第9話 芳香

 ヘキサの手を離れたナイフは、舞った先で溶けるように消えていく。

 残されたのは、青ざめた顔ときょとんとした顔。

「何をしようと――」

「いえ、血を出せば早いかと思いまして」

「思い切りが良すぎます! もっとご自分を大切に!」

「これくらいでしたら授業でも行っていたことですから」

「そういう問題ではありませんっ」

 何をそこまで憤るのか。

 ヘキサが琥珀の四白眼をぱちくり、男をじっと見つめれば、深い、深ぁーいため息をつかれた。

「……分かりました。お嬢さんが星詠みの血筋かどうか、はっきりさせますので、ご自分を傷つけるような真似はしないでください」

「はあ、分かりました」

(血を使う術など、珍しいものでもないと思うのですが)

 男の懇願を怪訝に思いつつも頷くヘキサ。

 もう一度だけ小さくため息をついた男は、咳払いをすると言いにくそうに言った。

「私も一応、考えてはいたのですよ。お嬢さんがルミルの血筋なのではないか、と。けれどその……先ほども言った通り、それはでき過ぎではないかという疑いと……確認するための方法を口に出す勇気がなかったもので」

「勇気? 血では駄目なんですか?」

「ですから! 何故、恩人である貴方を傷つけなければならないんですか!」

(ああ、それで)

 ヘキサはここでようやく、男が怒った理由を呑み込めた。

「ただでさえ貴方は、私の正体を知った上で協力を申し出てくださった方です。そのような方に、これ以上負担をかけたくありません。――たとえ貴方自身が構わないとしても、です」

「はあ……」

 言おうとした言葉を先んじて封じられては、ヘキサも受け入れるしかない。

 とはいえ、それで終わる話でもない。

 眉を寄せたヘキサは男へ問うた。

「ですが、血がダメでしたら、他にどんな判別方法があるんですか?」

「それは……」

 黄緑の瞳がぐるりと一回りする。

 先ほど言いかけた「勇気」とやらが関係してくるとは思うものの、匂いでモノを探したことのないヘキサに、血以外の選択肢は浮かばなかった。

 伝説の元・邪竜。そんな彼をして勇気を必要とする方法とは?

 そのままじーっと見つめていれば、痺れを切らしたように男が答えた。

「……髪…………」

「カミ?」

「髪の匂いを、嗅がせて頂ければ」

「ああ、髪ですか」

 古来より、髪にはその者の情報が染みついているという。特に長い髪は、その長さの分だけ持ち主の傍にあり、情報の密度も増すらしい。

 確かに、わざわざ血を出すより簡単だ。

 なるほどと頷いたヘキサは、首の後ろで纏めた髪を手に取った。

「どうぞ」

 ずいっと男へ差し出すと、何故か気まずそうな顔をされた。

 心なしか、高い位置にある肩が更に遠退いた気もする。

「……では、失礼、します」

 けれど諦めたようにため息をついた男は、ヘキサの手から一房、髪の毛を受け取ると自らの鼻に近づけた。

 まるで、手の甲へ口づけるようなその仕草。

(……なるほど。確かにコレは…………恥ずかしい。勇気が要りますね)

 計れば短い、一瞬の出来事。

 しかしながら、とても居心地の悪い状況に、ヘキサは男が言った「勇気」の意味を思い知った。そして、コレを初っ端に提案しなかった男の優しさに、心の中だけで感謝を述べる。

「……ど、どうでしたか?」

 解放された髪がサラサラ落ちる感触に狼狽えつつ男を伺う。

「そう、ですね…………」

 鼻腔に残る匂いを吟味しているのか、男は髪を落とした手で顔の下半分を覆い、目を閉じている。こちらの様子に気づかないのはありがたいが、直前までとは打って変わった落ち着きようは、少なからず恨めしい。

「ふむ」

 一呼吸置き、目を開けた男はゆっくり首を振った。

「残念ですが、たぶん、違います」

「そう――たぶん?」

 頷きかけたヘキサは、引っかかる物言いに男を見上げる。

 対する男も似たような表情で言った。

「それが……どうもお嬢さんの中には、私が知るモノの匂いが含まれているようで。ですが、いくら記憶を漁ってみても、どうにもこれという確信もなく」

「星詠みの血筋ではない匂い、ですか?」

「ええ……たぶん。すみません、こんなことは初めてで」

「…………」

 言いながらも必死に思い出そうとしている男に、ヘキサはそれ以上尋ねられなかった。男の表情が苦しそう、というのも理由の一つだが、何より、彼女自身が少なからずショックを受けていたせいだ。

 自分が考えていたよりも、ルミルの血筋である可能性に期待していたらしい。

 それがまた衝撃的で、しばし言葉を失ったヘキサは、視界の端を横切る鳥の影で我を取り戻した。

 公園の外を飛ぶ影を見送った後で、思考を切り替えるべく頭を振る。

(私は血筋ではない、それで良いんです。それが分かっただけで、次に進めます。今の私の目的は、この人の探しモノを見つけること。いるという情報だけあっても、この人が庇護下において初めて、彼と星詠みの契約は成立するのですから)

 小さい声で「よし」と自分を鼓舞し、ヘキサは悩み続ける男へ声をかけた。

「とにかく、私が星詠みの血筋である可能性は低い、というのは分かりましたから、話を次に進めましょう」

「は……? 次、とは?」

 ヘキサの声に男は惚けた顔で返事をし、訳が分からないと目を瞬かせた。

 相も変わらず伝説の邪竜とは程遠い様子に、ヘキサの唇が微かに笑む。

「先ほど言った制約の話です。私の恩恵にある、二つの制約。その一つが、探しモノが私にまつわるモノだった場合。ですが、ソレは違いました。となれば、残されたのはもう一つの制約」

「ああ……そう言えばそうでしたね」

 男が他人事のように言う。

 あれだけ悲壮感を漂わせていたくせに、いると分かった途端、余裕が生まれたのか。それとも、ヘキサが血筋ではないことを、男もそれなりに気にしてくれているのか。

(さすがにそれはあり得ません)

 浮かんだ都合の良い話を振りきり、ヘキサは話を続けた。

「お探しの血筋の恩恵が隠れること、あるいは恩恵で得た力か、それに近い力で身を隠している――とにかく、それらでもって探知できない状態となっている場合、私の恩恵は上手く働かなくなります」

「…………ん? ちょ、ちょっと待ってください、お嬢さん。それはつまり、お嬢さんの恩恵では、もう探しようがないという話になるのでは?」

 途中まで頷きながら聞いていた男の指摘に、ヘキサはふっと短く笑った。

 あるいはそれは、武者震いに近いモノだったかもしれない。

 何せ、これからヘキサが言わんとしているのは、結界を張って貰ってまで隠したい、ヘキサの恩恵の、本当の効果についてなのだから。

 特に、院には絶対勘づかれてはならないと言われてきた――。

 未だ平穏な公園を確認してから、ヘキサは言った。

 目の前の邪竜が、「院」と関係のない存在と信じて。

「いいえ。最初に言った通りですよ。私の恩恵は、現存するモノであれば何でも探せるんです。たとえそれが、目的に至るまでの手段、なんてあやふやなものであったとしても」

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