第14話 現代、花彌の章 7



 別れを告げると、彼氏は花彌の両手を乱暴に離し、嫌悪感しか生まない目で、きつく花彌を睨み付けた。


 それから8日目の深夜。


「………え、」


 帰宅した花彌は、玄関ドアを開けて電気をつけた瞬間、絶句した。


 自分の部屋のドアを開けたはずなのに、全く見覚えのない風景が広がっている。


 もともとキレイではなかった部屋の、引き出しと言う引き出しが全て開けられていた。


 はじめての給料で買った薄いピンク色の丸机は、ひっくり返って中央から割られている。食器も全て床に投げ捨てられて、欠片があちらこちらに散乱していた。


 彼氏と付き合い始めた頃、浮かれていた花彌は、食器の全てを2組ずつ買った。お皿も、コップも、茶碗も、お椀も。

 その全てが、粉砕されている。


 ここに渦巻くものは、怒りの形を借りただけのただの狂気で、花彌は堪えきれず、靴を脱いでシンクに向かうと一気に嘔吐した。


 足の裏に割れた食器の欠片が刺さる。



 何度もえずいて、胃の中が空っぽになると、途端に身体が震え始めた。


 

 何も考えられない。どうしていいのかわからない。


「……た、助けて、」


 すると、肩に掛けていた鞄の中で、音を消していたはずのスマホが鳴り始めた。


 震える手で取ろうにも、握力がなくなって握ることもできない。


 すると、


『花彌!』


 スマホが勝手にスピーカーになったのか、見知らぬ男の声が轟いた。


『花彌、早ぅ警察に電話せぇ!』


 聞き覚えのない声。しかし聞き覚えのある方言。


「で、できない、手が、手が震えて、」

『俺が警察に繋ぐけぇ、花彌は現状を話せ!それは出来るじゃろ!しっかりしぃや!』


 そして男の声が消えると、たちまちコール音が響き渡った。


『はい、こちら湾岸警察署です。事故ですか?事件ですか?』

「あ、あの、」


 震える声で、鞄の奥へ向けて花彌は、現状をたどたどしくも懸命に伝えた。伝え終えると、その場に崩れるように膝をついた。


 未だに震えは止まらない。


「…怖い、怖い、怖いよ、助けて、」


 生理的な涙がボロボロ溢れて止まらない。


『大丈夫じゃ、もう警察の人が来てくれるけ。大丈夫じゃ、』

「怖い、怖い、」

『大丈夫大丈夫。とりあえず、立てるんなら、部屋から出ぇや。そこはちょっと空気が悪いけぇ、な。』

「うん、…お願い、電話、切らないで…」

『切らんよ。警察の人が来るまで、俺と話そう。そうじゃな、何の話がええかの、』


 緊張感のない男の口調に、花彌は少し笑った。

 そしてゆっくり立ち上がると、狂気の渦と化した自分の部屋を出て、重いドアを閉めた。


 そのままドアに背を預け、ずるずると腰を下ろした。それでも花彌の顔は少し緩んで、微笑みさえも浮かべている。


 それは風の冷たい闇夜の中にあっても、鞄から聞こえてくる広島弁を話す男が、何故か「芋のふかし方」について詳細に説明して聞かせてくれていたためだった。


     ※ ※ ※


 警察官に連れられて警察署に向かい、言われるがまま被害届を提出した。


 時計は既に午前6時を回っている。


 そのまましばらく警察署のソファーに座り項垂れていた。

 花彌の部屋は今、現場検証が行われている。


 やがて現れた婦人警官に付き添われ、紛失物や破損物等の届出書類にサインを求められた。それに震える手でサインする。


 午前9時。

 窓口が開いた銀行に電話する。

 思考力が低下した花彌は、警察官に言われて急遽キャッシュカードを使用停止にはしていた。しかし残高までは把握できず、ゆえに窓口が開くのを待っていた。


 花彌は落ち着かない荒い呼吸のまま、残高確認をしてもらい、盗まれたかもしれない金額を調べてもらう。

 すると、その銀行口座からは既に金が引き出されており、残高が数百円になっていた。


「……そんな、」


 止めどない涙が頬を伝う。

 しかし、結局は自分の迂闊さを責めるしかない。


「………うぅ、」

 

 警察署にも人の往来が激しくなり始め、涙の枯れない花彌はいたたまれずソファーから立ち上がった。


 そして重い足取りで、荒れ果てた自宅を目指す。


「………」


 だが、やはりどうしても自宅へ戻る気にはなれず、花彌は、ふらふらとマンション近くの公園に立ち寄った。


 公園のベンチで座り込み、項垂れる。


「………」


 心がどす黒い感情に握りつぶされそうだった。


 未だに身体の震えが止まらない。


「………」


 花彌は震える手でスマホを取り出すと、小さなお化けのアイコンに触れた。


 現れた一件の個人チャットを開き、そして、


「助けて。助けて。」


 震える声で何度も呼び掛けた。すると、


『…花彌、』


 静かな公園に、静かな男の声が響いた。


 

 なぜこの人は自分の名前を知っているのだろうか。

 その事に対する違和感など、もはや花彌の脳裏を掠めもしない。

 今自分が求めていたのは、ただ一つ。


「助けて。助けて。…お願い。助けて。」


 救いだった。


 

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