三、帰路

抜錨


 潮風。波の音。一年ぶりの海の気配だ。それを感じとって、大和は大きく息を吸った。

 ゆらゆらと揺れる船内から後ろを振り返れば広大な隋の大地が広がっている。活気のある港町には漁師や商人が行き交い、皆何事かとこちらを見ている。新羅や百済の使者とは違い、船を使う倭国の使節が物珍しいのだろう。

 そんな喧騒と名残惜しさを胸に、遣隋使船はいよいよ帰路についた。よく晴れた、穏やかな門出だった。


 これから船は半島伝いに海路を進む。こちらへ来た時と同じ航路だ。数度半島に停泊するため、福利ふくりを筆頭とする通訳たちは隋の言葉を頭に留めながらも新羅や百済の言葉も復習せねばならない。そんな彼らを横目に、大和は広い海を眺めていた。

「倭国は遠いですか?」

 ふと聞こえた隋の言葉に、大和はそっと顔を上げる。そこには潮風に長い黒髪をたなびかせる一人の男がいた。確か、裴世清はいせいせいと共に倭国へ遣わされたとかいう青年だ。名は楊汀州ようていしゅうと言ったか。大和は突然話しかけてきた彼に驚きながらも、「はい」と答えて前を向く。

「そうですか」

 彼は特に話を広げることもなく、一言だけそう呟いた。奇妙な青年に首を捻りつつ、大和は船内へと目を向ける。すると、ちょうどこちらへ歩いてきた妹子と目が合った。

「大和さん、少々お話したいことが······」

 妹子はそこまで言うと、隣にいた楊汀州に気づいて足を止める。そして人のいい笑みを浮かべると、「すみません、お話中でしたか?」と眉を下げた。

「いえいえ。たまたま居合わせただけですよ」

 楊汀州はそう言って礼をすると離れていく。その背中に胡散臭そうな目を向けると、妹子は表情をなくして大和に問いかけた。

「で、ちょっと相談なんですけど、荷物が多いので船が倭国まで持つか分からないそうです。途中、人員だけ陸路に切り替えても?」

 船が持つか分からない? それはまた大変な事が起きたものだ。確かに隋で得た貢物や土産品は多い。しかし造船に携わった者達は、それを見越した上で今回の航海なら持つだろうと言っていた。その読みが甘かったというのか。

「まぁ俺は別にええけど······」

「そうですか。数日中に新羅の港に着くそうですから、とりあえずそこに停泊します。そして船には積めるだけの荷物と水夫かこだけを残して、我々は陸路で百済へ渡ることになるかと」

 曖昧な大和の返事に目を細めると、妹子はそうとだけ言い残して去っていった。まさか半島の端まで歩いて行くつもりだろうか。正直そこまで自分の体力に自信がなかった。馬くらいは貸してもらえるかなぁなどと呑気なことを考え、大和も船の中央へと踵を返した。






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