第三章 広がりゆく、呪いの負債その二

 車外の気温は温度差が激しい。すでに十月半ばを過ぎているというのに、早朝とは打って変わってまるで真夏のような蒸し暑さだ。

 その上、私が運転しているこの愛車のアクア。中古車だけあって、クーラーの効きが良いとは言えない。

 そろそろガタがきているのだ。しかし、響子がただ同然の値段で売ってくれた、愛着のある車でもある。まだまだ乗り回さなければ、彼女に申し訳が立たない。

 私はクーラーを切って、運転席側の窓を開けた。


「今日も人々がせわしなく歩いているじゃないか。至って、日常の風景だ。人々が行き交うこの光景だけ切り取って見ていれば、平和そのものなんだけどな」


 しかし、現実は違うのだと、私は心の中で呟いた。S県M市のベッドタウン。比較的新しく開発されたこの市街地に、真奈美ちゃんの自宅はある。

 そこを目指し、私はハンドルを切って、街並みの四つ角を右に曲がった。彼女の家まで、後は十分もあれば到着するだろう。

 昨日、実際に見てきたがかなりの豪邸だった。父親が建設会社の社長をしているだけあって、彼女はずいぶん裕福な家庭で育ったようだ。

 しばらくすると、目印にしていたものが見え始めてきた。高さ三十メートルはある一基の赤白の送電鉄塔。そこから遠くない場所に、彼女の家は建っているのだ。

 到着すると、すぐ側の道路脇に停車させる。そしてハザードランプを点けてから私は車外に降り立つ。改めて向かい合ってみると、圧倒される大きさの平屋だ。


「さすが父親が会社社長なだけあるね。駅近にこれだけの家。建築費にいくらかけたか知らないけど、ずいぶん羽振りが良さそうじゃないか」


 開放感のある大開口の掃き出し窓、三台分のカーポート。そして松の木と綺麗な芝生が敷き詰められた広々とした庭に、クローズ外構。

 目測だが、家だけで百坪。土地を含めれば、百五十坪以上はありそうだ。父が警察署長を務める私の家もそこそこ広かったが、勝負にならない。

 これが本物の富裕層が暮らす家なのかと私は気後れしながら、玄関から離れた外溝に設置されたインターホンを押した。

 しかし、いくら待っても反応が返ってこない。留守なのかと思い始めた時、ふいに自身の背後で漆黒の殺意の色が膨れ上がったのが、視界の端に映る。

 危機を感じ取り、振り返った瞬間。鋭い拳が私の頬を目掛けて迫っていた。

 反射的に右腕でガードしたものの、勢いは殺しきれない。靴底をアスファルトの道路に擦り付け、私はずざざざと後ずさる。突然の襲撃者の正体、そこにいたのは……。


「やっぱり強いなぁ、お姉さんは。私のパンチが防げるなんて、あんたぐらいだよ。実はさ、今日はお姉さんが私に会いに来ると思って、ずっと外で待ち構えてたんだ」


「真奈美ちゃんか、ずいぶんな挨拶だね」


 私の前に立つ真奈美ちゃんの眼光は鋭い。そして今日の彼女の服装は、ミントブルーのノースリーブを動き易そうな青いジーパンで引き締めている。

 素敵な色合いの服装とは異なり、私の共感覚が見せる彼女が纏う感情の色は、殺人も厭わないと感じさせる、どす黒い闇色だ。

 隠しもしない攻撃の意思。もしも私と彼女が本気で激突し合ったらどうなるのだろうか? 彼女の殺意に当てられたのか、私はその結末に純粋に興味が湧いた。

 もしかしたら、彼女の方も同じように考えているのかもしれない。事実、彼女の表情は薄く笑みを湛えている。こちらを挑発するかのように。しかし……。


「私とやり合える相手なんて、今までいなかったからさぁ。これでもお姉さんには、親近感を覚えるんだよ。で、要件を教えてくれない? 多分、例のチェーンメールに関することだとは思うけどね」


 予想に反して、そう言って両腕を下ろす、真奈美ちゃん。たった今まで晒していた殺気の色も、嘘だったかのように完全に掻き消えてしまう。

 それを少し残念に思う辺り、私も喧嘩っ早い性分だなと内心で苦笑する。


「単刀直入に聞いてくれて助かるよ、真奈美ちゃん。実はね、私はある一冊の古本の行方を追ってるんだ。由奈ちゃんが県立図書館で借りたらしいその本。それがチェーンメールが拡散する発端になったかもしれないと、私は考えていてね」


