第13話 現代、花彌の章 6


 結局谷口は、


 「何でもない何でもない。やっぱいいわ。忘れてくれ。」


 と片手を顔の前で大きく振りながら、またペタペタとサンダルを響かせ救急病棟へと戻っていった。


     ※ ※ ※


「ちょっとちょっと、今スタッフ用のエレベーターで谷口センセとすれ違ったんだけど、ここ来てたの?何かあったの?」


 深夜勤の重光が、若干ウキウキした足取りで花彌に寄ってきた。


 花彌は思わず苦笑を漏らす。


「何言ってんの。谷口先生がいらしてて、楽しいことがあったわけないじゃない。ちょっと急変された妊婦さんがおられてね、」


 カルテを見せながら今日の一連の出来事を引き継ぐと、重光は「なるほど了解です」と呟きはしたが、


「でも、それにしてもあのおっさんがここまで来るなんてよっぽどじゃないの。普段別病棟で急変した患者さんがいても谷口センセは救急から出てこないよ。不動のヌシだから。…えー、なんか別件があったんじゃないのぉ?」


 幾分楽しそうに花彌を見つめる重光の目が光る。


 またか、と花彌は密かに嘆息した。


 重光は以前から、バツイチの谷口と花彌をくっつけようと画策している節があった。

 花彌が「彼氏がいるから」と断りを入れても、なぜか谷口のことを猛然とアピールしてくる。


「重光、だから何度も言ってるけど、私には彼氏がいるから、」

「あんなのは、彼氏とは呼ばないよ。」


 おどけていたはずの重光の声がワントーン下がった。

 笑っていた花彌の顔がにわかに曇る。


「女に金をせびる男を彼氏とは呼べない。」


 重光は、迷いのない真っ直ぐな瞳で花彌を見据えた。


「………」


 花彌はその真っ直ぐさに耐えきれず、俯き、少し唇を噛み締めた。


     ※ ※ ※


 帰り支度をするため、ロッカールームで着替えを済ませ、鞄の中からスマホを取り出す。


 未読通知を知らせる数字がLINEの上にあるのは確認したが、LINEのアイコンは開かずに、別のアイコンにそっと触れる。


 先日、見知らぬ人とSNSで繋がった。

 あの時はほとんど無意識で、何のサイトかも詳しくわかってはいなかった。


「…いつから、ここにあったのかな。」


 それは、ダウンロードした記憶もない、小さなお化けのマークのアプリ。


 開けば、一件の個人チャットのみが表示される。


 それは誕生日の日に繋がった名も知らぬ人。


 しかしあれから一度も繋がってはいない。


 それでも毎日、花彌はこのアプリを開き、毎日同じメッセージを読む。

 

 そして、メッセージを読み返しては、いつも少しだけ泣いた。


     ※ ※ ※


 深夜1時過ぎ。

 マンションに着く間際、エントランスから漏れる光に照らされて、闇夜の中、見覚えのあるシルエットが浮かび上がっている。


 思わず足が止まり、花彌は俯いた。

 深い溜め息が漏れる。


「花彌!」


 しかし黒い影は、花彌を見つけると、慌てた様子で駆け寄ってきた。

 花彌は数歩、後退りした。


「おい花彌!なんでLINE確認しねぇんだよ!」

「大きな声しないで。ご近所に迷惑だから、」

「お前が連絡してこねぇのが悪いんだろ!」

「…ごめん、仕事が立て込んで、」

「いい加減にしろよ!こっちは急ぎで金がいるんだよ!わかるだろ、今が正念場なんだよ!俺がどんだけ大変な思いをしてここまで漕ぎ着けたか、お前、知ってるだろ!」

「うん、わかったから、大きな声しないで。」

「お前が返信してこねぇからだろ!」


 花彌は思わず両手で耳をふさいだ。

 しかしその両腕をがっしりと掴まれ、耳から手が剥がされる。闇に紛れた花彌の顔は泣きそうになっていた。

 だが、彼氏はその事に気が付くこともない。


「あと20ほど急ぎでいるんだよ、頼むよ、花彌!」

「……さない。」

「はあ?何?」

「……貸さない。もうそんなお金もない。もう、あなたにお金は、…貸さない。」


 花彌は涙をいっぱい溜めた瞳で、彼氏をきつく睨むと、大きく息を吸い込んで、


「もう、別れよう。別れてください。」


 やっとの決意で胸の内を告げた。


 

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