第12話 現代、花彌の章 5


 満月の夜は、出産ラッシュがやってくる。


 学術的根拠もない噂だが、ナースステーションのカレンダーには月の満ち欠けのイラストが、日付の下の方に小さく入っていた。


 今週準夜勤の花彌は、今日の日付の下に満月を見つけて、少しほっとした。


 余計なことを考える余地を与えたくはない。


 病院の窓の外、とっぷりと更けた深い闇。

 遠く見える月は煌々と光って真ん丸だ。


 ガラス越しに映る自分の目の下には、コンシーラーでも隠せなかった濃いクマができていた。


     ※ ※ ※

 

「お願い!もう帝王切開にしてぇ!」


 陣痛室に響く妊婦の悲鳴に近い叫び声。


「山寺さん、大丈夫ですよ。ちょっと深呼吸してみましょうか。」


 花彌は陣痛を知らせる機器を妊婦のお腹にセッティングしながら、努めて穏やかな声音で言った。機器の画面に表示される波形の山が大きければ、強い陣痛が来ていることを示す。


「痛いー!痛いんだってばぁ!」


 しかし、妊婦の山寺は叫んではいるが、機器に表れる陣痛を示す波形は小さく、規則的でもない。


(まだお産までには時間がかかるかも、)


 機器から響く胎児の心音は力強くリズミカルだ。

 別段不安な要素はない。


「このままもう少し様子を見ましょう。何かあったら、すぐにナースコールしてくださいね。」


 陣痛室を退出する際、花彌は室内の明るさを少しだけ下げた。


 妊婦の山寺は標準体重を少しオーバーしており、先日の定期検査でも血圧が高めだったとカルテに記されていたためだった。


     ※ ※ ※


「……?」


 陣痛室を出てすぐ、花彌の足が不意に止まる。


「……え、」


 陣痛室の扉は二重になっており、一つ目の扉を出たところで、花彌は見たことのない少女に出会った。


 色素の薄い長い髪をした少女は、生気のない瞳で花彌を見上げていた。花彌と目が合うと、少女は少し驚いた様子で白く小さな唇を動かした。


『あなたは、私が見えるの…?』

「…え、」


 この少女が何を言っているのかわからず、混乱する花彌は一歩後退した。しかし、少女はそんな花彌の手をそっと掴む。


 体温を全く感じられず、肌が粟立った。

 花彌の目が大きく見開く。


 驚いている花彌を見て、少女は悲しそうに微笑んだ。そして、生気のない瞳に少しばかり強い力を込め、だが消えそうな声で言った。


『見えるなら、お願い。今、母親に死なれたら、私たちは来世で巡り会えないの。だから、どうか、』


 儚い言葉は小さな風となって消える。

 途端、少女も風に拐われるようにふわりと消えた。


 いったい何が起こったのかと呆然としていた花彌だが、はたと我に返ると急ぎ陣痛室へと舞い戻った。


「山寺さん!」


 室内灯のスイッチに手を伸ばし、刹那花彌は叫んだ。

 花彌の声と同時に、陣痛を図る機器が赤い光を放ち、警告を報せるアラーム音が、陣痛室にけたたましく谺した。


 花彌は山寺に駆け寄り、脈を取る。

 そしてすぐさまナースコールを押した。


     ※ ※ ※


 深夜。

 ナースステーションにて引き継ぎ用の書類をまとめていた花彌のもとへ、ペタペタと壊れたサンダルを鳴らしながらやって来たのは、手術衣の上に白衣を羽織った救急医、谷口だった。


「おう不幸姫、お手柄だったな。あと数分気づくのが遅れてたらと思うと肝が冷えるぞ。」


 50手前の谷口は、今日まで緊急オペがいくつも立て込んだために3日帰宅できていないらしい。今朝も仮眠禁止の医局で泥のように眠っていたと、日勤の同僚に嘲笑混じりに教えてもらっていただけに、花彌はこっそり苦笑を漏らす。


 確かに、いつもあるはずの無駄な目力が、今日の谷口には見受けられない。

 

 「不幸姫」との不名誉なあだ名にも抗う気が失せ、花彌は「ありがとうございます」と笑顔で会釈した。


「ところで曽我部、ちょっと気になることを聞いたんだがな、」


 すると谷口は顎の無精髭を触りながら、普段の快活さを忘れ去ったかのように、言葉を探して空中に目を泳がせた。


「………」


 花彌は一抹の不安を抱えながら谷口の二の句を待った。谷口はそんな花彌と目が合うと、小さく息を吐いて、


「曽我部さ、なんでも一旦陣痛室を出たのに、また陣痛室に戻ったらしいじゃないか。それで患者の異変に気がついたんだってな、」

「え?あ、はい。…そうですけど、」


 谷口が意図するところが読めずに、花彌は小首を傾げる。

 谷口は首の後ろを掻きながら、幾分か力を取り戻しかけている目を細めた。


「曽我部、そこで誰かと会わなかったか?」

「……!」


 花彌は、思わず持っていたボールペンをぼとりと落とした。



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