1-2 僕は誰?

 晴れ渡った昼下がりの青い空。ひとしきり続いた自動車の走行音が鳴りを潜めると、遠くの方から学校で子供たちがわいわいと遊んでいる声がきこえてくる。気を失って座り込んでいた少年はその声に目を覚ましたが、朧気に見えるのは見知らぬ風景だ。

 (ここはどこ? 僕は誰?)

 自分の名前はおろか、今までどのような人生を歩んできたのか、どうして今ここにいるのか、全く分からなかった。やがて意識がはっきりしてくると、制服を着た一人の女子高生が視野に入った。派手さはないが可愛いらしい美少女で、膝に手をあてて少年をじっと覗き込んでいる。少年は何かいおうとしたが、ことばが出ない。代わりに彼女の方から話しかけてきた。

「大丈夫? 気を失っていたみたいだけど」

「わからない。目を覚ましたら記憶がないんだ」

「じゃあ、お家もどこかわからないの?」

「うん。……そもそもここは何処なの?」

「静岡県の浜松市よ。そしてこの上を通っているのが東名高速道路」

 少女につられて少年は上を見上げた。頭上には高架道路が通っていた。しかしそれが東名高速道路だとわかったところで、記憶を取り戻すには何の役にも立たない。

「……とりあえず、私の家に来ない? 少し休んだほうがいいと思うよ」

「じゃあ、お言葉に甘えようかな。ええと、君は……」

「私は綾小路あやのこうじ穂香ほのか。星雲高校の二年生よ」

「穂香、か。いい名前だね、よろしく。僕は……名前が思い出せないな」

「それじゃぁ、とりあえず……高速道路の下を歩いてたってことで、〝道下歩夢みちしたあゆむ〟というのはどう?」

「道下歩夢ね……まあ、いいんじゃない」

 とりあえず少年の仮の呼び名が決まったところで、二人は穂香の家へと向かって歩き出した。


 穂香の家は東名高速からさほど離れていない天王町にあった。店舗付きの一軒家で、入口のテント屋根には〝古楽器鑑定 綾小路〟と書かれていた。

「ただいま」

 と穂香がいうと、いきなりヤクザ風の怒鳴り声がきこえてきた。

「こらオッサン、でたらめいうのもたいがいにせんかい!」

 だがチンピラと対面している男は笑みさえ浮かべて受け流していた。年齢は40前後、引き締まった体型で背筋がピンと立てて堂々としていた。

(この人がお父さんなの)と穂香は小声でささやく。穂香の父親は、ゆったりとしたテンポでチンピラに説明している。

「でたらめではない。これは古くてもせいぜい二十世紀以降、それも第二次大戦後に作られたものだ」

「あほゆうな。ラベルにアントニオ・ストラディヴァリって書いとるやろうが!」

「鑑定士にとってラベルはあくまで参考材料だ。人間に顔があるようにヴァイオリンにも顔がある。鑑定士が見ればそれが誰の顔なのかほぼわかるのだよ」

「パッと見で判断するんかい、それこそあてにならんわ。人間、勘違いもあるやろ」

「ごもっとも。しかし我々鑑定士はヴァイオリンに関しては子供が親の顔を判別するくらいの識別力くらいは持っている。それにストラディヴァリクラスの鑑定を本当に行うとなると、相当な鑑定料をいただくことになるが本気で支払うつもりかね。まあ高い鑑定料を払って安物だと判明するよりは、ストラディヴァリと思い込んでおいたほうが精神衛生上良いと思うがね。わかったらとっととこれを持って帰って自己満足にでも浸りたまえ」

「あんたが本物や言うたら誰も疑わんやろ、ごちゃごちゃゆうてんとはよせえや」

 とその時、背後から別の客人がきた。

「それはいうものだに」

 そのダジャレが気に入らないのか、穂香が冷ややかな目で客人を見る。ハケ上がった赤ら顔に大きな目玉。おまけに口を尖らせてニタニタしている容貌は、まるでタコ入道だ。チンピラも客人をにらみつける。

「こら、オッサン、ケッタイな駄洒落かましおって。ナメた真似しとったら、ホンマにしばいたるで!」

 チンピラはその手を振り上げた。その様子を見て穂香は「キャアー!」と悲鳴を上げた。その拳がまさに振り下ろされようとした瞬間、客人がその手を掴み、後ろ手にねじり上げた。

「おんし、日本は法治国家だもんで暴力ふるっちゃいかんに。とんまさる(捕まる)だけだで、合わんよ」

「いてて、オッサン何モンやねん!」

「……こういう者だで」

 そう言って客人が懐から取り出したのは警察手帳だった。そこには〝警部補、雁屋誠憲〟と書かれてあった。

「け、警察! 刑事かい、あんた」

「おんし、借金取りだら? 差し押さえ物件の中にこのヴァイオリンあったもんで持ってきた、よくある話だに。数万円の安物にストラディヴァリのラベルつける……ふんな楽器ゃ世の中ごまんとあるで。悪いこと言わんで、それ持って帰りない」

「そんなん分かれへんやろが。そもそも警察が民事に首突っ込むんかい。帰るんはそっちや」

 すると、雁屋から笑顔が消えてガラリと強面に変わり、ドスの効いた声で凄味を効かせていった。

「人がやあこく言っている間にけえれ。おんしのしているこたぁ立派な恐喝だけぇが、二度とここに来んと誓えば逮捕くりゃ見逃いてやる」

 チンピラは雁屋の突然の豹変に尻込みしたが、態勢を立て直すと、「くそ、覚えとれや!」といい捨ててその場を立ち去った。

「『覚えとれ』けぇ。あいにく最近物忘れんひどいもんで。年はとりたくないもんだに」

 雁屋は恥ずかしそうに頭をかきながらご愛嬌を述べたが、穂香の父親は愛想笑いもせずにいった。

「助かった。といいたいところだが、あんたが来たっていうことは、どうせチンピラより厄介な用事を寄越しに来たんだろう」

「まあ、そう意地悪いこといわんでくりょ。今追っている事件、影の名探偵と名高い綾小路直戸しか解決できそうにないだよ」

 すると話を聞いていた穂香が抗議していった。

「ちょっと雁屋さん、また父を事件に巻き込むつもりですか! 父はもう警察とは何の関係もない善良な一市民なんです。帰って下さい!」

 穂香がいきり立つのを宥めながら、彼女の父親も雁屋に釘を刺した。

「娘のいう通り、今の俺はしがないヴァイオリン鑑定士だ。チンピラを追い払ってくれたのはありがたいが、今日のところは帰ってくれ」

「まあまあ、とりあえず話だけでも聞いてくりょ。捜査協力するかどうか今決めんでもいいで」

 穂香は父親が、雁屋のしつこい請願に根負けしてしまわないかとヒヤヒヤしながら、成り行きを見守っていた。

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