「へえ、古本? 私、これでも読書家だからさぁ。タイトルと背紙のデザインさえ教えてくれたなら、もしかしたら知ってる本かもしれないよ」


 私は真奈美ちゃんの求めに応じてあげた。さっきスマートフォンで撮った画像を開くと、彼女に手渡し、確認してもらう。

 どうやら儀式をする前に亜希ちゃんが撮ったらしい、その画像。由奈ちゃんと一緒に、僅かながら教室の机の上に置かれた古本の外観が映っている。

 由奈ちゃんの話によれば、儀式をしたのは夜の学校。かなり薄暗く、ほんの小さくしか映ってないため、これから調査の取っ掛かりにするには心許ない画像だ。

 響子が県立図書館の司書にこの本のことを問い合わせてみても、題名はオカルト稀覯本であることと、誰かが匿名で寄贈したことしか分からなかったという。

 現状、私達がこの本について把握しているのは、たったこれだけしかないのだ。


「ふーん、これだけじゃあ、よく分からない……かなぁ。ただこの本と関係があるかは分からないけど、さっき届いた私宛てのチェーンメール。ちょっと興味深い内容だったんだよね」


「……チェーンメールか。そういえば、私のスマートフォンにもさっき届いてたな」


 忌避していた思いもあって見るのを後回しにしていた、さっきのメール。私は今になってようやく目を通してみる。

 予想通り、それは差出人不明のあのチェーンメールだった。だが、そこに書かれていた文面を読んだ途端、私は小首を傾げる。

 なぜなら、今まで見聞きしてきたメール内容と毛色が違っていたからだ。


「鳳来恵は秋山真奈美とコックリさんを行い、追い求めるものに近づく過程で、巨漢の暴徒に日本刀で首を斬り落とされて命を落とす……だってぇ?」


 私は思わず、メール文を口に出して読んでしまう。すると、それを聞いていた真奈美ちゃんも、スマートフォンの画面をこちらに向けて見せてくれた。


「ほとんど同じ文面みたいだね。私のとこに来た、チェーンメールとさぁ。だから待ってれば、必ずお姉さんが来ると思ってたんだ。で、どうする? 当然、やってみるんでしょ。虎穴に入らずんば虎子を得ず、って言うしさ」


 真奈美ちゃんはスマートフォンをポケットに仕舞うと、今度は指で摘まんだ一枚の紙をヒラヒラとこちらに見せびらかす。

 『はい』と『いいえ』。『あ』から『ん』までの平仮名。『一』から『十』までの数字と、鳥居のような記号が書かれた文字盤だ。

 オカルト好きなら、あれがコックリさんの儀式に使うウィジャ盤だということは、一目で分かるだろう。

 用意がいいことだと感心した。真奈美ちゃんは私とコックリさんをやるために、ウィジャ盤を準備して待っていたのだ。


「ああ、勿論だ。文面にある私が追い求めるものというのが、あの古本のことだとしたら、大きな手掛かりになる。やらない選択肢はないな」


「決まりだね。今、うちには私以外に誰も居ないからさぁ、遠慮はいらない。さ、入ってよ、長身のお姉さん」


 真奈美ちゃんは踵を返し、外構の門扉を開けて玄関までの道を通っていく。私もすぐに彼女の後に続いた。

 広々とした庭の所々に置かれた植木鉢の観葉植物の匂いが、鼻孔をくすぐる。私に背中を向ける真奈美ちゃんから見える色は、今は淡い桃色に落ち着いていた。

 この無防備さ、私を信用してくれているということだろうか。さっきまで私に対し、殺意を剥き出しにしていた相手とは思えない程だ。

 そんなことを思い巡らしながら玄関の横開き扉を開けて、私達は真奈美ちゃんの豪邸に足を踏み入れる。玄関内も広々としていて、視認性と彩光に優れたガラス張り。

 まるで屋内と屋外が一体化したような開放感を与えていた。


「お父さんは仕事なのかい? それにお母さんは?」


「あのクズ親父なら、浮気相手の女と旅行中。お母さんは、そんな親父の浮気癖に嫌気がさして、ずいぶん前に実家に帰省中。だから、この家には私だけだよ」


「……なるほど、お互い父親には苦労させられてるみたいだな」


 私の方も、母親を幼少期に交通事故で亡くしてからだって、これまで父親から愛情を受けて育った覚えはない。警察の仕事が忙しいのは、勿論、理解している。

 しかし、あの男は幼い私に構ってくれたことなど一度としてなかった。口を開けば、仕事のことばかり。一緒にいても、まるで他人のような距離感だった。

 もしかしたら、私が響子との恋愛に情熱を燃やしているのは、親からの愛情を知らないことの裏返しかもしれない。

 もしあの父親が死んだとしても、果たして私は涙を流せるだろうか。私には、ほとんど他人同然の男なのだ。実際にそうなってみないと分からないが、確実に泣ける自信はなかった。

