2-2 少年の母

 数日後、祐也の母親・松田花菜まつだかなは息子を連れて市内のショッピングセンターで買い物をしていた。花菜は最近「祐也君は多動性の傾向があります」と児童心理司にいわれたことを気にしていた。祐也は一つのことに集中出来ず、興味を引くモノが現れるとそちらに引きずりこまれてしまう傾向があるという。

 こうした買い物でも、ちょっと目を離すとその隙にどこかへ行ってしまい迷子となる。だからといって子供にばかり注意を向けていると買い物どころではなく、うっかりすれば夫から頼まれていた物も買いそびれてしまう。もしそんなことにでもなれば、夫を怒らせることになり、結局花菜自身が被害をこうむるのである。最近は祐也も体力がつき、その行動をコントロールするのは女性である花菜にとって至難の業であった。

 ショッピングセンターに着いてからしばらくの間は息子を手懐けていたが、相手は逃げ足も速い上に小回りの効く子供である。だんだん母親の方が体力的に限界を感じてきた。

「祐也、お願い。ママを困らせないで……」

 花菜の嘆願も空しく、祐也は店内の至るところに現れては消え、母親をやきもきさせた。そして、ついに花菜は息子を見失ってしまい、血の気が引く思いで叫んだ。

「祐也! どこにいるの?」

 花菜の悲痛な様子を見て、他の買い物客たちも彼女の子供が迷子になったらしいと悟り、辺りをキョロキョロと見回し出した。

「祐也! 祐也!」

 涙ぐみながら必死で叫びつつ探し歩いていると、目の前に一人の男性が現れた。それがなかなかの美男子で、さりげなく着こなしたラフなスーツファッションがきまっている。そしてその手には祐也の右手がしっかりと握られていた。

「祐也!」

 花菜は祐也に駆け寄り、ぎゅっと抱きしめた。その様子を見て男性がいった。

「はじめまして、祐也君のお母様ですか? 私は彼のサッカーのコーチをしている石角と申します」

 花菜は顔を上げた。

「ああ、あなたがあの新しいコーチですか。祐也がいってました。すごいコーチが来たんだって」

「そういわれるとこそばゆいですね。実はオモチャ売り場で祐也君を見かけたのですが、一人だったので気になって声をかけたのです。そうしたらお母様とはぐれてしまったということで……」

「すみません、ちょっと目を離した隙にはぐれてしまいまして、ご迷惑をおかけしました。でも、おかげで助かりました。何とお礼をいったら良いか……」

「いえ、お礼だなんて……」

 その時、祐也が石角のズボンの裾を引っ張った。

「ねえ先生、キッズコーナーに遊びに行こうよ!」

 そういわれて石角が苦笑いを浮かべたので花菜は慌てて窘めた。

「だめよ、祐也。先生がご迷惑だわ」

 すると石角が手を振っていった。

「いえいえ、かまいませんよ。もしご迷惑でなければ、少しの間お坊っちゃんをお預かりして遊ばせてもよろしいでしょうか? 奥さんもあの年代の男の子と一緒だと大変でしょう。その間にゆっくり心置きなくお買い物なさっては……」

 花菜は迷った。初対面の見知らぬ男に子供を預けて良いものか。だがにわかに彼女の直感は、目の前の男が信頼できる人間だと告げた。幸か不幸か、花菜は悪人や嘘つきがどのような人間か痛いほど良く知っていた。そう、痛いほどに……。

「ありがとうございます、お言葉に甘えさせていただきます」

「では、私たちは上に行っていますので、お帰りになる時に寄って下さい」

 助かった……花菜は思った。つかの間ではあるけれど、久々に開放された自由な時間。ただこうしてボーッと買い物しているだけの時間がこんなに楽しいなんて……。それにしても男性からこんなに優しい言葉をかけてもらったのは何年ぶりだろうか。結婚してから数年、来る日も来る日も夫からの辛らつな言葉に身も心も憔悴しきっていた。それに輪をかけて育児のストレスも深刻で明日生きていけるだろうかとさえ思うことがある。


 一通り買い物が済むと、花菜は階上のキッズコーナーへと向かった。そこで石角は祐也と周りの子供たちも巻き込んで遊んでいたのだが、その姿を見て花菜は息を飲んだ。

(何て素早い動き!)

 おそらく石角は三十路に差し掛かる年頃であろうが、まるでアクション俳優のように飛んだり跳ねたりして子供たちと追いかけっこをしていた。ちびっ子たちもこんなパパと遊んでいたら、並みのアトラクションよりもずっと楽しいだろう。

 花菜は我が子のこんなにも楽しそうな顔を初めて見た。周りのママさんたちも羨望の眼差しで彼を注目していて、花菜は何故か誇らしげな気持ちになった。しかし……

(いけない、私はあの人の妻じゃないんのよ。私の夫はといえば……)

 そう思った途端、急に涙がポロポロこぼれてきた。その様子に気がついた石角が花菜に近づいて来た。

「どうしましたか? 大丈夫ですか?」

「大丈夫です。ちょっと嫌なこと思い出しただけです」

 石角は花菜の気持ちを察したのか、それ以上何もきかなかった。

「では私はこれで失礼します。もしよかったら今度サッカーの練習を見に来て下さい。彼、なかなか良いセンスしていますよ」

 そういい残して石角はその場を去った。花菜はその後姿を目で追いながら、胸の中に仄かな温もりを感じた。

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