3-7 クリニック
それから直戸は歩夢を連れて、警官時代に懇意にしてきた精神科医を訪ねた。その道すがら、直戸は歩夢に尋ねてみた。
「今朝、穂香の様子がおかしかったのだが、君、心当たりないかね」
「そう言えば穂香さん、時々赤い顔をしていましたから風邪引いたかもしれませんよ」
「そうか。帰りに風邪薬でも買って行った方がいいかな」
「そうですね、それがいいと思います」
乙女心が分からない男同士でこんな会話をしている内に二人は精神科医のところに着いた。
受付を終えるとノルアドレナリン分泌制限薬を服用するよう指示され、しばらく待った後に呼び出され、診察室に入った。
「道下歩夢です。って、本当の名前ではありませんが……」
「精神科医の島田梨花です。記憶喪失のことは伺ってますけど、ある歌でフラッシュバックを起こしたとか……」
すると直戸が「これがその歌だ」と言ってメモを差し出した。そこにはあの歌の歌詞があった。
〽鷹さん呼ばわば、ほろし摘み
鳥さんむかさり、みのり摘み
観音さんのきざはしに
遂に宴の幕も閉づ
色の照る日も空にあり
「『ほろしつみ』と『みのりつみ』はヤマホロシの実を摘む行為で当時の婚姻の儀式と関連性があったそうだ。そして、観音寺の境内で婚姻の儀式が執り行われたが、終わってみると恋の熱も冷めた、そんな歌らしい」
直戸が大河内からの受け売りを話すと、島田は少し苦笑した。
「まあ、なんて寂しい歌なの……。道下君、この歌のことは少し覚えている?」
「何となく聞いたことがある気がするんですが……具体的なことは何も」
島田はしばらく考え込むように視線を天に向け、そして話した。
「そろそろノルアドレナリン分泌を制限する薬が効いてくるはずだわ。道下君、この歌詞をじっくり読んでみて、思い浮かぶものを紙に書いてみてくれるかしら。文章でも絵でもなんでもいいわ」
「わかりました、やってみます」
そして歩夢は「ほろしつみ」の歌詞をじっくり眺めた。そしてしばらくすると二枚の紙に鉛筆で絵を描き始めた。
一枚目はネクタイを締め、ワイシャツ姿の中年男性の絵。頭髪は薄くなっており、眼鏡をかけている。両腕は軽くハの字に開かれており、手の平が卓上にべったりと置かれている。おそらくは立ち姿勢だ。
二枚目は林の間を通り抜ける山道のようだったが、道の上には板が敷かれており、それが先の方までずっと続いていた。
「できました」
「ありがとう。まあ、絵が上手なのね」
「それに描写が細かいな。これを使って捜査をすれば場面の特定も可能なレベルだ」
直戸が感心していると、島田は少し考え込んで歩夢にまたひとつの課題を出した。
「道下君、このクリニックに入って来た時のこと、覚えているかな? クリニックの玄関の様子を絵に描いてみて」
すると歩夢はしばらく黙想した後、紙に鉛筆で建物の正面玄関の絵を描いた。
「よく描けているわ……綾小路さん、こちらがクリニック正面の写真ですが、比べてみて下さい」
直戸は島田が提示した写真と道下の描いた絵を見比べ、驚いて言った。
「これは……まるで現物を見て描いたように正確だ!」
「ええ、違うのは玄関脇に植えられている樹木だけど、それは写真の撮影時より成長しているからですね」
直戸は空恐ろしくなり、背筋がゾクッとした。
「道下君は一度見た光景を細かく描き出すことが出来るのだと思います。カメラアイと呼ばれる特殊能力です。サヴァン症候群の方が一度読んだ本を暗記出来たり、航空写真を一度見ただけで再現出来たりすることがありますが、彼の場合も似たケースかもしれません」
「待ちたまえ、サヴァン症候群は精神障害や知的障害を持つ人に見られる特殊能力だ。道下君のケースに当てはめるのは、いささか早まってはいないかね?」
「ええ、今の段階での属性付与は勇足だと私も思います。ただ彼の場合、突出した記憶力が強いトラウマを生み、記憶喪失を引き起こしていると考えられます」
直戸は難しい顔つきになって思いを巡らせた。
「……ところで絵の方なんだが、この中年男性は講壇に立って話をしているように見える。道下君の年の頃からすると、高校の教師が授業をしているところか」
「そうですね。営業社員がプレゼンしているようには見えませんね、ふふ。道下君、授業中にこの先生から『ほろしつみ』のお話を聞いたのかしら?」
「わかりません……よく覚えていないんです」
直戸はもう一枚の絵を見た。
「この道の上に敷いてある板は何だね?」
「わかりません。ちなみにこれは木の板ではなくて、鉄板みたいです。舗装するかわりに鉄板を敷き詰めたような感じです」
「道下君、この光景に心当たりはあるかしら?」
「いいえ、全く覚えていないです」
その後は他愛のない話で終わり、直戸は歩夢を連れて帰宅した。
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