 私はそんな不謹慎なことを考えつつ、真奈美ちゃんの後ろについていく。

 木目が綺麗なフローリングの床になっている廊下を通り、やがて扉の前で真奈美ちゃんは立ち止まる。


「ここが私の部屋。さ、入って」


「じゃあ、お邪魔するよ」


 真奈美ちゃんに促されて入った途端、私は目を疑った。その部屋の中でまず目についたのは、白壁をメインに、テレビゲームやボードゲーム、小説などが並んでいる鮮やかな色遣いでポップに仕上げた戸棚。

 ……などではなく、目を覆うばかりの床全体に散らばったゴミの数々。

 壁一面の大窓近くにあるブックスタンドが置かれた勉強机の上にも、学校の教科書や文房具などが乱暴に散乱していた。

 壁際にある、寝床のベッドも同様だ。漫画本などが片付けられることなく無造作に放置されている。部屋全体がこんな有様、足の踏み場もないとはこのことだった。


「ちょっと待っててよ。今、テーブルを用意するからさぁ」


 真奈美ちゃんは床のゴミ達を蹴っ飛ばすと、無理やりスペースを作った。そこに簡易テーブルを置いて、折り畳まれていたウィジャ盤をその上で広げる。

 そして財布から取り出した十円玉を紙の上に放ると、私に座るように言った。


「さあ、始めるよ、お姉さん。チェーンメールの予告通りなら、私達でコックリさんをすればきっと何かが起こるはずだからさ」


「ああ……けど、凄い部屋だな。この散らかりよう、年頃の女子の部屋とは思えないぞ。まあ、私も人のことは言えないが」


 がさつなのは、私だって同じ。その私と比べても酷いが、口にはしなかった。他人の私生活に口出しするより、今はコックリさんをするのが先決だ。

 儀式によって本当にあの古本の在り処に関するヒントが見つかるなら、呪いが降りかかるリスクを冒すことなど目を瞑ってもいい。由奈ちゃん達を救えなかった怒りがあるためかもしれないが、不安も恐れも感じなかった。

 私と真奈美ちゃんは、ウィジャ盤上の十円玉に一指し指を添える。そして互いの目を見て意思を確認し終えた後、コックリさんを呼び出す言葉を口ずさみ始めた。


「コックリさん、コックリさん、どうぞおいでください。もしおいでになられましたら、『はい』へお進みください」


 私達は、揃ってコックリさんに語り掛けた。この定番の行為に昔の記憶が蘇る。

 コックリさんをやるのは中学生の頃以来だろうか。交霊が成功したなら、指を動かさなくても十円玉は勝手に『はい』へと移動してくれる。

 動かない場合は、何度も呼びかけるのだ。しかし、その心配は杞憂だった。十円玉は私達の意思によらず、すぐに独りでに動き始めたのだから。

 ふざけ半分でやってはいけない。硬貨から指を離してはいけない。コックリさんのことを聞く質問をしてはいけない、などのルールがあるのは知っている。

 だが、こんな儀式に時間をかける気など、最初から毛頭ない。だから私は躊躇うことなく、直球で質問することにした。


「コックリさん、お前の目的は何だ? 一体どうして呪いのチェーンメールを拡散している?」


 私の問いに十円玉は反応し、文字の場所に動き始める。やがて十円硬貨によって紡がれた言葉は……。


「ふ、く、し、ゅ、う……? 復讐、ってことか。じゃあ、今度はお前が何者なのか、正体を答えてくれないか?」


 しばしの間、十円玉は動きを止めた。時間にして数分間は経過しただろうか。諦めて次の質問をしようとした時、再び硬貨は移動を始めた。


「ほ、う、ら、い、め、ぐ、み……だってぇ?」


 コックリさんが指し示したのは、私の苗字と名前だった。しかし、私が黒幕である訳はないことは、私自身がよく知っている。

 非難の言葉をぶつけようとした時、まだ硬貨の動きが止まっていないのに気付く。そこから更に続けて紡ぎ出されたのは……。


「お、ま、え、と……こ、い、び、と、を……こ、ろ、す。……わ、た、し、を、み、つ、け、て、み、ろ。……お、ま、え、が、の、ぞ、む、も、の、の……あ、り、か、ま、で、は……」


