第18話 現代、花彌の章 11


 その日の勤務のことは、ほとんど覚えていない。

 無心で働いた分、効率はよかった。


 しかし、同僚たちは総じて腫れ物を触るように花彌と接し、一時間の休憩を食堂で過ごせば、あちらこちらから視線を感じて居たたまれなかった。


「……どうして。」


 それはただの苦痛だった。


「………」


 それでも歯を食い縛り、心を殺して業務に励んだ。


 救いだったのは、急なお産が立て込んで、普段よりもいくぶん多忙だったこと。

 お陰で頭は余計なことを考えずにすんでいた。



 深夜。

 勤務を終え、帰宅する間際、


「花彌、うちを綺麗にしてきたからさ、今日からうちに帰りな。場所、知ってるでしょ。」


 深夜勤の重光に、不細工なマスコットがぶら下がったキーホルダーを渡された。

 一瞬戸惑ったが、重光は花彌の手にキーホルダーを無理矢理握らせる。

 

「…ごめん、…ありがとう。」

「いいよ。…あと、あの日、LINEしてきたの、花彌じゃないよね。文面が異常に丁寧だったから。」

「………!」

 

 花彌は小さく息を飲み、緊張の糸が切れたように踞って泣いた。


 重光は花彌を抱えるようにロッカールームに連れていき、その場で自身のスマホからタクシーを呼んだ。


「見える?これ、」


 その時見せてもらった重光のスマホのLINEには、花彌名義で堅苦しい文面が綴られていた。


《強盗に入られたようです。どうか、仕事を休む手配をお願いできませんか。》


 それはナナシが、花彌のスマホから送ったのだろう文。


(…ナナシっ)


 人には決して説明できないその優しさに、花彌はただ涙を流すより術がなかった。


     ※ ※ ※


 築年数のそこそこ新しいマンションの三階に、重光の部屋はある。


 階上へ上がろうとエレベーターを押すと、階下へと降りてきたエレベーターから、見知らぬ男が降りてきた。花彌の身体がすくむ。男は訝しそうに花彌に一瞥くれたが、それだけでマンションの外へと出ていった。


 心臓を守るように胸で握り拳を握った花彌は、俯いたまま一歩も踏み出すことができずに、エレベーターの扉は閉まる。

 

 花彌は、結局エレベーターを使わずに、オレンジ色の非常灯が照らす薄暗い非常階段を、スマホ片手に足早に上った。


「………はぁ、はぁ」


 息が切れる。


 呼吸を落ち着けながら、重光の部屋の玄関ドアに不細工なキーホルダーのついた鍵を差し込んだ。


「……はあ。」


 玄関ドアをを開けると、ようやく一息つく。

 室内灯に手を伸ばし、よろよろと靴を脱いだ。

 

 鞄をリビングの机の上にそっと置き、重光の言われた通り、まずお風呂にお湯を張った。


 その間、赤いレザーの一人掛けソファーの前方部分にちょこんと座る。だがやはりどこか落ち着かず、スマホの画面に視線を落とした。


 電源を入れると、開いたままにしておいた小さなお化けのアプリの過去ログが現れる。

 スクロールを繰り返し、何度もそれを読み直した。


 やがて自宅とは違うお湯張りの音楽が流れて消える。

 花彌はスマホを持ったまま、脱衣所へと向かった。


 勝手がわからないまま脱衣所で服を脱いでいると、洗濯機の真ん前に、小さな藤の籠が置いてあることに気がついた。


 藤の中には、真新しいピンクのフリースのパジャマがきちんと畳んで入れられていた。その上には不細工なキャラクターのメモ用紙で「花彌専用」と書かれている。


「ふふ、」


 思わず笑みがこぼれる。


 少し上がった気分の勢いでお風呂のドアを開けた。

 

 自宅とは匂いの違うお風呂のお湯に浸かり、見覚えのない天井を見上げながら、花彌は、あえて何も考えないように、小さな声で懐かしい歌を口ずさんだ。


     ※ ※ ※


 帰宅した重光は驚いた。


 てっきり眠っていると思っていた花彌が、上下セットのピンクのフリースを着たまま、寒いベランダに立っている。


「花彌!」


 重光は持っていた鞄をリビングにどさっと落とし、ベランダへと駆け出した。


「ちょっと、何やってんのよ!」


 少し息を切らしているのは、心配によるものだとわかって、花彌は小さく微笑む。

 そんな花彌の手を掴み、重光はぎょっとした。


 氷のように冷たい手。


「花彌、いつからこんなとこにいたの!風邪引くよ!」


 怒りに近い、重光の声音だった。

 

「…うん。」


 しかし花彌は力なく微笑むばかり。

 

 その日から3日、花彌は熱を出し仕事を休んだ。


 

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