「日のいずる國より」

一、海上

海原


 

 西暦六〇七年。

 浜辺とは違う波の音、どこまでも続く青い海。広大な大海原に一隻の帆船が浮かんでいた。その帆はふわりと潮の香をはらみ、追い風に乗って船は進む。腕を奮っていた水夫かこ達も今は口に花を咲かせていた。

 穏やかな船の上では二人の人影が海を見つめている。片方は若い青年、もう片方はまだあどけない少年である。年端もいかない少年の姿は、屈強な水夫が目立つ船の上では異彩を放っていた。

 何故小さな幼子が船に乗っているのか。それは、彼がただの人間ではないからである。

 彼は名を大和やまとと言った。いや、漢字はまだ断定できない。人は皆、彼をヤマトと呼ぶが、それが「大和」なのか「倭」なのか、本人にも分からなかった。

 今の彼らにとって、字というものはさほど重要ではないのだ。「ヤマト」と呼んだ時に、彼が反応すればそれでいい。彼の名に はっきりと「大和」という字が当てられるのは、当時から数十年後の話である。


 彼は「クニ」と呼ばれる立ち位置にいた。この時の日本はまだ倭国わこくと呼ばれており、都がある飛鳥の一帯がヤマトと称されていた。それこそが彼の母体であり、彼の正体である。

 土地の化身なるものは一体何なのか。周りはおろか、当人である大和にも分かっていない。ただ人と同じなりをして人のように生きている。それだけが事実であった。

 そのため皆が大和の扱いに困っていた。彼は人間のようで人間ではない。そのさがをどう理解すればいいのか分からなかったのだ。それを確かめる意味も込めて、大和はこの船に乗せられた。

 

 彼らが倭国の難波江なにわえ(現・大阪湾)を旅立ったのは遥か数週間ほど前のこと。何度か陸に停泊するとはいえ、もうかれこれ一ヶ月近くは船に揺られていた。

「なぁ、大陸まだなん?」

対馬つしまを出てしまえば直ぐだと言われてますから。もう少しの辛抱でしょう」

 大和に言葉を返したのは、横で広い海を眺めていた小野妹子おののいもこという男である。長い睫毛に隠れた切れ長の瞳はひたすらに海の向こうを見つめていた。そこに映る青を見て、大和はため息と共に不満をのみこむ。内陸国である彼は船に乗り込む際、憧れていた海を目にしてそれはもう喜んでいた。しかし、今となっては見飽きたという言葉さえも出てこない。覗けば覗くほど濃くなってゆく青に、また肩を落としそうになった。

 しかし、自分だけが愚痴をこぼしていても仕方がない。陸へ上がれないのは船にいる皆が同じことなのだ。文句一つ漏らさないが、妹子とて退屈なのだろう。大和は頭上に広がる淡い青に目を移すと、こんな船旅に出ることとなった日のことを思い起こした。

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