「わ、た、し、が、……あ、ん、な、い、し、て、や、る?」


 私と真奈美ちゃんが声を重ねて、コックリさんが指し示した言葉を呟いた。

 私に対する、明確な宣戦布告だ。いや、それよりも何よりも、よりによって恋人の響子にまで触れやがったことに、私は怒りを隠し切れず逆鱗に触れる。


「私を殺せるものならやってみろ、糞野郎っ! それに響子まで巻き込もうっていうなら、どこに逃げ隠れしようと必ずお前に死という報いを与えてやるからなっ!」


 私が叫んだ、瞬間だった。突然、指で押さえていた十円硬貨が頭上を越えて力強く弾け飛ぶ。二片に割れた十円玉は天井近くまで舞い上がってから、床に叩き付けられ、破片がコロコロと転がっていった。

 急激に硬貨が砕け割れたせいで、一指し指が少し痛んで痺れている。落ち着け、落ち着け。そう言い聞かせてみても、今の私は内心それどころじゃなかった。

 チェーンメールを拡散している黒幕が、響子に危害を加えようとしているのではないか。そんな危惧感が、胸中に纏わりついて離れてくれなかったのだ。


「……響子っ。くそっ、彼女に何かあったら、私は……」


 私にとって響子がどれだけ大きな存在か、改めて気付かされる。そう、私は彼女に強く依存しているのだ。最初は対等な関係になろうと思っていた。

 しかし、現実はそうなれなかった。幼い頃に他界した母からも、父からも愛されなかった私にとって、無償の愛を与えてくれる彼女は、姉であり母でもある。

 ただの無知な家出少女に一人の人間として接してくれて、探偵事務所を開く際の保証人になってくれたのも響子だ。彼女がいたからこそ、今の私がいる。

 だから、失いたくない、失うなんて考えられない。響子が私の前からいなくなったら、寂しくて生きてけないから。もう他の誰にも、心を許せる自信もないから……。

 今すぐ彼女の元に駆けつけたいと思った。たとえ仕事を放棄してでも。


「あぁああっ……!! 待っててくれ、響子っ! 今すぐそっちに向かう!」


 頭を両手で抱えた私は、弾かれたように真奈美ちゃんの部屋を飛び出していた。そんな私の背後から、真奈美ちゃんが追ってくる足音が聞こえる。

 そして彼女は走っている私の肩を掴み、振り向かせた後に、床に押し倒してきた。


「落ち着きなよ、長身のお姉さんさぁ。敵は呪いなんて超常現象を扱う常識が一切、通じない相手なんだよ。確かにあんたは、学校の暴動からは生き残った。だけど、それは平常心だったから。今のあんたじゃ、死ぬよ? 間違いなくね」


「お前に何が分かるんだっ。響子は私の恋人で、姉で母親でもあるっ。離せっ、私は彼女の所に行かなくちゃならないんだっ!」


「黙りなよ、お姉さんさっ! 止めるつもりはないよ、ただ私も一緒に連れて行ってくれればいいだけ。危険が迫ったら、冷静さを欠いてるあんたをぶん殴ってでも正気に戻してやるつもりだからさぁ!」


 私は私を組み伏せる真奈美ちゃんの両目を、真っ直ぐに見た。そこには彼女を象徴するような狂気の光は宿っていない。

 むしろ、懸命に私を心配している、思いやりの明るい色が宿っていた。これまで抱いていた好戦的な彼女のイメージを覆してしまう程の、優しい色彩だ。

 そんな彼女を見て、私はハッとしてしまう。徐々にだが、私は冷静さを取り戻していく。


「これは私の推論だけどね。呪いの発端は、確かに死んじゃった由奈と亜希の二人だったかもしれない。けど、呪いを周りに拡散させてしまった原因は私にあるかもしれないんだよ。知ってるかなぁ、お姉さん? チェーンメールで予告されていた事象を覆した時に、何が起きるかを」


 私は抵抗する力を弱めて、真奈美ちゃんの言葉に耳を傾けた。そして同時にその言わんとしている意味を考え、思い出し始める。

 最初の出来事、由奈ちゃんを救った際に何が起きたのか。確かあの時は、小学生の男児が命を落としてしまっていた。それもまるで彼女の身代わりのような形で。

 更に、そのすぐ後だ。今度は彼女に関わった私に対しても、チェーンメールが送られてきたのは……。


「まさか……呪いの負債を、他人がおっかぶっているのか。しかも、その際に関係してしまった人間に、次々とチェーンメールを拡散させて」


「そういうことだよ。察しがいいね、お姉さん。私が予告を切り抜ける度に、他の人間に不幸がいくんだ。でも、身近にいる人間だけじゃないよ。ニュースで知った犠牲者もいてさぁ。寝覚めが悪いったらないんだよ。だから、お姉さんもこのまま一人で行かせる訳にはいかない。これ以上の罪悪感を味わうのはごめんだしさ」


