第11話 現代、花彌の章 4


 中学生の頃、修学旅行先の広島で、信号無視をして横断歩道を渡ってしまい、車に跳ねられた。


 それは原爆ドーム前の、大きな道路を挟んだ向かいの歩道。

 脇道へと続く道は、確かに歩行者信号が赤だった。


「花彌!信号赤だよ!」


 友達の声に、はっと我に帰ったときには、既に車は眼前まで来ていた。


「きゃあ!」


 しかし、真正面から跳ねられるはずの身体は、少しずれて右半身にのみ衝撃が走る。


 何者かに腕を引かれ、寸でのところで正面衝突は免れた。しかし、右の腰から下に激痛が走って、脂汗が滲む。

 右足にはまったく感覚がなかった。


「………ッ」


 痛みに顔を歪めながら、微かに目を開けると、花彌の左腕を掴む青年と目が合った。

 花彌ははっと息を飲んだ。


 花彌が脇見をして信号無視をする羽目になったのは、この青年を見ていたから。


 花彌は、道路向かいの原爆ドームを、泣きそうな顔で見上げているこの青年から、目が離せなかったのだ。



「……でも、」


 不思議な点はいくつかある。


 片側二車線に、路面電車の線路も挟んだ大きな通りの向こう側の、青年の表情を花彌は本当に見たのだろうか。


 また、そんな遠くにいたはずの青年が、なぜ花彌を助けられたのだろうか。



 広島の、比較的大きな病院に入院していた花彌は、風で揺れるカーテンの隙間から見える窓の外の、見覚えのない景色をぼんやり眺めながら、そんなことばかり考えていた。



 だからだろうか。

 彼氏もどことなく、あの時の青年に似ている。


 髪型、面影、背格好。


 花彌は、いつでもあの青年を探している。

 そんな気がした。


     ※ ※ ※


 花彌がマンションに戻ると、エントランスに彼氏が立っていた。

 彼氏は花彌の姿が見えると駆け寄り、


「遅えよ!金は?」


 と怒りを隠さない声で聞いた。


 花彌はムッとしながらも、コートのポケットから封筒を取り出した。しかし差し出すよりも早く、彼氏に奪い取られる。


「悪いな、必ず返すから」


 そしてそのまま彼氏はいつも車を止めているコインパーキングへ向けて、一度も振り向くことなく走っていった。


 その背中を見送ることを止め、花彌はマンションに入り、エレベーターのボタンを押した。


 7階付近からエレベーターはゆっくりと下ってくる。


 だが4階あたりで一旦止まり、しばらく動かない。

 それを花彌はぼんやりと見上げていた。


 ようやく着いたエレベーターの扉が開くと、すぐさま小さな男の子が駆け出して、続いて母親が子供の名を呼びながら笑みをたたえて下りてくる。


 花彌はその二人の背中を、微笑みながら見つめていた。



 中学生の頃の事故で、右側の腰付近と右太股に大きな傷跡が残っている。


 その事が負い目となって、彼氏からの金の無心が断れない。


 金しか自分には価値がなく、金しか繋ぎ止める方法がないと、今もどこかで思っていた。

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