2-3 彼女の夫

 花菜は通常、祐也のサッカーの日は送り迎えだけして練習時間中は買い物に出かける。しかしこの日は石角という新コーチへの興味、また彼自身から誘われたこともあって練習を最初から最後まで見学することにした。

 子供たち全員が集まり準備運動を軽く済ませた後、石角が練習内容を告げた。

「今日はちょっと変わった練習をします。これからみんなで……鬼ごっこをします!」

 それをきいた花菜は目が点になった。子供たちも「何それー」「マジー?」など奇声を上げる。

「普通の鬼ごっこではありません。この中で二人鬼を決め、鬼になった人はボールをドリブルしながらみんなを追いかけます。そして誰かにボールをキックし、当てられた人は鬼になる、そういうルールです。わかったかな?」

 子供たちはわかったようなわからないような表情を浮かべていた。それでも石角はともかく始めてみることにした。始め子供たちの動きはぎこちなかったが、時間と共に彼らは石角式鬼ごっこを楽しむようになっていた。祐也も嬉々として鬼ごっこを興じている。そうして身体が温まったところで基礎練習を始めた。花菜の目から見ても子供たちの動きがいい。そして驚いたことにあの落ち着きのない祐也までもが集中して練習に取り組んでいた。

「あの利かん気な祐也が……」

 花菜は石角の指導力に驚嘆した。そして、もっと早く出会っていたらよかったのにという思いさえ沸き起こった。

(もっと早く出会っていたら今頃祐也はサッカーを本当に楽しんでいたでしょうに。いいえ、もっともっと早く、結婚する前に出会えていれば……)

 と、それ以上考えが及ばないように花菜は激しく首を横に振った。すると……

「どうかしましたか?」

 と、練習を終えた石角がふいに声をかけてきたので花菜は飛び上がりそうになった。

「な、何でもありません! ちょっと嫌なこと思い出しちゃったので。それにしても、素晴らしいご指導で感動しました! 祐也があんなに真剣に物事に取り組んでいる姿を初めて見ました!」

「そうですか、祐也君は本当に見込みありますよ」

「そういっていただけると嬉しいんですけど、飽きっぽい子で、最近は本当にヤンチャでいうこときかなくなってしまって……」

「焦らずに、ゆっくり時間をかけて成長を見守ってあげて下さい。そのうち聞き分け良くなりますから」

「そういわれると、何だかホッとします」

 花菜は嬉しい気持ちになった。と同時に、的確な育児アドバイスの陰には妻子の存在が垣間見える。家庭を持つ男性と親しくなることに揺蕩たゆたう思いを抱きながらも、それ以来祐也のサッカー練習には毎度付き添うようになった。そしてそれは彼女にとってささやかな安らぎの時間となっていた。


      †


 そんなある日、夫の松田泰造まつだたいぞうが花菜の様子に違和感を覚え、不審に思って問い質した。

「最近何だか嬉しそうだな。何かいいことでもあったのか?」

 花菜は一瞬ぎくっとなった。あわてて平静を保とうとするが、泰造は花菜の一瞬の狼狽を見逃さなかった。

「え? べ、別に何も……」

「お前は昔から嘘が下手だ。疚しいことをきかれるとすぐに顔に出るんだ」

 花菜は石角の練習風景を見学していただけで何の疚しいところはない。だが、花菜が石角に温もりと癒しの感情を抱いていたのは事実だった。そのことがどこか夫に対して後ろめたい気持ちを起こさせていた。

「携帯を……見せなさい」

 泰造は有無を言わさぬ冷たい口調で言った。

「そんな……プライバシーというものがあるわ」

「夫婦円満の秘訣は互いに秘密を持たないことじゃないのか?」

 今更夫婦円満なんて……と花菜はいおうとする気持ちを咽元で抑えた。

「それにやましいことがなければ見せたほうが疑いが晴れていいはずだ。さあ、見せるんだ」

 花菜は石角の番号を端末に登録せず、丸暗記していた。だから携帯を夫にチェックされたところで何も疚しいことはない。……と思ったのが甘かった。

 泰造はいきなり携帯を床に投げつけ、花菜の髪の毛を鷲掴みにして彼女の腹に膝をめり込ませた。花菜は苦痛のあまり倒れ込み、どうにか息が出来るようになると怯えた目で嘆願した。

「や、やめてぇ……!」

 しかし泰造が一旦こうなるともう止められない。花菜はそのことをよく知っていた。あとはひたすら殴る蹴るの暴行に耐え忍び、収まるのを待つしかない。

「ごめんなさい。私が悪かったんです……」

 花菜がいくら泣き叫んで謝っても泰造は手を止めようとしない。それどころかますます調子づいてくるのだった。しかし、一旦暴力が済んでしばらく時間が経つと泰造は花菜を抱擁し、歯の浮くような愛の言葉を並べ立てた。しかし花菜にとってそれは最早聞くに耐えない騒音でしかない。

 もう、とうの昔からあなたのことが嫌で仕方ないのよ……花菜は心の中でつぶやいたが、それを口に出す勇気はなかった。

「すまなかった。もうこんなことはしない……」

 そんなこともう何回もいわれて裏切られている。それでも花菜はつい許したくなってしまうのだ。こんどこそ本当に回心したんじゃないかと。でも花菜にはわかっていた。またこの男は同じように暴力を振るうのだと。

 〝鬼〟

 泰造を言い表わすのにこれ以上適切な言葉を花菜は見つけることが出来ない。そして花菜は、身の安全のためにしばらく石角と会うのは控えようと思った。


 次の日、花菜は祐也を連れて河川敷グラウンドに出かけた。しかし入口のところで立ち止まった。

「祐也、大事なお買い物があるのを思い出しちゃった。今日のサッカーはお休みして買い物について来てちょうだい」

「イヤだ、サッカーしたい!」

 花菜は嫌がる祐也の手を無理矢理引きずって河川敷グラウンドに背を向けて急ぎ足で去って行った。

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