くしながら両手を掲げ、厩戸に差し出した。

「隋の皇帝陛下より賜った国書にございます。どうか一読いただき、内容を確認して欲しいのです」

 厩戸は伸ばした手を止めると不思議そうに妹子を見つめる。

「国書? それなら大王へ謁見する際に······」

「大王にはお渡し致しません」

「なんと?」

 厩戸が眉を寄せて妹子を見る。妹子はそっと顔を上げると、「お二人に目を通していただいた後、消しとうございます」とはっきりした声で答えた。

「消す、というのは?」

「無かったことにする、ということです。見ていただければ分かるかと思います」

 厩戸はそんな妹子の様子に驚いたようだった。それもそうである。彼が、このように物を言う妹子を見たのは初めてだった。

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