 真奈美ちゃんは、私よりも先に呪いを受けた当事者だ。数々の呪いを体験してきたことで、その特性に身を以て、気付いていたんだろう。

 私も数回とはいえ、これまで予告を覆してきた身だ。しかし、私が回避したことによって、別の誰かが呪いをおっかぶっていたと考えると、確かに気分は良くない。


「……礼を言わなきゃならないみたいだな。私が死んだら、響子を守る者が誰もいなくなる。君のお陰で目が覚めたよ。どいてくれ、もう大丈夫だから」


「落ち着いてくれて安心したよ、お姉さん。大丈夫。私とお姉さんなら、呪いの連鎖を止められるよ、絶対さぁ。だって、私達は呪いなんかよりも強いんだしね」


 仰向けの私を組み敷いていた真奈美ちゃんは、私から手を離して立ち上がる。続けて身を起こした私も、服装の乱れを整えた時には、平静さを取り戻していた。

 響子が心配なのは今も変わらない。焦りの気持ちも消えた訳じゃない。しかし、気が急いたためにしくじっては、本末転倒だ。

 呪いというものが絡む今回の事件は、石橋を叩き過ぎるということはない。慎重に行動し、最良の選択肢を選んでいかなくてはならないのだ。

 私はスマートフォンを取り出し、努めて落ち着いて響子に電話をかけた。しかし、いつまでも繋がらない。だから私は早々に切り上げ、次の手に移ることにした。


「車に乗ってくれ、真奈美ちゃん。これから響子の探偵事務所に向かう」


「オーケー。ついていくよ、お姉さん」


 私達は廊下を抜けて急いで玄関を出ると、愛車のアクアに乗り込む。そして鍵を差してエンジンをかけて、鷹羽探偵事務所へと走らせようとした時だった。

 そんな私の車の前に、一匹の黒猫が立ちはだかる。それも全身にどす黒い靄を纏い、こちらを殺気立った目で睨んでいた。

 夢でも幻でもない。ちゃんと実体を伴った、実在する生身の黒猫だ。


「また黒猫か……ことあるごとに現れる。さすがに偶然じゃ片付けられないな」


 私が呟くと、黒猫は踵を返して、向こうへ歩き出す。どうするか、私は迷った。

 あの闇色に覆われた黒猫が、今回の事件に関係しているのは明らかだ。そしてさっきやった、コックリさんの内容を思い出す。

 響子のことだけで頭が一杯だったが、最後に私が望むものの所まで案内してくれるとも指し示していた。ということは、あの黒猫は案内役だということだろうか。

 こんな時、響子だったらどう判断するだろう。きっと……いや、間違いなく目の前の手掛かりを、みすみす逃してしまう愚は犯さないはずだ。

 今、この瞬間。ここにいないはずの響子が、背中を押してくれている気がした。苦渋の決断だったが、私はすぐに心に決めて、車から降りる。


「真奈美ちゃん、すまないが、これからあの黒猫を追跡してみたい。少しだけ待っていてくれないか」


「はあっ? 呑気に猫なんかを追うってさぁ。大切な人の安否を確かめたかったんじゃないの、お姉さん」


「ああ、分かってるよ。今だって響子のことは、心配で仕方がない。けど、あの黒猫……何度も私の前に現れて、何かを伝えようとしている意思を感じるんだ。きっと事件とも繋がってるはず。すぐに戻るから、車の中にいてくれ」


 真奈美ちゃんは、意味が分からないという顔だったが、私は走り去っていく黒猫を追って駆け始めた。

 すると、共感覚が見せるどす黒い靄に覆われた黒猫は、こちらを振り向く。そして私がついて来ているのを確認すると、再び道順を教えるように駆け足で走り始めた。

 猫の顔の違いなど分からないが、やはり私が飼っている黒猫とは別個体だということだけは分かる気がした。なぜなら、鳴き声が違って聞こえるのだから。

 あの黒猫についていった先に、何が待ち受けているのか。もしこれが罠で危険が伴うとしても、事件の手掛かりが掴めるのならば望む所だった。

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