1-5 整備工場

 直戸と雁屋は柏木モータースを訪ねた。場所は浜北区の山麓にあった。錆び付いたトタン板に囲まれた、古い倉庫を改造したような工場内。そこには、いくつかのトラックが整備の手を待つようになりを潜めていた。二人の足音を聞きつけたのか、詰め所から従業員が出て来た。

「ええと、何かご用ですかな?」

 あきらかに顧客ではない様相の直戸と雁屋を見て、男はあからさまに迷惑そうな態度を向けた。そこで雁屋も負けじと威圧するように警察手帳を見せた。

「警察だに。ちいっとききたいことあるだもんで、社長さんいるけ?」

「……少々お待ちください」

 従業員は一旦詰め所に入ったが、しばらくすると、二人に入ってくるように手招きした。そして、応接コーナーのソファーに座るよう促し、社長を連れて来た。

「私が社長の柏木です。警察の方がどのようなご用件でしょう」

 違法な業者を相手にしているせいか、警察と聞いて身構えている様子がありありと分かった。そこで雁屋は出来るだけやんわりと噛み砕いたいい方をした。

「東名高速高架下ん路上で轢き逃げ事故があったけぇが、そん車両の塗料がこちらで使用されているものと一致したで、ここで再塗装した思うとるわけよ。んだで、顧客リスト見せてくりょ」

「いや、個人情報なので、それは勘弁して下さいよ。もし必要なら令状取って来て下さい」

 そう言って柏木社長は雁屋たちを追い返した。


「随分用心深いな」

「しょんない。叩けば埃ん立つ連中だで、警戒されて当然だに。令状取って出直さまい……」


 そういって二人が車に乗り込み、遠くに走り去って行くまで柏木社長は見張っていた。その時、柏木社長の携帯が鳴った。

「もしもし、柏木です」

「〝パイン〟だ……」

「こ、これは、いつもお世話になっておりますっ!」

 柏木は緊張のあまり石のように硬直した。

「今、そこにいたのは警察の人間だな。一体何を話していたんだ?」

「な、何でもありません。轢き逃げした車がウチで修理したとかで、顧客リストを見せろといってきたんですが、断りました」

「そうか。奴らはまた来るかもしれないが、余計なことを話すんじゃないぞ。いいな」

「は、はい、わかっております」

 通話を終えた柏木は忌々しそうに呟いた。

「くそッ、ハゲタカめ!」


      †


 直戸が留守にしている間、少年は店番をしていた。そして少しでも仕事を覚えられるよう、手の空いている時にはヴァイオリンの図録を眺めるようにしていた。それは直戸の勧めによるものだった。

──今はヴァイオリンの形など全部同じに見えるかもしれない。でも注意深く見続けていたまえ、じきに違いがわかってくる。特にスクロールやf孔の形、そして全体的なフォルムをよく見るんだ。そのあたりが識別するための鍵となってくる──

 そう言われて図録を眺め続けていると、ストラディヴァリとグァルネリの違いは何となくわかるようになった。そして徐々に他の楽器の特徴も認識できるようになってきた。

(先日あのチンピラ男が持って来た偽ストラディヴァリ、今の僕なら見分けがつくかもしれないな)

 少年がそのようなことを考えてほくそ笑んでいると、ヴァイオリンケースを背負った往年の男性が来店した。

「すまないがこの楽器見てもらえるかな」

「綾小路は只今外出中ですので、一日お預かりでもよろしいでしょうか」

「ほう、君は綾小路さんのお弟子さんかな。今、ざっと見てもらえないかな」

「いえいえ、僕は本を読んだことがあるだけで、ちゃんと鑑定なんかしたことありませんから……」

「構わんよ。ざっとだいたいのところでいいから」

 少年は少し困った顔でヴァイオリンを手に取ってf孔を覗いた。

「割と新しい楽器のようですが、ラベルがありませんね」

「そうなんだ。知人に譲ってもらったんだが、それなりに良いものだというのでその素性が知りたくなってね」

 少年は楽器を隅々までしばらく眺めていたが、突然何かを思い出したようにハッとなった。そして書棚から一冊の図録を取り出してあるページを開いた。そこに載っていたのはマウリツィオ・アヴィタビレという作者が1984年にイタリアのクレモナで製作した楽器であった。

「この人、表板の隆起の出し方に特徴があるんですよ。ほら、横から見ると独特の曲線を描いているでしょう?」

「ううむ、いわれて見ればそんな気もするな」

「あと、この赤いニスや内枠式という構造が現代クレモナの特徴ですね。というわけでマウリツィオ・アヴィタビレが80年代に作ったもので間違いないでしょう」

「ほう、若そうだがなかなか見る目がありそうだね。もう知りたいことは十分わかった。正規の鑑定料を支払おう。そしてこれは君のふところへ入れてくれ」

 客はそう言って一万円札を財布から抜き出し、チップとして少年のポケットにねじ込んだ。

「そんな、困りますよ、ただの素人判断ですから」

「まあそういうな。もらうもんはもらっておくものだよ」

「はぁ……」

 その時、客人の携帯から着メロが流れた。何とそれは客人自身の歌声であった。

「これはお客さんが歌われたんですか?」

「やあ、お恥ずかしい。私は民謡の研究が専門でね、これは最近研究しているわらべ歌なんだよ」

「そうでしたか」

 客人は自分の歌をきかせ続けたかったのか、電話を取らずに自声による着メロを流し続けた。それはこんな歌だった。


〽︎鷹さん呼ばわばほろしつみ

 鳥さんむかさりみのりつみ

 観音さんのきざはし

 ついに宴の幕も閉づ

 色の照る日も空にあり


 ところがこの歌をきいている途中で少年は激しい頭痛を覚え、顔からみるみる血の気が引いていった。

「ちょっと君、大丈夫かね?」

「大丈夫です。ちょっと眩暈がしたもんですから……」

「そうか、では私はこれで」

「ご来店ありがとう……ございました」

 そして客人の姿が見えなくなると、途端に少年の意識が遠のいていった。穂香が学校から帰ってきた時には少年は気を失って床に倒れていた。

「どうしたの? 歩夢君、しっかり!」

 しかし少年の意識は戻らず、穂香は慌てて救急車を呼んだ。

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