3-8 買われた湖水
直戸は雁屋と会うために河川敷グラウンドに向かった。孫のサッカーを見学したいというので、それに付き合う形でその場に赴いた。雁屋はベンチに腰掛け、刑事に似合わぬほころんだ顔で孫の様子を眺めていた。直戸も合わせるように若干の笑顔を作りながらその横に座った。
「悪い悪い、結構待たせたな」
「いやいや、孫ぉ見てたらいくら時間経っても飽きゃあせんで……それより佐伯智成だけぇが、調べてみたらビンゴ、おんしの勘が当たっただに」
「つまり、浜名湖の水死体は佐伯智成だったということか」
「ああ、これ見てくりょ」
雁屋はタブレット端末を出して見せた。あまり慣れていない手つきで画像アプリを起動させると、佐伯智成の免許証写真と浜名湖の水死体の写真が並べて表示された。
「これはどう見ても同一人物だな」
「ほうだら? 佐伯と村下はコンビを組んでいた。ほんで、犯人にとって都合の悪い存在となった。そいが理由で溺死に見せかけて殺されただら」
「それに関して興味深い事実を掴んだ。村下を手引きしたと思われる〝パイン〟がある人物から湖の水をわざわざ購入していたようなんだ、それも結構な価格で。その取引の様子を盗聴していた奴がいた。胡散臭い男だったが、その点に関しては信用して良さそうだ」
「湖水を買う……たしかに妙だに。湖で水を汲めば済む話だら。どっちみち〝パイン〟が事件と関わっとる可能性が強いだに。ところで〝パイン〟と取引していた人物んことは何かわかっとるんけ?」
「盗聴マニアの話では〝メイソン〟とかいう三十前後の男だということだ。もっとも声だけでそう判断しているようだから当てにならんがな」
そうこうしている内に、サッカーの練習が終わり、相原遼が祖父である雁屋のところにやって来た。
「じいじー!」
「遼、またうまくなっただに!」
雁屋は孫の頭を撫でた。そこに石角がやって来て挨拶した。
「雁屋さん、来てたんですね。ずっと見てらしたんですか?」
「ええ、石角さんの指導はやっぱりいい。孫もびっくりするくらい上手くなったで」
「そう言っていただけると嬉しいです」
と、石角は直戸に視線を移して尋ねた。「ところでこちらの方は?」
「ああ。昔ん同僚だに、今も付き合いがあるだよ」
「綾小路です。最近来られたスーパーコーチとは、あなたのことでしたか。お噂はかねがね耳にしております」
「いえ、お恥ずかしい限りです」
石角が差し出した握手に応じた時、直戸はふと目の前の男に見覚えがあるような気がした。それで、つい相手の顔をジロジロと凝視してしまったが、
「……どうかしましたか?」
と石角に訊かれて足元に目を転じた。
「あ、いえ、別に」
直戸は僅かながら狼狽したが、石角はさして気にする様子もなくその場を立ち去った。
✙
歩夢は店番をしながら資料を片っ端から目を通した。図録はもとより、店主である直戸の過去の仕事もじっくりと参照した。その中には判定の難しい案件もあれば、明らかに偽物とわかるようなものまで様々であった。
中でも極めつけはアレッサンドロ・ガリアーノのラベルのついた楽器。本物であれば飛び上がるほど高価なものだが、写真に写っているのは数万円もしないような安物だった。それも多少ヴァイオリンを見比べたことのある者なら誰でもわかるようなシロモノである。
(誰が、どんな理由でこんな馬鹿げた鑑定を依頼したんだろう。直戸さんはお客さんに事前に断りを入れたのだろうか)
歩夢はこの家に来た時のことを思い出していた。あの時、チンピラ風の男が偽ストラディヴァリウスを持って来て鑑定しろとしつこく迫っていた。直戸はあの時、ハッキリと偽物であるからと断っていたのだ。しかし、この偽ガリアーノの場合は鑑定を引き受けている。しかもハッキリとガリアーノの楽器ではないことが明記され、その上で中国の呉提琴公司モルダウシリーズという鑑定結果を出している。推定価格は三万円。さらに歩夢が引っかかったのは、この鑑定書には丁寧に英訳がつけられていたことである。なぜ偽物だと証明するものにわざわざ英訳までつけるのだろう?
そんな疑問を抱いているところに直戸が帰って来た。そこでこのガリアーノの案件について尋ねてみた。
「ああ、その件か。たしかに一目で偽物とわかるシロモノだから事前にお客さんには言ったよ。ところが、それでいいから鑑定書作成してくれってしつこくせがまれてね。まあ、お客さんがそういうならと引き受けたんだが……」
直戸は当時に思いを馳せながら滔々と述べていたが、はたとあることに気がついて思わず目を見開いた。
「そうか、あの男だ……」
「え? どうしたんですか?」
「石角秀俊というサッカーコーチ……どこかで会った気がしたと思ったら、その偽ガリアーノの鑑定を依頼した客だったよ」
そう言われても歩夢はまだ何のことかわからずキョトンとしていた。
「でも、依頼者名は田中明宏となっていますよ」
「……田中なんてどこにでもある名前だ。おそらく咄嗟に思いついた偽名だろうな」
「偽名を使うなんて穏やかじゃないですね。一体どんな目的だったんでしょうか」
「わからん。しかしいくら気になるとは言え、今の我々には興味本位で調べている暇はないな」
「一応、雁屋さんには言っておいた方がいいんじゃないですか?」
「そうだな」
直戸は早速雁屋に電話し、石角がかつて田中明宏という偽名で偽ガリアーノの鑑定を依頼していたことを告げた。
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